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原作と映像

ここでは誹謗中傷は断じないし偏りもしない。
芦原妃名子さんの一件とも重なるけれど、身を切り作品を生み出す側と、それに乗っかり映像や二次制作する側の相容れぬ関係性を、あくまで私見で考察したい。くれぐれも誹謗中傷が含まれないことを最初に申し上げる。

原作なんて偉そうなもの持っていない奴の私見なんで、すいませんねえ。

著作権法によると、著作物とは、
「思想または感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術または音楽の範囲に属するもの」
であるとされています。具体的に、著作権のあるものって、小説、脚本、論文、講演そのほかの言語の著作物がある。noteやアルファポリスでせっせと生産される作品もあるが、それらには必ずセットされるものだ。

著作権法は、著作権の内容を、大きく次の二つに分けて定めています。
① 著作物を通して表現されている著作者の人格をまもるための
 「著作者人格権」
② 著作権者が著作物の利用を許可してその使用料を受け取ることができる
  権利としての「著作権(財産権)」

上記でいうところの、著作者人格権は大事なもの。
たとえば。
著作権(財産権)はほかの人に譲り渡すことができます。有名な話で、富野由悠季が生活費のためにガンダムの企画案を売ったというものがありますが、これが著作権かどうかは契約の話なので分からない。ネタだったのかも知れないし。一応、バンダイやサンライズ作品には富野由悠季というクレジット出ますけどね。まあ、妥当か分からないけど余談。譲渡できるというのが、著作権。
その一方で。
著作物はその著作者の考えや気持ちを表現したもの。だから著作物をとおして表現された著作者の人格を守るための著作者人格権が定められています。著作者人格権は、作品を作った人自身の人格を保護するという目的がありますので、譲ることができません。すなわち、たとえ著作者が著作権(財産権)を譲ったとしても、著作者人格権は著作者が持ち続けることになる訳です。

著作者人格権の保護期間は、著作者の生存中ときめられています。
しかし、たとえ著作者が亡くなった後でも
「著作者人格権を侵害するような行為をしてはならない」
ということも定められています。

公表権
(第18条第1項)自分の著作物で、まだ公表されていないものを公表するかしないか、公表するとすれば、いつ、どのような方法で公表するかを決めることができる権利。
氏名表示権
(第19条第1項)自分の著作物を公表するときに、著作者名を表示するかしないか、表示するとすれば、実名、変名のいずれを表示するかを決めることができる権利。
同一性保持権
(第20条第1項)自分の著作物の内容又は題号を自分の意に反して勝手に改変されない権利。
 
これが、著作者人格権を守る著作権法の条文です。

今回の芦原妃名子さんの一件は、著作権法第20条第1項に抵触するかが争点になるのでしょう。

ドラマやアニメ、映画などに小説を原作としたものが多く製作される機会が多くなった。そのドラマなどの脚本を作るためには、これまでのことを踏まえれば、原作者からの許諾が必要になると理解できる。
しかし、局やそれ以外からの「大人の事情」で、原作の設定や背景などを大きく変えたくて仕方のない場合も出て来るだろう。そういう作品、多いですから。ならば、設定を変える場合に、原作者の意向というものは反映されるのか?気になるところ。
原作を元にした脚本というのは「二次的著作物」。だから脚本家も著作者として、多少なりとも自身の思想や感情を盛り込むことが出来るんです。原作があるから脚本もそれに縛られなければならない、というわけではない。ただし双方の話し合いは、必然のはず。黙ってやられるのは、原作者にしてみれば面白くはないと思います。

ヤマザキマリさんが映画「テルマエ・ロマエ」の興行収入が58億円だったのに対し、原作使用料として支払われたのが100万円だったと、テレビ番組で明かしています。実際、日本の原作の権利は、お金に換算しても直接の還元が多いのか少ないのか、全く分かりません。まあ、それに付随して原作の販売が相乗効果を生むという付加価値が御祝儀になってしまうものなのでしょうか。
こういう悩みを抱えたことがないので、ちょっと難しいし肖りたいと云うのが本音。

今度の芦原妃名子さんの一件は、契約の履行不履行が争点だし、契約がされていないとなると、迂闊でもある。契約者が原作者ではなく出版社だったということもあるし、不透明なことに外野は見守るしかない。
だけど。
原作者が命を絶ってしまう事態だけは、もう二度と起きないことを願うものである。

こんな悩みとは無縁で、恐縮です。

あくまで私見。
誹謗中傷は、なしで。

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