見出し画像

なぜ宮崎駿は「君たちはどう生きるか」を作ってしまったのか?-創作者を蝕む「ある病」-


どうしてこんなことに・・・

「よくわからなかった。」この映画を見た人はみんなそう言う。もちろん私もよくわからなかった。

ただ映画を見終わって私が思ったことは一つだけ。「めちゃくちゃ村上春樹やん!」だった。とくに海辺のカフカに激似だ。どこらへんがどう似ているのかはこの際問題じゃないので追及しない。一つだけ言っておくと海辺のカフカはマザーファッカーの話である。

問題なのはこの映画が「なんか文学っぽい」ということである。それは、宮崎駿ともあろう人が、ある非常にしょうもない病にかかってしまったという事実を意味する。
その病とは

「文学かぶれ」

ズバリ「文学かぶれ」だ。宮崎駿は「文学かぶれ」になってしまったことでこの映画を作ってしまったのだ。

「文学かぶれ」とはどんな病か。たとえば商社に勤める独身女性が、自分の推しが出演する劇を見に行ったとしよう。そしてその劇はたまたま村上春樹の原作だった。あくる日、女性は村上春樹の新潮文庫を一通り買って自宅のワンルームの本棚の一列を青く染めた。その晩いくつかの短編を読み、翌週友人とカフェで話す際にこう言うのだ。「最近、文学?ってか村上春樹にハマっててー」
そして友人にウザがられながらウィキペディアで得た知識を披露しつつも、1Q84は長すぎるので絶対に読まない。
それが文学かぶれだ。

たいていの場合文学かぶれはたいした病気ではない。友人にウザがられる。変な黒縁メガネをかける。いい大人がインスタで空の写真にポエムをつけて投稿する。その程度の症状で収まる。

予後が悪いのはエンタメ業界のクリエイターが文学かぶれになってしまった場合だ。
文学かぶれでおかしくなってしまったアニメ作品として、P.A.Worksのテレビアニメ「グラスリップ」や細田守の映画「未来のミライ」などがある。どちらも「映像はきれいだがストーリーを追う事すら困難。というか追わせる気ないだろ」という作品だ。今回の「君たちはどう生きるか」もこのパターンだと私は思っている。

我々はエンタメを期待していたのに

予兆は前作「風立ちぬ」の頃からあった。というか「風立ちぬ」は堀辰雄(ほりたつお)という昔の作家の小説が原作だ。実に難解な小説で内容はさっぱりわけがわからない。ただ、「風立ちぬ」においては文学作品を原作としながらも、宮崎駿の文学かぶれは軽度だったと思う。「風立ちぬ」は一応ストーリーを追うだけで話が理解できるし、謎を残した点もわずかしかない。
しかし今作では見事に発症していた。それもかなり重症で、見事に「よくわからない」作品を作ってしまった。我々はラピュタや千と千尋のような、誰が見ても楽しめる「エンターテインメント」作品を期待していたのに。

・・・もしかすると、宮崎駿はそれが気に障ったのではないだろうか。

「エンターテインメント」つまり誰もが見て気分よくなれる映画だ。もちろんそんな期待があることは彼はわかりきっている。何とかその期待に応えるためにエンタメ作品を作ろうとする。しかしこうも思う。
「俺の美しく崇高な世界観が、何もわかっていない素人連中に『感動した』で消費されてたまるか。俺という人間はそんな一言で表現できるほど単純じゃないんだ」と。
そのようなプライドを抱えてしまったクリエイターたちが志向するのが文学作品だ。

文学はカッコいい。作家は美しい文章表現のみによって世界を創造し、全てを語らない。読者はその行間を読み、作家の抱く幻想世界に一歩でも近づこうと努力する。
対してマンガアニメはダサい。受け手のわかりにくいことは出来ない。作中の謎は伏線という形でわかりやすく回収しなければいけない。謎の木箱が登場したとして、それをを謎のまま「きっとその中身は美しいのだろう」では通用しないのだ。

そしてクリエイターは何とか自分の作品で文学っぽいことはできないかと考え始める。多くの謎を含んだストーリーを作る。多くの場合そういう作品は偉い人によって弾かれ、日の目を見ることはない。

宮崎駿はすでに偉大な作家だ。しかし自分の作品がエンタメであることに耐えられなくなった彼は文学に走った。
そして「よくわからない」作品を生み出し、多くの観客を困惑させている。

エンタメと芸術の間で

散々なことを言っているが、私は「『君たちはどう生きるか』は駄作だ!」と作品を全否定したいのではない。エンタメを期待されている場に文学を出しても、理解はされないだろうということを言いたいのだ。
この映画は多くの「たとえ」を含んだ映画だったと思う。過去のジブリ作品で出てきたような場所や、宮崎駿の周辺の人物を思わせるキャラクターが多く登場した。さらに、宮崎駿自身の過去を振り返るような表現もあった(若くして亡くなった母、積み木の数=宮崎駿の監督作品の数、など)。ただ「これはつまりこういう事ですよ」という説明を一切しない、というかあえて避けているように感じた。「謎の木箱は謎のまま」である。

私は、この映画は「宮崎駿のクリエイターとしての苦悩を描いた私小説」だと思った。(私小説とは作家自身の経験をベースに書いた小説のこと)
それは今まで描いてきた絵空事のストーリーとは真逆の、リアリズムによって物事の核心に迫ろうという試みだ。もちろん宮崎駿もアニメ映画に求められるのは「エンターテインメント」であって、「芸術的な試行」ではないことはわかっていただろう。それでもこの映画を作ったのだ。

あまりにも攻めた挑戦だ。

そしてこの映画はその挑戦、つまり「ファンタジーの皮を被った、宮崎駿の私小説的映画」の制作に、凄まじいアニメーションの技術によってかなり成功しているのではないかと思う。
映画が宮崎駿の私小説だということは、多くの「たとえ」によってファンタジーの中に隠されてしまっている。この映画を初見で理解するには、あらかじめ宮崎駿自身の人生をある程度知っておかないといけないのだ。
しかし、エンタメとは「よくわからない」を許さないものだ。「よくわからない」を押し通すには、それを補って余りある力が必要になるからだ。

この映画は果たして、「よくわからない」を押し通せただろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?