A4小説「口癖」

 他人の口癖に気付いて、それがだんだん気になるようになってくると、たまに腹が立ってしまうことがある。古関は職場で向かい側に座る事務員さんの口癖「びっくりした。」が気になり、時折イラっとしていた。なぜなら恐らくびっくりなんてしていないからである。人が本当に驚いたらもっと大きな声で「びっくりした!」と言うはずだ。それ以前に「うわっ!」とか「えっ!」と言うかもしれないし、絶句して声が出ない場合だってあるだろう。それなのにその人はいとも簡単に「びっくりした。」と言う。この間の事務員さんどうしの会話は次のようなものだった。「昨日Aスーパーで特売の卵を買ったが、Bスーパーの方が安かった。」「びっくりした。Aスーパーの卵が売り切れていたのかと思った。」びっくりしないしAスーパーの卵が売り切れていたとしても驚かない。なぜなら特売だから。しかもその場合はBスーパーの方が安かったことにこそ驚くべきだ。などと考え出すと、古関はイライラが止まらなかった。
 そういえば以前「よいしょ。」という口癖についても気になり、調べたことがあった。何かしらの動作の際につい「よいしょ。」と言ってしまうのは、その動作がその人にとって負担になっているからで、無意識のうちに気合いを入れているのだそうだ。諸説あるだろうが、だから若い人より年配の人の方に多い口癖なのだなと古関は納得していた。若い時分は何でもなかった動作に気合いが必要となり「よいしょ。」と言ってしまう。思えばこの「よいしょ。」もベテラン社員の多い古関の職場でよく聞かれる口癖だった。ドアの開閉に「よいしょ。」靴の脱ぎ履きに「よいしょ。」荷物を持つのにも「よいしょ。」起立・着席にも「よいしょ。」だ。
 古関が事務員さんの口癖に気付いてからしばらく経ったある日、向かいの席から「びっくりした。」という言葉が聞こえた。またか、と古関はうんざりしかけたが、その声は「びっくりした。」が口癖の事務員さんではなく、その隣に座る事務員さんのものだった。先日はパーテーションを隔てた他の部署からも聞こえてきたことがあった。「口癖は他人に伝染するのかもしれない…。」そう考えた古関はフロア全体の会話に耳を傾けるようになった。「びっくりした。まだ届いていないのかと思った。」「びっくりした。違う箇所を見ていた。」「よいしょ。」「びっくりした。雨かと思った。」「よいしょ。」「びっくりした。休みかと思った。」「よいしょ。」「びっくりした。…。」古関の感情は「怒」から「面白」を経て「無」に近いものになっていた。「びっこいしょ。」「よっくりした。」などとありもしない言葉の幻聴が聞こえてきそうだった。
 数日後、他人の口癖を意識し過ぎて真っ白に疲れきっていた古関は、事務員さんからの問いかけに「びっくりした。よっこいするところだった。」と答えていた。そしてその後すぐに早退し、翌日から1週間の有給休暇を取得した。暖かい南の方に行こう、宮崎で日向夏のジュースを飲もう、そう思っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?