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異形者たちの天下第5話-1

第5話-1 家康の正体

 大坂夏の陣終息の二ヶ月後。
 慶長二〇年(一六一五)七月七日、徳川家康は諸大名を伏見城へ参集させると
「これより徳川の世なり。よって布告するものなり」
 そういって一三ヶ条の法度を宣言した。世にこれを
「武家諸法度」
と呼び、以後、徳川に忠節を誓う大名はこの定めに縛られた。
 更に五日後の七月一二日、家康は二条城に公家衆を集めると、同様の定めを布告した。これは帝や朝廷が従来定めてきた事項へ、幕府が干渉することを一七条文に記したものである。
 豊臣家亡きいま、朝廷が幕府に逆らえる筈はなかった。当然これは、公卿補任にも影響を及ぼした。家康は都合のよい人物に官位役職を下賜するよう後水尾天皇に迫り、帝は泣く泣くこれに従ったのである。
 こちらは俗に
「禁中並公家諸法度」
という。
 
 七月一三日。
幕府からの要請に従い、朝廷は年号を
「元和」
と改元する。豊臣の生きた時代を回想させる慶長の年号は、新しい世の中にもはや不用であった。何よりも朝廷を屈服させた象徴として、改元干渉は信長以来の栄誉にも通じた。
 家康はその快感に酔いしれていた。
 改元して間もない七月二七日、従一位関白鷹司信尚が職を辞した。これまでも反徳川の態度を明から様にしてきた鷹司信尚に対する、これは報復人事である。辞職の体裁だけは保った善処といってよい。そしてその翌日、後水尾天皇は前関白准三宮二條昭実に関白職を再任した。幕府の顔色を窺っての苦慮であることは、無論云うまでもない。
 徳川家康はついに天下を取った。
「まだまだ、これからずら」
 駿府城本丸から見下ろす家康の眼下には、大海が広がっていた。
 
 これらの布告をして間もなく、徳川家康は駿府城に引き籠もり、お六との交姦に更けた。そうしながらお六という媒体を通じ、荼吉尼天より
「今後」
のするべきことを伝え聞いたのである。
 家康には荼吉尼天へ報いていない
「ただひとつのこと」
がある。松平上総介忠輝の首を斬り落し、麹町御門より西へ通じる街道の真ん中に埋めるという作業であった。
 お六の口からは
「望みを完成させるには、それが必須なり」
と繰り返された。
 激しく情欲を掻立てながらも、氷のように冷たい口上である。しかし言葉と身体は別物のように、家康は巨大な陰茎を抜きつ差しつ、お六もまた無尽蔵に熱い汁を垂れ流し迸らせた。無我夢中でお六を責めながら、家康の脳裏の片隅には冷静な部分があり、忠輝の処遇を如何にするか、その一点を繰返し思案していた。
 罪状など、いくらでも捏造することが出来る。
 とにかく今日までは、豊臣家を滅ぼすことのみを優先してきた。伊達政宗への警戒をしつつ、形式的には忠輝を見逃してきた。
 が。
(もはや奴には生かす理由はなくなったでのん。我が野望のために死なすときが参ったのら。子は父のために死んでこその孝行ずら)
 さりとて誰にやらせればよいか。
 服部半蔵はもはや役立たず。伊達政宗が婿として肩入れする以上、率先して忠輝を好んで殺せる覇気を抱く大名諸侯などはいない。そのとき家康の脳裏に、ふと、適材の顔が浮かんだ。
 秀忠だ。
 秀忠は阿呆なりに御飾りの役目を演じてくれた。今度もそのようにするだろう。それに、豊臣家なきいま、将軍家の地位に固執する秀忠は、取って代わる余地をもつ弟の存在こそ疎んでいる。聞けば柳生という剣客忍びを飼っているというから、たぶん、それを用いれば容易に事は済むだろう。
 家康は何度果てても一向に萎えぬ陰茎でお六を貫きながら、己の盤石を確信し、口元を歪めて笑った。
 家康が床を離れたのは、五日も経ってからである。
 直参や諸大名への体裁が悪いと考え、本多正純はこの一切を
「大御所御風邪を召し」
と称して流布していた。
 こんな気苦労も知ってか知らずか、家康は嬉々と江戸へ書状を差し出した。
 忠輝を始末せよ、と。秀忠はその返事を
「応」
として、凡庸なまでに家康へ差し出したのである。

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