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私たちはなぜ税金を納めるのか

どうも、犬井です。

今回紹介する本は、諸富徹先生の著作「私たちはなぜ税金を納めるのか」(2013)です。私たちが税金をイメージするとき、「できれば負担を減らして欲しい」「公共サービスの充実のために政府から徴収されるもの」といった、消極的・強制的なニュアンスがつきまといます。にも関わらず、なぜ、私たち税金を納めるようになったのでしょうか。本書では、主に3つの租税観から説明されています。そうした租税観を中心に、本の内容を書き綴っていきたいと思います。

「家産国家」から「租税国家」への移行

「家産国家」とは、基本的には国家の財政を、国家が保有する財産(=「家産」)収入だけで賄うことができる国家である。
「租税国家」とは、国家の保有財産だけではその支出を賄うことができず、主として租税財源に依存して国家財政を運営する国家を指す。

欧州諸国の歴史を注視すると、17世紀から19世紀にかけて多くの国が、家産国家から租税国家へと移行した。

その背景にあるのは「戦争」である。いつの時代にも戦争にはお金がかかる。戦争のための軍事費と、国家運営のための官僚機構の維持のためには、王室財産収入だけでは支出を賄えなくなり、財源獲得のために租税収入に訴えざるをえなかった。

また、ここから絶対王政に陰りが差し始める。課税とは個人の私有財産に介入するので、財産保有者の合意、具体的には議会の承認が必要となる。ここに、絶対王政の維持のために議会民主主義を導入し、その承認手続きを経らなくてはならないという、絶対王政にとっての根本的な矛盾がある。

その矛盾は、議会と王政の闘争となって顕在化し、絶対王政は議会が主導する制限王政や共和制にとって代わり、国家財政のコントロールは国王から議会に移っていった。

その結果、租税は最初こそ領主の目的のために徴収されたが、次第にそれ以外の目的でも使われるようになり、国家の一般的な歳出を賄う財源として定着していく。

「権利」としての租税

私たちはなぜ税金を納めるのか。その問いに対し、イギリスのトマス・ホッブズとジョン・ロックは「租税とは、国家が私たち市民に提供する生命と財産の保護、この二つの便益の対価である」と答える。これは、現代に生きる私たちにとっては当たり前で、あまり目新しい論理とは思えないかもしれない。

しかし、彼らの思想の革命的意義は「国家の担い手」像の転換にあった。

国家の担い手は神でもなく、神に権限を当てられた王でもない。それは市民なのだ。国家の主体が市民に移り、彼らは、「生命と財産の保護」は、上から恩恵として与えられるのでなく、自ら勝ち取ったものだと考えるようになった。

租税を国家権力による「苛斂誅求」とみる受け身の倫理から、市民がその必要性を自覚して負担する「自主的納税倫理」への転換が生じた。市民が税金を納めるのは、あくまで国家が生命と財産を保護する限りにおいてであり、もし国家が逆に市民の生命と財産を脅かすならば、市民は納税を停止するだけでなく国家を転覆させ、新しい政府で持ってそれに代える「革命権」を保持するとされた。

こうしてホッブズとロックは、社会契約論に基づく国家論を樹立し、同時に、近代国家における租税に正当性を付与した。

これと対をなすのが、ドイツのヘーゲルやシュタインのような「租税とは、国家が市民から強制的に調整するもの」とする「義務」としての租税観である。

「義務」としての租税

ホッブズやロックの理論は、自由で平等な個人を出発点とし、社会契約を経て、国家の創出を説明する「原子論的・機械論的国家観」に基づく。ここでは、個人が国家を作るため、国家が死滅しても個人は残る

一方で、ドイツのヘーゲルやシュタインの理論では、個人が国家を作るのではなく、市民社会と国家があたかも生命体のように一体をなしているとする「有機的国家観」に基づく。

「有機的国家観」において、個人は各々生産と消費を展開するが、そのために不可欠な基盤整備を行うのは国家であるから、個人は国家なしにやっていけない、一方、国家はその経済的原資を個人が負担する税に負っているので、国家もまた個人なしにはやっていけない。ここでは、国家と個人は一種の運命共同体である。

こうした国家観が、納税を「権利」というよりも、むしろ各個人が「義務」として担うべきだとする租税倫理観の前提となった。

「政策手段」としての租税

租税を「権利」と考えるか、もしくは「義務」と考えるかの相違について言及してきた。ただし、国家の側からすれば、いずれも、主に税を「財源調達手段」として位置づけているという点で共通していた。

ここでは税を「財源調達手段」というよりは、資本主義がもたらす問題を解決するための「政策手段」として捉えてみる。

資本主義的な経済システムが直面する難題は大別して4つある。景気循環(恐慌)、失業、社会不平等(貧困)、そして少数の巨大企業が市場を支配する独占・寡占の問題である。

こうした問題を解決するために、実際に税制の調整が行われた例を挙げれば、世界恐慌時のニューディール税制である。

世界恐慌が起こった1929年において、アメリカには三十万社以上の非銀行業会社があったにも関わらず、そのうちの200社、つまり全体の0.07%にも満たない企業が、株式会社のすべての富の約半分を所有していた。

上の独占・寡占を解決するために、所得税、法人税の最高税率の引き上げと、相続税を組み合わせることによって解決を試みた。

結果として、この税制は、第二次大戦後のアメリカが格差の拡大を抑えつつ、高度経済成長と福祉国家化を支えることに繋がった。

グローバル化の世界の中で

1980年代以降、経済のグローバル化や金融化の進展といった資本主義社会の変貌に伴って、世界の税制は変遷を遂げてきた。課税権力としての国家は、移動性の高い所得源に対する課税能力を徐々に喪失しつつあり、移動性の低い税源への依存度を高めてきた。

具体的には、所得税のフラット化と法人税の引き下げ、その代わりに社会保険料や消費税などの労働や消費への負担が増大した。

税制が格差税制機能を失いつつある今、国内での支出のあり方を再考するとともに、国際的な協力も必要になっていくだろう。

あとがき

この本の中には、「消費税」や「所得税」、「法人税」の歴史や国際公共財を負担する「トービン税」の議論など、ここでは書けなかった、非常に興味深い内容が記されています。また、これは個人的な関心ですが、今話題の「MMT(=現代貨幣理論)」が財源というはしごを外した時、つまり政府資金と租税の接続が切れた時、私たちの納税倫理はどうなるのか。また、MMTは「租税貨幣論」を理論の柱として、ある意味では国家の暴力性を了承しているにも関わらず、なぜ左派の理論として扱われるのか。これらの問いについて、自分なりに考える良い機会になりました。

では。

#読書 #推薦図書 #税金 #納税 #諸富徹

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