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答えのない世界を、「答え」を抱えて生きていく

今、大学に入ってからずっと感じていたモヤモヤの言語化ができた。
それは、
「答えのない世の中」であるというあいまいさが耐えられなかったこと
だったみたい。

専攻的にも、日常生活に身近な物で、それの解釈や結論が何個もあるし、教授も多くの知識を教えてくださるので、多すぎて結局どうすればいいかわからないし、どう自分の道のために落とし込めばいいかわからなくなった。
そんな状況だったから、よりあいまいさを痛感して、何を信じればいいのかわからなくなったようだ。

それに、今まで上の兄弟やいろいろな情報を通してある程度自分の将来やそのために必要なことを知ることができた。
中学に行ったら高校受験して、高校入ったら大学受験して。
その受験のためには、塾に行ったり有名な参考書を買って勉強したり。

それに比べて、大学に入ると選ぶ講義も比較的自由、就活するも資格を取るも、就活せずにもう少し考えることだってできる。
同じ道を目指していても、目指す理想像も違うし、勉強の仕方も合う合わないがあるから、「これをやっておけばOK」というのがよりなくなっていく感覚があった。
それでも、ある程度勉強法の型はあったけど、当時の自分は情報の波にのまれて、それすらも信じていいのか、いいと思ってもどう自分の中に落とし込めばいいのかも分からず大混乱していた。

そう考えると、世の中があいまいなわけではなくて、自分がただややこしく考えていただけかもしれない。
でも「なんでこうなるの?」と考えてしまう自分にとっては、大学に入ってからの状況も「あいまい」だったのかもしれない。

それに、社会に出たらもっと、「正解」がなくなって、「妥当」が増えていく気がする

じゃあ、そんな世の中で考えすぎてしまう自分は、どう生きて言ったらいいのか。

自分なりの答えは、タイトル通り、
「答え」を抱えて生きていくこと
だと思った。

ここでいう「答え」とは、信念とか価値観とか、とにかく
自分が納得したこと・信じてみたいと思ったこと
だと思う。

こう書いているけど、「信じたいと思って信じたら、そのことに心酔して、盲目になって人生破滅するんじゃないか。」とか考えてしまう。

でも、一つだけを信じて、自分の人生全てを投じるという意味で「信じる」のではなくて、というか「この人がこう言ってたから!でもなんか苦しい」って思いながら動くのって、自分が納得して動いていることではない。
そう考えると、自分が納得したことを実行すると決めることは、納得するまで考えることにつながるから、結果的に、さっき自分が不安に思っていた事態を回避できるかもしれない。

こればっかりは自分の性質頼みにも思えるけど、そんな感じで「答え」を時にメンテナンスしながら携えて進んでいくことで、世間の曖昧さ・人の意見を過度に聞きすぎて混乱するみたいなことは起きずに、過ごしていけるかなと思う。

それに自分なりの答えを持っているということは、相手もその人なりの答えを持っているという思考を持つこともできるから、人にも寛容になったり、新しい考えを逆に受容することができるかもしれない。

激しく流動していく世の中では、実は「答え」が大事。なのかもしれない。

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