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頭から離れない「診断」(1)

長男との親子関係について悩んでいた頃、「診断があったら受け入れやすくなりますか」と言われたことがひっかかり、発達に関しての診断とは何の目的で誰のために必要なのか改めて考えてみたいと思った。


そんな時、『当事者研究の誕生』に出会った。著者自身が自閉スペクトラム症の診断を受けておられるそうで、診断を得た後に次の様な経験をされている。

綾屋(著者)が自身の特徴の承認を得て安堵しているのとは裏腹に、綾屋の当時の配偶者は希望を失っていた。家の外だけでなく内でも働けない綾屋に対して不満をつのらせていたところに加えて、その原因を解釈する文脈として、改善の余地がないと思われる「障害」という概念が到来したからである。

『当事者研究の誕生』(p.194)

著者のケースでは、診断が当事者にはプラス、当時の家族にはマイナスとなったようだ。ただし、著者は診断はプラスでありつつも障害が当事者の〈中〉にあるという観点からの診断については異議を唱えている。

「多数派向けのコミュニケーション様式こそが”中立”なものであり、そこから逸脱した人々をコミュニケーション障害として”客観的”に診断できる」と捉える多数派による自閉スペクトラム症研究の前提を批判し、当事者の視点から自閉スペクトラム症概念を再構築した筆者自身の当事者研究と、多数派のコミュニケーション様式自体を客体化するソーシャル・マジョリティ研究について詳述する。

『当事者研究の誕生』(p.8)

この本では、ASDの中核的な定義とされる「複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的欠陥があること」について、人との<間>で生じているのだから、コミュニケーション障害の人とそうでない人がいるかのような考え方はおかしいと問題提起している。

自閉スペクトラム症の学生や研究者への 合理的配慮と基礎的環境整備(p.42)

自閉スペクトラム症の学生や研究者への 合理的配慮と基礎的環境整備


そして、障害と言った時には通常バリアフリーを社会全体で進めていくのと同じように、コミュニケーションに関する障害についても、個人が背負うべき問題と、社会主導でバリアフリーを進めるべき部分を特定して明確にしようと試みている。

ただ、もしこの本を最後まで読まなかったなら、当事者は被害者で、社会が加害者といったトーンで書かれているような印象を受けるかもしれないと思う。私自身、途中で真意が分からなくなり何度か混乱している。

「障害とは、個人の身体的特徴に見出されるものではなく、個人の身体的特徴にそぐわない社会的デザインによってもたらされているものだ」(p.5)

他社との「関係性」を個人の障害とする自閉症の診断概念に納得できずにいた(p.196)。

障害は個人の身体に宿るのではなく、社会環境側を変化させることで障害は消えると捉える(p.196)。

『当事者研究の誕生』

他者との「関係性」を個人の障害とすべきではないという考え方

まず、上記の引用部分について、他者との「関係性」を個人の障害とすべきではないことはその通りだと思った。しかし、社会環境側を変化させることで障害が消えることについては、一体「社会」が何で、具体的にどのような変化を意図しているのかもう少し詳しく知りたいと思った。

なぜならASD者にとってのバリアフリー(障害は消える)と言った時、そのバリアは他でもない「人」ではないかと思ったからだ。相手の方を変化させる、ないし相手をバリアと見做しているとしたら、障害は個人の身体に宿るのではないとする主張とも矛盾しているように思った。

著者は他にも「帰責」という言葉を使って、診断について次のように述べている。

実際は排除してくる社会に帰責すべき現象を、個人の特徴に帰責することを可能にする言説資源として機能し得るものになっていると考えられるのである。

『当事者研究の誕生』(p.196)

なお、著者は次のようにも述べられている。

■アスペとDV?コミュニケーション障害ってなんだ!?

アスペルガー症候群と診断されたときは、小さいときから何なのかわからなかった自分の困難について、説明してくれる文脈をようやく見つけたという感覚があり、自分にとっては大きな救いとなりました。

でも夫との関係においてアスペの文脈は決して救いにはならなくて、むしろ「夫婦関係のこじれは、お前のコミュニケーション障害のせいだ」という風に使われるようになりました。それで、「あれ!?また何かおかしなことになってる」と思い、発達障害とDV、それぞれの問題を切り分けるために、両方知っていく必要に迫られました。その過程で見えてきたことをもとに、『発達障害当事者研究』(医学書院)と『前略、離婚を決めました』(理論社)の2冊ができました。

『発達障害当事者研究』で「アスペルガー症候群をコミュニケーション障害であると定義しない」というところから始めたのも、コミュニケーション障害を引き受けると、DVも含めたコミュニケーションのすれ違いを全部こっちのせいとして引き受けることになりかねないからです。そもそもコミュニケーションは両者の間に起こるものなのに、「コミュニケーション障害」という言葉で一方に帰責することができるはずがない。それなのに専門家がコミュニケーション障害という概念を用いることへの違和感が強くありました。私はたしかに人の輪の中には入れないことが多いけど、その時に私の中で何も考えていないわけではないし、考える筋道というのはすごくある。それなのに全然わかっていない人と言われるのが気に食わない。そもそもコミュニケーション障害というと、なんか手のつけ様がないほどに破綻してる印象があるじゃないですか(笑)。でもそんなことなくて、ちゃんと法則が自分の中にあるんです。そこに関しては専門家より私の方が知っていると思うし、この専門家の分析は違うとか、こういう風に見えるかもしれないけど、それはこうだからだよっていうのをまとめて『発達障害当事者研究』ができました。

綾屋紗月インタビュー:発達障害とドメスティックヴァイオレンス--コミュニケーション障害って何だ!?

ここでは「一方に帰責することができるはずがない」とありつつも、著書の中では「社会に帰責すべき現象」「社会環境側を変化させることで障害は消える」と書かれており、私はこの時点で一度混乱している。

変に誤解したまま書きたくないと思い、著者や、他の当事者研究をされている方の動画も拝聴してみたところ、私が聴いた限りでは、社会が悪いと言い切るものではなく、あくまで当事者と社会との<間>に障害があるが、それを取り除く責任は社会全体にあるとするものが多かったように思う。

ただ、社会が全部悪いと思わずにはいられない時期も過去を振り返ればあったと述べておられる方もいた。

例えば「社会が全部悪い」の意味としては、移動に不自由を感じている人が、バリアフリーさえ完備されていれば自分は不自由しなくて済んだはず、よって、社会のせいで不利益を被っていると感じるイメージではないかと思う。

ここで、物理的な障害についてはイメージしやすいことに気づく。バリアフリーを達成していない社会側に障害があり、それを取り除く責任も社会にあるとするこの考え方は社会モデルに基づいた考え方だ。障害の医学(個人)モデル社会モデルというものがあるが、医学モデルが困難に直面するのは本人に障害があるからと捉えるのに対し、社会モデルは社会の側、あるいは当事者と社会との間に障害が存在すると考える。

「社会の側、あるいは当事者と社会との間」と2パターンあるのは、下にあるように、イギリス型社会モデルと、アメリカ型社会モデルの2パターンあるためではないかと思っている。

崔栄繁氏の講演ー障害者差別解消法の改正と事業者に求められる役割

以下は、アメリカ型社会モデルで説明している例だと思う。

障がいの社会モデル (p.5)

障がいの社会モデルより

「医学モデル」と「社会モデル」

イギリス型とアメリカ型の社会モデルの違いを考える前に、まず医学モデルと社会モデルの違いを押さえたい。両者が比較される際、物理的な障害が例として使われることが多い印象だ。物理的障害の場合、社会モデルが適切であることが容易に示しやすいからではないかと思う。

障がいの社会モデル (p.5)

障がいの社会モデルより

上記図解の様に合理的配慮の結果、バリアフリーやユニバーサルデザインが達成されれば、多種多様な人が恩恵を受けられる。

一方、ASD者の以下の定義について、人的環境のバリアフリー化とはどのようにすれば達成できるのだろか。原因自体が個人の中にはなく、人との<間>にあると読み替えたとして、物理的障壁ほど容易には解決方法が思いつかなかった。

複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的欠陥があること

ASD(自閉スペクトラム症、アスペルガー症候群)について

ちょっとしたすれ違いも含めてコミュニケーションの問題は誰しもに起こり得ることであり、診断に囚われすぎずとも良い気までしてきた。さらにどちらに「帰責」すべきかという悩ましい問題をどう判断するのかはさらに難しいことだと思った。

果たしてこれが診断一つで解決するのか。また診断がないと解決しないのか、色々と考えてしまった。

(2)につづく