頭から離れない「診断」(1)
長男との親子関係について悩んでいた頃、「診断があったら受け入れやすくなりますか」と言われたことがひっかかり、発達に関しての診断とは何の目的で誰のために必要なのか改めて考えてみたいと思った。
そんな時、『当事者研究の誕生』に出会った。著者自身が自閉スペクトラム症の診断を受けておられるそうで、診断を得た後に次の様な経験をされている。
著者のケースでは、診断が当事者にはプラス、当時の家族にはマイナスとなったようだ。ただし、著者は診断はプラスでありつつも障害が当事者の〈中〉にあるという観点からの診断については異議を唱えている。
この本では、ASDの中核的な定義とされる「複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的欠陥があること」について、人との<間>で生じているのだから、コミュニケーション障害の人とそうでない人がいるかのような考え方はおかしいと問題提起している。
自閉スペクトラム症の学生や研究者への 合理的配慮と基礎的環境整備
そして、障害と言った時には通常バリアフリーを社会全体で進めていくのと同じように、コミュニケーションに関する障害についても、個人が背負うべき問題と、社会主導でバリアフリーを進めるべき部分を特定して明確にしようと試みている。
ただ、もしこの本を最後まで読まなかったなら、当事者は被害者で、社会が加害者といったトーンで書かれているような印象を受けるかもしれないと思う。私自身、途中で真意が分からなくなり何度か混乱している。
他者との「関係性」を個人の障害とすべきではないという考え方
まず、上記の引用部分について、他者との「関係性」を個人の障害とすべきではないことはその通りだと思った。しかし、社会環境側を変化させることで障害が消えることについては、一体「社会」が何で、具体的にどのような変化を意図しているのかもう少し詳しく知りたいと思った。
なぜならASD者にとってのバリアフリー(障害は消える)と言った時、そのバリアは他でもない「人」ではないかと思ったからだ。相手の方を変化させる、ないし相手をバリアと見做しているとしたら、障害は個人の身体に宿るのではないとする主張とも矛盾しているように思った。
著者は他にも「帰責」という言葉を使って、診断について次のように述べている。
なお、著者は次のようにも述べられている。
ここでは「一方に帰責することができるはずがない」とありつつも、著書の中では「社会に帰責すべき現象」「社会環境側を変化させることで障害は消える」と書かれており、私はこの時点で一度混乱している。
変に誤解したまま書きたくないと思い、著者や、他の当事者研究をされている方の動画も拝聴してみたところ、私が聴いた限りでは、社会が悪いと言い切るものではなく、あくまで当事者と社会との<間>に障害があるが、それを取り除く責任は社会全体にあるとするものが多かったように思う。
ただ、社会が全部悪いと思わずにはいられない時期も過去を振り返ればあったと述べておられる方もいた。
例えば「社会が全部悪い」の意味としては、移動に不自由を感じている人が、バリアフリーさえ完備されていれば自分は不自由しなくて済んだはず、よって、社会のせいで不利益を被っていると感じるイメージではないかと思う。
ここで、物理的な障害についてはイメージしやすいことに気づく。バリアフリーを達成していない社会側に障害があり、それを取り除く責任も社会にあるとするこの考え方は社会モデルに基づいた考え方だ。障害の医学(個人)モデルと社会モデルというものがあるが、医学モデルが困難に直面するのは本人に障害があるからと捉えるのに対し、社会モデルは社会の側、あるいは当事者と社会との間に障害が存在すると考える。
「社会の側、あるいは当事者と社会との間」と2パターンあるのは、下にあるように、イギリス型社会モデルと、アメリカ型社会モデルの2パターンあるためではないかと思っている。
以下は、アメリカ型社会モデルで説明している例だと思う。
「医学モデル」と「社会モデル」
イギリス型とアメリカ型の社会モデルの違いを考える前に、まず医学モデルと社会モデルの違いを押さえたい。両者が比較される際、物理的な障害が例として使われることが多い印象だ。物理的障害の場合、社会モデルが適切であることが容易に示しやすいからではないかと思う。
上記図解の様に合理的配慮の結果、バリアフリーやユニバーサルデザインが達成されれば、多種多様な人が恩恵を受けられる。
一方、ASD者の以下の定義について、人的環境のバリアフリー化とはどのようにすれば達成できるのだろか。原因自体が個人の中にはなく、人との<間>にあると読み替えたとして、物理的障壁ほど容易には解決方法が思いつかなかった。
ちょっとしたすれ違いも含めてコミュニケーションの問題は誰しもに起こり得ることであり、診断に囚われすぎずとも良い気までしてきた。さらにどちらに「帰責」すべきかという悩ましい問題をどう判断するのかはさらに難しいことだと思った。
果たしてこれが診断一つで解決するのか。また診断がないと解決しないのか、色々と考えてしまった。
(2)につづく