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「大河ドラマ太平記」にみる兄弟の因果

過去の大河ドラマの中で、役者が存分に役者でありチャレンジを乗り越えることを強く求められたハイレベルな作品は、きっと「太平記」だと思う。
役者の、役に求められる技や技術を演技に課せられるとき、誰であろうと代役もなしに撮影に臨んだであろう数々のこと、それを演技で応えたこと。
後番組だった「信長」の学芸会ぶりと比較すれば天と地ほどに差があった。

まず真田広之の乗馬は、芸能界(当時TOP3)の腕前。

後ろの榎木孝明と、キャスト変更で新田義貞を演じた根津甚八が残りの乗馬TOP3。贅沢にも「太平記」では芸能界乗馬TOP3が全員登場。ロボットの馬なんて合成も一切なし。
しかも鎌倉幕府の場面では、真田広之はスタントなしで流鏑馬に挑み、本番で命中させるシーンを成功させた。恐るべし身体能力の真田広之。

バサラ大名である以上は自ら花を生けねばならぬ佐々木道誉。陣内孝則はそれもきちんと演じられるよう、事前に技を磨いたとある。

写真集サンタフェを出す前で、CMでも超売れっ子アイドルとして多忙を極めていた宮沢りえも、白拍子の役のため妥協なく舞をきちんと習得している。一切の吹替えはない。

男役の後藤久美子、弓の名手・北畠顕家を見事に演じきった。


思えばあらゆる役者が、その役柄にあわせて必要な技量を事前に身につけてから、大河ドラマの撮影に臨んでいた。トレンディドラマ全盛期、世間では柴門ふみ原作の実写にOLが浮き立つバブルの余韻残る浮ついた時代。
にも関わらず、「太平記」は本格な演技を重厚な脚本のもとに求められ、それに応じられる役者が揃った、妥協なきTHE 大河ドラマだった。
唯一の途中降板は……

萩原健一が病気で抜けただけ。根津甚八に変わっていい感じの新田義貞になったが、もしもショーケンが継続していたら、尊氏を食ってしまう貫禄だったのかと思わぬでもない。それはそれで、別の面白い展開だっただろう。

原作は吉川英治の「私本太平記」。
この作品は宗教的でもあり道徳的でもあり、単なる歴史小説とは重さが異なるもの。何遍も読みふけり、夢酔のその後に多大な影響を与えた。が、当時の夢酔は筆をもって世に出る技も知縁も能力もなく、芽が出ぬそこいらの塵芥の如き輩だった。
そんな圧倒される原作を、脚本がさらに抜きん出たものとした。トレンディに背を向けた、これぞNHKと呼べる重厚なストーリー。(令和人は「麒麟が来る」を手掛けた脚本家、といえばお分かりだろう?)
民間で売れた脚本家に縋って、当たればホクホク、外れたら戦犯並に突き放す昨今の惨い大河とは、訳が違うのだ。

ここまでの話題は、前座だ。

本題に入る。
「太平記」の骨子を支えるのは、家族の物語。若き日の尊氏を支える足利家の一族や家臣たち、トラブルに悩まされながらも必死に次世代の棟梁を守ろうとする父親を演じた緒形拳の演技は、引き込まれる。
特に秀逸なのは、兄弟の描き方。
この作品には幾通りの兄弟が登場して、因果応報もしくはボタンの掛け違え、更には愛と憎の紙一重を渦巻かせ、時には分かり合い、時には分かり合えず、死別決裂あるいはともに死出へ旅立った。この兄弟たちの様は、圧倒的だ。

足利尊氏と足利直義
新田義貞と脇屋義助
楠木正成と楠木正季
赤橋守時と妹・登子
楠木正成と妹・花夜叉
高師直・高師泰兄弟
足利直冬と足利義詮

これら兄弟の多くは、幸せだったのか不幸せだったのか、結論を視聴者に委ねたように感じた。死なせることで理解すること、これが不幸なのか、命尽きるとも七度生まれ変わりて国に報いんことが尊いのか。すべて観る側につきつける公案のような余韻。

肉親を殺してまでも求めるべきものは何か。
究極のことだが、この物語は「太平記」としながら、登場人物がすべて死に絶えて最終回の先に続く時代になっても、実際は戦乱ばかりで太平が一向に訪れていないという、お題に反する残酷な事実。古典太平記は、平家物語のように法師が語り継いだもの。ゆえにドラマで読み解けない、目だけでは見つけられない真のテーマを読み解くため、原作の終末を幾度も読み返して没頭しなければいけない。
小説でありながら、もはや禅問答。
吉川英治最晩年、病床で執筆した作品。これが完結した翌年(昭和37年)、吉川英治は死去している。つまり古い小説だと理解して欲しい。
しかし描こうとしている空気は、21世紀の世界のどこかと、何が変わるというのだろうか。

最後に。

兄弟だけではなく、視聴者が
「まるでなにか憑依したか」
と錯覚するほど釘付けとなり息を呑んだ圧巻。
それは、鎌倉幕府が滅びる場面。

リアルタイムで放送を観た者は、言葉を失いただ茫然とテレビをみていたことだろう。再放送でも色褪せぬ。作り物を越えて訴えてくる諸行無常と勝者必衰の理。
もう二度とあれを凌げる鎌倉炎上の場面をみることはないだろう。