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弾正という官職

2月11日(祝・日)。この日は建国記念日。
ちゃんと家に国旗を掲揚するのが夢酔なり。
この日、おはなしを頂戴し講演を相勤申しところ、最後に、斯様な質問をいただきました。

「三田弾正の弾正とはどういう意味ですか?」

「弾正」。
分かっていたのですが、この場では漠然とした回答しか出来ませんでした。例年、「歴史手帳」を愛用しているのですが2024年は歴史研究(戎光祥出版)で取り扱いされておら泣く泣く泣く市販の能率手帳を所持しています。能率手帳には、このことの資料掲載がございません。
迂闊に誤解を与えてはいけないので
「弾正台」は律令の頃に制定されたもので、砕けて云えば、不正した政治家を取り締まる官職。織田信長がこれを有したのは、ある意味都合がよかった。現代にこれがあったら、いま、すごく活躍したかもしれない……
程度の説明に留めた。

本当は知っていたけど、具体的なことについてはうろ覚えすぎて。
その場しのぎに知った被って適当なことを云うのは、大いに失礼だと思いますので、明確な回答が云えませんでした。歴史手帳があれば、さっと取り出して細々とお話しできたのに……!
後悔はこのように残るのです。

なので。

遅まきながら、この場をお借りしてお答えします。

「弾正台」とは

律令制下の官司の一つ。
違法行為を糾弾する特別検察機関
養老職員令の規定によれば、四つの等級による官吏だった。
長官である「尹 (かみ)」 は従三位相当官で1名。主に親王などの高貴な御方が任じられることが多かった。高位高官の非違について直接奏聞する権限をもっていた。こういう御方でないと侮られる場合があったのでしょう。
尹の下に置かれたのが「弼 (ひつ、若しくはすけ) 」。大弼1名と少弼1名。
次いで「忠 (じょう)」。これは大忠は1名、少忠2名。
最後は「疏 (さかん) 」。大疏は1名で少疏2名。
その下に「台掌」「巡察弾正」が設置された。
構成人員は合計10人。これに史生・使部・直丁が加わった組織で構成される。
その職務は内外を巡察して非違を糾弾することだが、京内の摘発が中心であり、諸国は訴訟があった際に受理して推問するだけであった。まあ、律令制度の時代ですから、平安時代のうんと前のこと。そして政治家を摘発できる存在。
室町から戦国にかけて、官位は乱雑になる。朝廷から弾正台の四等官として正式に任命された公認の称号もあれば、そうではない、戦国大名の有力家臣などは非公式な自称をした実例もある。
自称の家系で有名なのが織田信長。しかし天下布武を掲げて室町将軍家に意見を出す場合、「弾正」という肩書はまことに都合のいいものだったと考えられる。反対に上杉謙信は、弾正少弼に叙任とされる。秩序や面子を重んじる謙信らしい生真面目さで、正規の手順を踏んだのだろう。

三田弾正はどうか。

相馬系図には弾正の肩書が記されている

代々の名乗り相続として、子孫に当主の称する栄誉と化しただろうことは想像に易い。豊富な財力で公卿とも接した三田氏ならば、自称公称の真ん中を綱渡りするような曖昧さを留めていたのではないだろうか。

戦国の世となれば、関東管領山内上杉氏の被官として、武蔵守護代・大石氏ともども地域の要であったと考えられる。
正確に存在が認められる「氏宗」「政定」は弾正忠、「綱秀」は弾正少弼を称した。最後の綱秀は先代二人より高い位で、上杉謙信と同じものになる。

表題作の前日譚である書き下ろし「梅かほる闇路」には考察で導き出した展開で、
この部分も作品のなかで描いておりますゆえ、お楽しみにされたいと存じまする。

昨日の聴講されました方に、このことが伝わりましたらと願います。

素晴らしい講演の場をいただけました
関係者皆様に
厚く御礼申し上げます。

弾正台は明治になってから、刑法官監察司に代わる監察機関として設置されてます。現代には存在しません。
これがもし、現代の機関として存在したら!
ちょっとは国会での詭弁と茶番を引っ繰り返すことが出来たでしょうか。
「記憶にございません」
は、もう流行語にもなりませぬゆえ。
温い時代を痛感する善良な納税者としては、複雑です。