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異形者たちの天下第5話-6

第5話-6 家康の正体

 元和二年四月。
 駿府城下の臨済寺に松平忠輝が謹慎させられると、傀儡たちも駿府へとなだれ込んできた。その異様な状況となった駿府に、傾奇者の身形で入国する集団がいても、いちいち咎める余裕はない。服部半蔵たちが駿府に入れ込んだのは、まさにそういう状態のときであった。
 このとき柳生兵庫助は同門同士討ちの辛さからか、忠輝が臨済寺に入るのを見届けてから警護の役を辞し、諸国放浪に旅立ってしまった。確かに同士討ちは心に傷を負う。
 これ以上それを強いることは出来ない。
 だからそれを知っても、島左近は一切を咎めようとはしなかった。
 
 駿府城本丸の奥。
 家康は相変わらずお六との交情に励んでいた。こうしているときが全てを忘れることが出来る。快楽の海に漂うことが適うのだ。
「才槌頭を手に入れる話はどうなった?」
 お六のなかの荼吉尼天が囁く。家康はいま少しの辛抱と繰り返すばかりである。お六の表情が嶮しさを増した。
「お前には失望した。何十年も費やし天下を与え、結局は我の望みに背くのか、家康よ」
 いままでとは異なるお六の反応に、家康はふと、乳房を玩ぶ手を止めた。
「どうやらお前は約定を反古にしたいらしいな。こうして女食に逃避するだけで、一向に策も講じようとはせぬ。どうやら若い奴の野望を叶えてやった方がよい、その方が才槌頭が手に入る」
「何をいうのか」
「家康には厭きた、ということさ」
 確かに豊臣家を滅ぼしてからの家康は、考えも行動も暗愚に過ぎた。毎日することは、お六の肉体を貪り愉しむばかりである。これは荼吉尼天との契約を反古にすることを意味した。
「お前の倅・秀忠はお前の死と、その後の天下を望んでいる。それを手土産に弟の頭と己が肝を差し出すと約してきた。家康よ、お前はもう用なしだ」
 その言葉は家康を驚嘆せしめた。
 自分ひとりでは何も決められない傀儡将軍と思っていたのに、いつの間にこのような野望を抱くようになったものか。しかも全ての火の粉を払い終えたのちの漁夫の利。
「三郎……青二才め」
 忌々しげに家康は吐き捨てた。
 その家康の股間が、急に涼しさにも似た軽さを覚えた。巨大なマラが音を立てて落ちたのだ。マラは土塊のように砕け散り、あとに残ったのは役にも立たない七〇過ぎの萎びた陰茎である。未練がましくそれを拾い集める家康を見下ろしながら
「死ね、家康」
 お六の瞳に殺気が広がった。
「いやだ!天下が目の前にある。いやだ、いやだ!」
 家康は丸裸で閨を飛び出した。
 お六は獣のように跳躍し、家康の行く手を阻んだ。悲鳴を上げて腰を抜かした家康は、かつての三方原のように脱糞を催した。お六の表情はそれを嘲るようにせせら笑う。
 と、お六の背後に影が揺らいだ。
「!」
 振り返るお六の額に、何者かが鋭利な何かを打ち込んだ。躰を仰け反らせたお六の首の後ろにも、針が。更に滑るような所作で、人体の急所と目される箇所へと、正確に、瞬く間もなく、次々と打ち込まれていった。
 この手は、出雲の阿国の仕業である。果たして堅固な駿府城内にどのように潜入したものか。しかし、結果的に、家康はお六の攻めから逃れることができた。痙攣したまま横たわるお六から逃げようと、家康は這うようにして動きだした。
「大御所」
 低い声が響いた。
 その聞き覚えのある声に、家康は挙動を止めた。
 目の前に服部半蔵がいる。その手には村正の蒼白い刀身が光っていた。
「た……たすけてくれ……半蔵!」
 家康の哀願は見苦しい年寄りの最期の足掻きだ。半蔵は積年の奉公と、それにも余る悔しさと憎しみを籠めて、その顔を蹴り飛ばした。家康はもんどり打って倒れ、奇声を挙げてのたうち回った。
「大御所、あなたは尾張から戻ったときに竹千代君と入れ替わった偽物であるか?このこと、性根を据えてお答え召され」
「知らぬ……知らぬ!」
「尾張で竹千代君は死んだのだな?そして容姿の似た傀儡の子が身代わりになり、今川へ渡されて家康公となられた。信長公に終生逆らえず、じっと従い続けたのは、その秘密を知るただ一人の人物だった。違いまするか?」
「し……知らぬ……竹千代は儂じゃ。儂が家康だ、清洲の池で溺れ死んだ奴のことなど、知らぬ!」
 半蔵は深く息を吐いた。
 偽物の家康のために尽くした生涯は何だったのか。この偽物が欲得のために服部一族を不幸にした。嫡男・正就の死さえ、足蹴にしたのだ。
 村正を握る手に力が込められた。
「こんな天下……くそくらえ」
 そう言い放つと、半蔵は家康を袈裟懸けに斬った。
 家康は転がりながら切っ先から逃れようと藻掻いた。それはまさに悪あがきであった。
「許せ、半蔵、許してくれ!」
 泣き叫ぶ家康の脳天に、半蔵の怒りが突き刺さった。家康は白目を剥いて声もなく絶命した。呆気ない結末である。
「半蔵、この女はどうする?」
 阿国が呟いた。白目を剥いて痙攣しているお六は荼吉尼天そのものである。現世から払うに越したことはない。
「すべてを阿国殿に任せる」
 力無い半蔵の呟きに、阿国は頷いた。そして漂白民だけが知る、邪神封じの五寸釘をお六の額に突き刺した。この技によりお六の身体から煙が立ち上り、みるみると肢体はしなびて枯れた。これで荼吉尼天は追い払われたことになる。
「死んだのか」
「いや、宿り主は無傷だ。これまでのことなど、さっぱり忘れてしまう。思えばこの女も、哀れだなあ」
 五寸釘と針を抜けば、あとは傷も記憶も残ることなく、元のお六が蘇生するのだ。阿国は素早くそれらを抜いた。あとは、放っておけばいい。
「半蔵、行こう」
 阿国に促され、服部半蔵は頷いた。
 もう家康を振り返ることはなかった。
 音もなく駿府城を出たふたりは、追っ手の気配を感じることもないまま、駿河湾の一望できる駿府領内の茶屋へと向かった。
「済んだのか」
 そこで帰りを待っていたのは、島左近だ。
 左近は静かに仔細を訊ねた。半蔵はただ無言で頷いた。そうかと、左近もこれ以上言葉を継がなかった。湯飲みに酒を満たすと、無言で半蔵へ差し出した。
 半蔵は静かにそれを受け取った。
 このときになって初めて、半蔵の両目から涙が溢れ出した。
 左近も、阿国も、猿飛佐助も、かける声がなかった。それでいいのだ。言葉は声に出さずともよい、その慰めは声にこそ出さぬが華なのだ。
 半蔵の胸中で逆巻く感情を理解できる者などここにはいない。
 沈黙だけが半蔵にできる唯一の慰めだった。
 嗚咽だけが、静寂のなかに響いた。

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