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まだ準備最中だし、やるか分からないネタ

南信州の文化水準や意識のことを、皆さん、高い地域であることを意識されたことがあるでしょうか。
歴史において、幕末前、ここに平田国学が流行し、多くの知識人を輩出し中津川や諏訪などに学問を通じたネットワークが構築された。国学は尊皇の意識にもなり、幕末を歴史の水面下から支えた。
松尾多勢子がその例だ。
松尾多勢子は立派に歴史を底辺から支えた。岩倉具視を天誅から救い、長州に絶大な信頼を得、品川弥二郎をして皇后からの覚え目出度き存在となる。
が。
ただの国学者にはこれほどのことは出来ない。和歌という才は、一介の豪農の女が極めることなど難く、その環境や修練の刻を得たのは、それだけ地域が学問に対し寛容かつ熱心である証とも云える。

松尾多勢子は南信州の教養を代表する人物だ。

国学。国を思う気持ち。そして奉公の覚悟。土壌に浸透している地域だからこそ、いざというときは、国のために尽くす集団心理が働くものだろうか。

満蒙開拓団がその一例だ。

1932年から1945年まで、日本各地から農業開拓移民が中国東北部(満州)へ送り出された。
理由は、「昭和の大恐慌対策」と「過剰した人口の口減らし」そして「軍事上の屯田兵的役割」を担うため。日露戦争で獲得した南満洲の権益を守るため渡満した開拓民はおよそ27万人余。そのうち長野県から送られた人数は3万3000人。これは全国一の多さである。さらにいえば、その4分の1を占める8400人が飯田・下伊那郡といった南信州からのもの。長野県の4分の1以上が南信州からの渡満者ということになる。
なぜ多いのか。
国策だからというなら、もっと人口の多い県があってもおかしくない。国策だけではなく、地域の、公徳や教養の意識が高すぎたのではないか。そう考えられる。ならば雅な京都から大勢出てもいいのだが順位は35位、下から数えるのが早い。奸智なところがあったのか。長野県民は純朴で、国がいうなら疑いを持たなかったのだろうか。そう思えてならない。

御所車の旗をひるがえした豪族・知久氏。
皇族から与えられたといわれる家紋である。

ここにヒントはないか?

南信州に、天皇の皇子がいた。信濃宮宗良親王。後醍醐天皇の皇子だ。すなわち南朝勢力である。宗良親王は和歌で知られる教養人、南北朝動乱さえなければ一生を天台座主として学を極められた筈の雅なる君である。
この皇子のおかげで豪族や地域、南朝に与した大勢が教化され、学問を好む風土になった可能性は否定できない。或いはお手がついて、やんごとなき血が南信州に広まっても不思議ではないだろう。

これまで、松尾多勢子・知久一族・満蒙のことを作品とした。

その源流である南北朝の南信州を題材にすれば、三作品の登場人物たちに受け継がれる教養の源に辿り着けるのではあるまいか。

そういうプロットを思い描いた。

しかし、資料については極めて乏しい。

本当にこれを完成出来たら、我ながら拍手喝采ですね。
2月講演前に、よくやるわい。
ヒマ、あるんかい。