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喜連川逍遥

電車内の吊りポスターで温泉付別荘とか広告があるが、たいがい喜連川ですね。正直、足を運ぶまで、どういう場所か想像もしなかった。
里見絡みの作品で喜連川氏登場ということもあり、2015年盛夏、現地を歩いてみた。そこは、足利家ゆかりとは云うものの、どこか昭和の臭いも残る野州の城下町だった。

この地は平将門や奥州の乱にも関わる古い武士の歴史がある。南北朝動乱の足跡も刻まれている。このあたりを塩谷庄と呼んだものか、累代の支配者は〈塩谷氏〉を称した。
時代は戦国となり、小田原北条氏と常陸の佐竹氏は北関東の覇権を狙い、しばしば各地で激突した。そして天下人・豊臣秀吉が小田原征伐を行うことで、時代が変わった。一般的には、喜連川の塩谷惟久が秀吉を恐れ出奔したことになっている。喜連川町史によれば、重臣・岡本讃岐守が秀吉に謁見し塩谷領を得たので追われたという記述もある。どちらにせよ塩谷惟久は秀吉に申し開きもなく、家族を置き去りにして逃げるように出奔した。
塩谷惟久の正室は嶋子という。小弓公方家の足利頼淳の娘だ。
敢えて小弓公方家としたのは、〈小弓公方〉そのものは当時、存在しないからである。
第一次国府台合戦で討死にした小弓公方・足利義明の遺児を庇護したのは、安房の里見義堯である。一説には三人の娘と一人の男子を扶養したことになる。娘は里見義弘正室青岳尼・鎌倉東慶寺一七世旭山尼・上杉憲寛室であり男子は足利頼淳となる。この足利頼淳が客分として里見家で成人し、佐野晴綱娘と婚姻、やがて次々と子を設けた。里見家は元々古河公方副帥を称したこともあり、関東の秩序である足利家再興を望んでいたようである。

右手の森が国府台(千葉県市川市)

秀吉に応じて小田原へ向かった里見義康は、江戸湾より三浦半島に上陸した際、ひとつの禁制を出す。

野日之村放火之跡、鎌倉御再興御為ニ候間、当手之軍勢濫妨
狼藉、堅令停止畢、
右之旨、至于違犯之輩者、可処罪科者也、仍如件、
(最宝寺文書)

これが惣無事令違反とされ、里見家は上総領を召し上げられた。
程なく秀吉は小弓公方家と古河公方家をひとつにし、喜連川にて一藩与えたのだが、その影には様々な事情が動いていたようである。
小田原開城は天正18年(1590)7月5日、北条氏直降伏申し出による。秀吉は7月26日から8月4日まで宇都宮城に留まり、10日を要して会津黒川城を経由して14日に宇都宮城に戻った。増田長盛宛山中長俊文書によれば《宇都宮に御座候姫君様は、御上洛候哉》とあり、時期は8月14・15日と推察される。このとき出奔した夫・塩谷惟久の弁明のため、嶋子は秀吉を訪れたのだ。これにより、喜連川3800石は嶋子に赦された。が、こんなに気前のいい話はあるだろうか。察するに、色好みの秀吉が、美貌で知られる嶋子の躰を所望したのだろう。いや、或いは逆かも知れない。歴史は〈閨から動く〉の例えは、飛躍した想像だろうか。事実、こののち嶋子は秀吉の側室に列することとなるのだから、あり得ない話ではない。とまれ嶋子は3800石の領地を辞退する代わりに小弓公方家の再興を願い出たことは間違いないだろう。
片や古河公方家であるが、当時は男子がなく女性当主だった。後世〈氏姫〉とされる女性の本名は定かでない。秀吉はこの氏姫と、足利頼淳の子・国朝を娶せることとし、喜連川で独立させることを決めた。2歳違い二人は年齢的に申し分ないし、足利氏の内訌を終息させることも出来る。何より名族の足利氏が滅亡することを惜しんだという美辞麗句は、秀吉にとっても都合がいい。この婚姻により古河・小弓一致の喜連川氏が成立した。減封により財政の厳しい里見家にとっても好都合だった。しかし、氏姫は堪忍分(古河鴻巣館)を離れずに留まり形ばかりの夫婦となった。長年の対立は容易に融和しなかったのだろう。肥前名護屋へ向かう国氏が道中で急死すると、喜連川足利氏は再び存亡の危機に晒された。
その頃、安房国石堂寺に足利頼淳の次男がいた。将来は住職になるべく僧籍に身を置くところであったが、この次男が氏姫と婚姻することで御家を保つこととなった。還俗した彼は頼氏と名乗った。
これが、喜連川足利氏の初代となった。国朝を初代とみるかは難しいところだが、正式に喜連川を姓としたのは頼氏だろう。

小弓公方家を庇護したとされる地域にあった石堂寺(千葉県南房総市)

戦国時代で混沌としたが、関東における足利公方家の秩序は、豪族たちにとって、大きな柱であった。ゆえに御輿を巡る戦さが繰り返されてきた。これは、現代の感覚にはない、暗黙のモラルだったのではないだろうか。関東足利家は足利尊氏の四男・基氏から興った。基氏の生母は室町将軍家と同じ正室・登子である。同じ尊氏の子、同じ母、生まれの順で生じた序列のコンプレックスが関東足利家の土台だった。鎌倉を追われ、古河に勢力を保ったのちも、異端の庶子が地方で自称公方となった。小弓公方もそのひとつだ。
里見家は永享の乱で足利持氏を支えて敗れた。持氏の遺児を擁した結城氏朝の乱にも加担し、敗れた。新田源氏の出でありながら、常に関東足利家の側へ立っていた。古河公方副帥を称したのは、そうした積み重ねによるものだ。第一回国府台合戦で敗れ去った小弓公方家を庇護したのも、足利という貴種を支えるモラルゆえだろう。少なくとも足利頼淳は里見家のおかげで成人し、子を為し、次世代を残して喜連川へ未来を紡いだのである。

足利頼淳は喜連川でその生涯を閉じた。その法名を由来とする龍光寺が、歴代喜連川氏の墓所となった。
足利という名家を継ぐ者として、徳川家康も喜連川氏を厚遇した。頼氏は関ヶ原の戦いに出陣しなかった。国力から見れば戦力外と断言できる。戦勝祝いの使者を派遣したことで家康から千石の加増を受けた。1万石にも満たぬ喜連川氏を、家康は大名並みに厚遇した。以来、幕府の厚遇により高家に任じられ、参勤交代さえも免じられたとされる。

喜連川足利氏は徳川の時代を生き、明治を迎えたときに、再び足利氏に復姓した。

庇護に努めた里見氏は大坂冬の陣の年に安房を追われ、やがて伯耆国倉吉で宗家が滅んだ。
喜連川氏の黎明期は、歴史の変わり目だった。それはまさに、ドラマチックという一言に尽きる。その内なる激しさを象徴する長閑き城下町には、まだまだ静かな物語が眠っているように思えてならない。

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