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置かれた場所で咲きなさい

この言葉が嫌いだった

「あなたの居場所はそこで充分」
「あなたはまだ努力していない」
「あなたはその程度」

と言われている気がした

中学生の頃どこかでこの言葉を聞いて、自分は何となく「お前の居場所はそこで良い。高望みをするな。」という意味だと解釈をした。
今思えばその当時はまだ視野が狭かったがためにそういう解釈をしてしまったのかもしれないし、単純に私がひねくれ者だっただけなのかもしれない。実際自分はひねくれている。しかもプライドが高く、自己肯定感が低い、精神的に未熟な人間だ。良くない性格だとも十二分に理解している。
その上でこの話を聞いて欲しい。

社会人になり、今はもう辞めた会社の上司からこの言葉を言われた。
「置かれた場所で咲きなさい」その言葉を上司からかけられた時、自分は無性に腹が立った。なぜかはわからない。だが最初に書いたように「あなたの居場所はそこで充分」「努力してないでしょ?」「あなたは所詮その程度」と言われた気分になったのだろう。

実際当時の私は、自分自身に満足していなかった。
(大人あるあるだが)小さい頃からの夢を諦めて泣く泣くその職を選んだ私は、心のどこかで「ここじゃないどこかに行きたい」「もっと理想の生き方をしたい」と思っていた。
だが(これも言い訳になるが)精神的に限界が来ていたのと、小さい会社だったため1人あたりの仕事量が膨大で、心身共に疲労が溜まりずっと行動が起こせなかった。そんな矢先の「置かれた場所で咲きなさい」という言葉。
部下達の頑張りを評価すること無く、自分の好みで部下を解雇するような、そんな人として尊敬出来ないような上司に「置かれた場所で咲きなさい」と言われた私は、腸が煮えくり返る思いだった。

時は過ぎ、その会社を辞め今は別の会社でゆっくり自分のペースで働いている。
案の定精神病になり、前の職場を辞めた。
自分のペースで働けてはいるものの、誰にでも出来るような仕事だからこそ「自分は何をしているんだろう」と思う事が多々あり、それは前と同じく「ここじゃないどこかに行きたい」「もっと理想の生き方をしたい」という欲求に行き着く。

今日ふと、「でも別にこれで良いじゃないか」と思った。

「誰にでも出来るような仕事」
「給料も低い」
「周りはどんどん結婚して独り立ちしてる」
「自分はずっとこんな生活しか出来ない駄目人間」
「それをわかってるのに行動を起こさない自分は早く死んだ方がいい」

そんな風に思って自己嫌悪にドンドン陥って、精神を悪くするという流れを繰り返してきた。

でもそれでいいじゃないか。
きっと私の人生は「給料が低い誰にでもできるような仕事をして」「周りはどんどん結婚して独り立ちしているが自分はいつまでも他人の手を借りて生きていく」「そしてこんな生活しかできない駄目人間」そんな生き方が、私の本来の人生だったんだ。

あぁ、こうゆう事を言い表す言葉があったよなぁ、なんだったっけ。あぁ、そうだ、「置かれた場所で咲きなさい」だ。
そう自分で思えた瞬間、自分の心の中の蟠りがスっと解けた気がした。今まで「もっと頑張らないと」「周りはもっと頑張ってる」「こんなんじゃダメだ」「自分なんて」と思っていたせいで、心が荒んで居たのだ。

「置かれた場所で咲きなさい」

この言葉は他人の口から聞く言葉ではなく、自分自身を肯定してあげることが出来た時、自然に出てくる言葉なのだ。

実際、違いは誰に言われるかだけであって意味は同じである。
他人から「あなたは所詮その程度」と言われるか、自分自身から「お前は所詮その程度」と言われているか違いだけ。だが本当の意味で自分を肯定してあげられるのは自分だけなのだ。他人が自分の事を肯定する事は出来ない。
他人から認められても、自分が自分の事を認めていなかったら自身が満たされることはない。

長々と書いたが、「置かれた場所で咲きなさい」という本当の言葉の意味は、自分を肯定してあげるための言葉だったのではないかなということを伝えたかった。

勿論、「置かれた場所なんかで咲いてないで、私はもっと美しい場所で咲きたい!」と思う人は居るだろうし、実際そうゆう人は行動を起こし成功するだろう。でも私はそれが出来ない人間だ。言い訳ばかりして何も行動が起こせない。そんな自分のことが嫌いだし、グルグルそんな思考をループして自分の事をどんどん嫌いになっていくような人間である。
そのループを抜け出すために必要だったのは、ここまでに書いてきたような考え方だったのかもしれない。

世の中には色んな考えの人が居る。理解できない思考の持ち主に会うこともあると思う。
難しいとは思うが、せめて自分だけでも自分の事を肯定してやってほしい。


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