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私が幸せに生きられない理由を本気で考えてみる


本当の自分を好きになれない︎

自己肯定感が低い事が私が幸せに生きられない最大の理由だと、カウンセリングを受けながら何度も感じた。なぜ本当の自分を好きになれないのか、どうしたら自分を好きになれるのかを先ずは考えていく。

◾︎本当の自分がクソすぎた

物に当たる
驕り高ぶっている
しょうもない嫌がらせをする
相手の気持ちを考えられない

どんな風にクソなのかを書き出してみた。細かく書くと沢山あるが、わかりやすく大きな特徴だけをあげることにする。
これらは基本的に小学生〜高校卒業の間に自分が誰かにしてしまっていた事だ。当時はそれがいけない事だと思わなかった。どれもクソだが、対人関係において酷かったのは『物に当たる』『相手の気持ちを考えられない』の2つ。前者に関しては後程触れようと思っているのでここでは後者の『相手の気持ちを考えられない』に触れていく。

例えば、相手が何かを私に相談してきた時に、いつも「私だったらこうするけどね」を押し付けていた。
相手は『私がどうするか』ではなく『相手が困っている現状から抜け出すにはどうしたらいいか』を知りたいはずなのに、相手の気持ちを汲み取ろうともせずに自分の考えを押し付ける。
自分と他人は違う。
自分が出来る事が他人が出来るとは限らない。
人それぞれ自分に合ったやり方がある  
それがわかっていなかったのだ。

そんな自分がクソだと気がついたのは高校時代、一定数の人間から嫌がらせを受けた事がきっかけだった。最初は単純に「嫌だなぁ、辛いなぁ」くらいにしか思っていなかったが、その嫌がらせが2年くらい続いた頃にふと、「いや、でも自分も過去に人に対して嫌がらせしてたじゃん。それが自分に返ってきただけの話なのに、いざ自分の番になると辛いとか自分勝手すぎるでしょ」と思うようになったのだ。
さすがに私は人の椅子に“陰キャ”だなんて落書きをするレベルの嫌がらせは他人にはしなかったが(これは私が実際に受けた嫌がらせ)、大人しめの子が発表で当たった時に、笑って「やば笑」なんて言ってしまう事はちょくちょくあった。因果応報、自分がクソすぎるから周りに嫌われるんだ そう思うことによって、嫌がらせを受けている現状を受け入れる事ができた。

◾︎自分を演じている

クソすぎる自分のせいで、自分は辛い思いをした。クソすぎる自分を直さないと自分は一生辛い思いをする事になる。そして、理想としている人間を演じるという方法に辿り着いた

理想としている人間とは、クソな自分をひっくり返したような
理性的にものを考えられる
謙虚ではあるがしっかりと芯がある
相手の気持ちを考えられる、相手の言って欲しいことを言える(的確なアドバイスができる)

ような人の事だ。
理想としている人間を演じることにより、演じている自分が好きになるし、周りも私に対して嫌がらせをしてこなくなる。結果的に自分が傷つく事も無い。
その一方で、演じている自分が好きになればなるほど、本当の自分(クソな自分)がどんどん嫌いになっていくのだ。演じる自分と本来の自分に矛盾が生じれば生じるほど、本当の自分が受け入れられなくなる。

◾︎改善するためには

本当の自分を好きになれない…これを改善するためには以下の2つの方法があると思っている。

方法① 本当の自分を受け入れる

・クソな自分を受け入れる
→クソでもなんでも自分は自分なんだから、クソな自分を愛してるあげられるのは自分くらいしかいない。自分が見限ったら誰がクソな自分を受け入れてくれるのか。

・クソな自分を認めてあげる
→クソな自分の良いところを見つける。そしてそこを認めてあげる。
驕り高ぶる=自分に自信がある
自分の気持ちを押し付ける=自分の中にしっかりと考えを持っている、否定されることを怖がっていない等

この方法は本当の自分を受け入れる事はできるかもしれないが、前みたいに他人からは嫌われる。人が寄り付かなくなる。自分だけは自分の味方でいる・決して自分のことを裏切らない・この世の全員に嫌われても気にしないで強く生きる…という強い意思が必要。

方法②偽りの自分を本当の自分にする

・嘘も百回言えば真実となる
→理想とする自分を演じ続けて己の身に染み込ませる。脳が「これが本当の自分なんだ!!」となってくれる。(多分…)

この方法は方法①よりもかなり努力が必要。自分に無いものを自分の中に生み出すという事だから、かなり苦しいと思う。また、本当の自分を見失ってしまうからそこでもまた苦しみが生まれる。本当の自分と決別する強い意志が必要。ただし乗り越える事が出来れば①よりも良い人生が待っている。
理想の自分を演じている今でも、心の中では自分の考えを相手に押し付けてしまってはいる。しかし口には出さない。大事なのは実際に押し付けない事にあると思うから。

◾︎結論

本当の自分がクソすぎるため本当の自分を好きになれない。また、それを改善するために理想とする自分を演じているとますます本当の自分を嫌いになっていった。
しかし、理想は理想のままである。理想は現実ではないから理想なのだ。だから今の自分は苦しい。理想を現実にするために努力をするか、現実を受け入れないとこの問題は解決しない。
以上のことから、本当の自分を好きになれない事が幸せに生きられない理由の一つだと結論付ける。


愛に対する認知の歪み

私はこの世に無条件な愛が存在すると思っている。無条件の愛を与えられない私は価値のない人間・無条件の愛すら与えて貰えない程のクソみたいな人間だという思考に陥り、結果的にネガティブになってしまう。無条件な愛とは何か?愛が自分に与える影響とは?

◾︎無条件な愛について

それは家族・恋人から与えられる愛だと私は考えている。友人からの愛は無条件では無いのか?なぜ家族と恋人限定なのか?

私が思う無条件な愛とは何か。それは無条件にこの世に生まれた人間の事を肯定し、愛する気持ちの事だと思っている。
その人がこの世に生を受けた、それ自体に心のそこから祝福し感謝する気持ちだ。親から子への愛情と似ていると思う。私は子供をもったことがないからわからないが、人が人を生むという行為は、そこに愛がないと生まれない。(堕胎に対する私なりの見解もあるが、ここで書くと長くなるため割愛)
そして唯一、他人から家族になる事ができる存在が恋人なのだ。家族になれるからこそ、そこに無条件の愛が生まれる。だから友人からの愛と、家族や恋人からの愛は種類が違うのだ。

私は今までずっとそう考えていた。
しかし、そもそもこの考え自体が間違っているのでは?だから苦しくなるのでは?愛に対する認知の歪みがあるのでは?

◾︎家族からの愛

先程、無条件の愛とはこの世に生まれた人間の事を肯定し愛する気持ちと定義づけたが、そこで「ではこの世に生を受けた時点で誰しも無条件の愛を受けているのでは?」という疑問が生まれる。実際に私もそう思っている。しかしそれは、生まれたその瞬間のみ有効な無条件の愛である

私は両親の仲が悪い。
仲が悪い者同士が作って生まれた子に愛は存在しない。人同士が人を望んだから生命が誕生する。しかし、その人同士がその後愛し合わなかったら?生まれた瞬間以降、その子供に愛は存在しないのではないか?寧ろ嫌いな人の血を引いた人間というものは、穢らわしい存在なのではないか?私という存在は、1人の人間が親になりたいが為だけに生まれたただのエゴなのではないか?
私はいつからかそう思うようになった。

しかし、ここに認知の歪みがあるのかもしれない。そもそも親子間の愛というのは必ずしも無条件とは限らないのでは無いだろうか。
現にこの世の中には虐待なるものが存在する。今までは愛の先に生命が生まれると思っていたが、実は生命の先に愛が生まれるのではないだろうか。だから生命の先に愛が生まれなかった人が子を虐待するようになる。

両親の仲が悪く私の生命が望まれないものだとしても、愛というものは必ずしも存在するものではないし、あとから生まれるものでもある(又は生まれない場合もある)と考えると家族からの愛は存在しなくてもいいものだ。その愛を受けなかったからといって、私に問題がある・価値がない訳では無いという考え方もできるのだ。

◾︎恋人からの愛

では恋人からの愛はどうなるだろうか。
先にも述べたように、恋人は家族になる事ができる存在だから、そこに無条件の愛が存在すると言った。しかし、家族の愛の箇所で、『愛というものは必ずしも存在するものでは無い』という考え方も出来る事を知った。そうなると恋人からの無条件の愛も実は存在しないのではないだろうか?

顔が好き
性格が好き
価値観が合うから好き
でも相手のこういう所は嫌い

恋愛というものは、好きという感情だけではなく嫌いという感情もあるものなのかもしれない。というのも、私はいい歳をして一度も恋愛経験がないため恋愛とは如何なるものかがわかっていないのだ。本当の恋愛を知らないから、愛に対する認知の歪みがあるのではないだろうか。恋愛には無条件の愛が存在するという考え方は、恋愛をした事がないからこそ見られるただの夢・理想なのかもしれない。

◾︎結論

この認知の歪みを治すためには、色々な考えに触れる必要があると思っている。そして実際に自分が経験する事も必要だ。
特に恋愛に関しては、本来の自分がクソすぎたために今まで経験をした事がなかったが、もし理想の自分になる事ができて、恋愛が出来れば、この愛に対する考え方を変えることができて生きやすさに繋がるのではないだろうか。

ひとまず今の自分にできることは
・色々な本や人に触れて、愛に対する色々な価値観を学ぶ
・理想の自分になれるように努力する
といったところだろう。


怒りの感情との向き合い方

イライラしたり腹が立つことがあった時に、みんなならどうするだろうか。
基本的に私の怒りの感情(特に長く尾を引く内容)は対人関係で生まれがちだ。勿論仕事で理不尽なクレーマーにあたったり、大雨で新しくおろした靴がびしょびしょになったりでイライラする事もあるが、怒りの感情は8割がた対人関係において起こる。
「これが嫌だった」と相手に伝えるのが1番相手にとっても自分にとっても良いのかもしれないが、それが私には出来ない。

何故怒りの感情を相手に向ける事が出来ないかは、以前それに近い話をnoteに書いてあるのでそちらを見て欲しい

◾︎自分の中に原因を見つけようとする

そもそも、自分が怒っているという感情に気がつきにくい。(カウンセリングでも言われた)
自分が嫌だと思うことが起きた時に、自分のあの行いが悪かったから、それが返ってきたのだ。因果応報だと自分の中に落とし所を見つける。
学生時代そうやって周りからの嫌がらせを耐え忍ぶ事が出来た過去があるからだ。実際にその方法を取って当時はやり過ごせたかもしれない。
しかし、その時から現在までの間に自分が自分をそうやって責めてきた分、私の心はボロボロになっていることに私自身が気がついていないのだ。

カウンセリングでよく、「あなたは耐え忍ぶ事のできる強い精神力がある。その変わり、自分の中の怒りの感情に気が付きにくい質がある」と言われる。それは、この自分の中に原因を見つけようとする所にあるのだと思う。
そして私のことだから、毎回「私の𓏸𓏸が悪かったから今こうなっている。なら私の𓏸𓏸を変えなければならない」といった具合に、自分自身を変えることに精一杯力を降り注ぐのだ。疲れて当然だ。

◾︎物に当たる

昔はイライラすることがあったら物に当たっていた。『本当の自分がクソすぎた』理由のひとつだ。物に当たる&相手に暴言を吐くという最悪な二刀流で怒りを周囲にぶつけていた。今思えばその頃の私は余裕と知恵がなかっただけかもしれないが、だからといって物に当たっていいわけでも、暴言を吐いていい訳でもない。
たとえ自分の余命があと1日だけだろうと、他人を殺していい理由にはならないのと同じだ。

なぜ物に当たっていたのか?
父親がそうだった。嫌なことがあるとすぐに家の壁に穴を開けたり物を壊したりする人だったからだ。小さい頃の私は、確実に大人の男性のその行為から『恐怖』を覚えた。そういう行動をすれば相手に恐怖を与えることが出来ると私は間違った学びを得てしまっていたのだ。

しかし、今の私には知恵がある。
父親と私の違うところはそこだ。これもよくカウンセリングで話す事だが、あの父親の性格を受け継いでいる自分のことが心底嫌になる時があるのだ。しかし父親と私の差は知恵があるかどうかだ。私はこの数年で色々な本や色々な人の思考に触れ、その分知恵を手に入れた。そうやって手に入れた思慮深い性格を生かさないでどうする。自分の中に理由を見つけて納得出来るのであれば、もっと広い視野で物を見られるようになった時に本質に気がつけるようになるのではないか。

◾︎好きな物に触れる

ありがたいことに、私には美しいものを美しいと思える感性がある。好きな物が沢山ある。

美しい音楽に美しい絵に美しい文章、今まではそれらを摂取することで私の怒りの感情を例えその場しのぎであっても落ち着かせる事が出来ていた。この方法は数少ない自分の中でも誇れる行動だと思う。良いものは続けていく事が大切だ。

◾︎結論

嫌なことを嫌だと言えない
自分に悪いところがあった時に、それを指摘されるのが嫌だから。完璧な自分でいたいのだ。傷つく事を恐れているのだ。ある意味これは逃げでもある。完璧な自分であれば感情を相手に伝える事ができるのだろうが、完璧な理想とする自分になるにはまだまだ程遠い。
それまでの間にどう怒りの感情と向き合っていくか。それは物に当たる・自分の内に原因を探す方法ではなく、好きな物に触れて心を落ち着つかせ、知恵で感情を乗り越える方法にシフトチェンジするのだ。


最後に

①私は真面目すぎる
これは自分の長所でもあり短所でもある。
人生に対して真面目すぎる。そもそも、「私が幸せに生きられない理由を本気で考えてみる」レベルで真面目に自分の人生に向き合っている人なんてほぼほぼ居ないだろう。
みんな、何となく仕事をして何となく遊んで何となく恋愛をしながら何となく生きているし死んでいく。そこに意味を見出そうとするから私は幸せになれないのだ。

②適当には生きたくない
だからといって、適当に生きたい訳では無い。真面目すぎるのは私の短所でもあるが長所でもある。逆に言うと、真面目な所くらいしか私の強みはない。そして適当に生きる事は私の意に反するのだ。
こんなことを日頃から考えながら生きていると、「ネガティブすぎてうざい」「メンヘラ」「気にしすぎ」といった風に周りからどんどん人が居なくなる。そう言われた時に「本当にその通りで、一々しょうもないことで悩んでいる私が悪い」と思う一方で、「でも適当に何も考えずにフラフラ生きているあんたらよりはマシだよ」とも思う。

“どんな風に真面目に生きるかが大切”

自分と向き合い、悪い所は直していい所は認めてあげる。クヨクヨするのではなく改善することに時間をかける。

何かあっても、「私はダメだ。だから受け入れられないんだ。生きている価値がないんだ」ではなく、「結果はダメだった。何故なら今の自分だから。失敗した。失敗した事を学んだ。改善する事ができる。これからの自分は今の自分よりも成長出来る。そこに新たに価値が生まれる」思考へ。
真面目な性格をそこに生かす。後ろ向きになることに真面目にならず、前向きになることに真面目になるのだ

③最初から完璧を目指さない
ここまで色々なことを書いてきたが、真面目すぎるが故に、完璧に全てをこなそうとする。そして一向に理想の自分に辿り着けない自分に嫌気がさすだろう。そんな時に希死念慮に囚われがちだ。
もしこれらの事を、完璧にこなせる人間であれば最初から幸せに生きることができるはずだ。
不器用な人間だから、私は一向に幸せになれないしこんな事を書いているのだ。

それをきちんと自覚しないといけない。こうやって自分向き合っていくことが大切なのだ。
もしそれでも疲れてしまった時は、悩みの種から最低2〜3週間ほど距離を置くようにする。
最近わかったことだが、悩みの原因となる物事から長期間距離を置き、それ以外のことに集中するようにすると、冷静に考えられるようになるのだ。私には最低2週間の期間が必要だ(今のところ最高半年間)その期間に自分と向き合い、ここで書いたようなことに目を向けるようにすると良い。

未来の自分へ
もしこれから先悩んで迷った時は、これを見返して自分の進む方向を再確認するようにして欲しい。真面目もいいけど程々にして、息抜きを大切に。

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