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主語か、行動か。

人に自分の言ったことが否定されて、怒ったり、悲しんだりするときって、その行為をした「自分」を否定されたと思うからかなと。

実際に祖父は、少し遠くに住む知り合いに祖父の故郷から送られてきたものを朝アポなしで届けに行くから、私の親に車を出してほしい(祖父は高齢で車を手放したため)と連絡したことに対して、親が「急に行くのは相手に迷惑だよ、せめて先方に電話はしよう」と言ったら激怒した。

怒った理由は本人にしかわからないからただの憶測だけど、祖父は、その行為をしようとした「自分」を私の親に否定されたと感じたから起こったのかなと思う。

祖父だけでなく、自分を否定されたように感じると、人格を否定されたように感じるし、それはかなりダメージが大きい。
でも、話を聞いている限り、親は祖父を否定したわけではなく、祖父がしようとした「行為」に対して改善を促しただけだった。

祖父がそのように考えることができれば、どちらもイライラせずに済んだのになと思うと同時に、この捉え方は自分もしているのではないかと思った。

私も何か注意されるたびに、「自分はなんてダメなんだ」ととても落ち込んでしまう。でもその注意は、注意されるようなことをした「私」にではなく、私がやってしまった「行為」に対して向けられていることがようやく自分の中で腑に落ちた。

上のような表現をしたのは、どう落ち込まないか調べると、大体「注意や叱責は自分ではなく行為に対しての物であるから、注意されたからと言って自己否定する必要はない」と出てくるけれど、なかなか自分の中にその考えを落とし込めなかったからだ。

確かに、何回もうそをついてきたり、遅刻など約束を破ったりする常習犯(例:○○)だと「○○の言っていることはきっと嘘だろう」という言葉は、○○に対する私の認識に基づく○○の特性(特徴?)に注目した言葉である。だから、人格に向けた注意もありうると思う。

でも仕事や学校、日常生活で相手から注意されることは、とてもひどい環境(ブラック企業とか)でない限り「行動」に対する注意だと思うから、注意を受けて必要以上に落ち込みそうになったら、反省するよりも先に、自分に「これは行動に対して言われてるんだ」と何回も言い聞かせても変な開き直りもしなくて済むと思う。

それにこれは自分が実際に経験したことから、立ち止まって考えて、腑に落ちたから、見ただけの知識では腑に落ちなくても焦らなくていいんだろうな。


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