見出し画像

龍馬くじら飯 episode5

 第5話 長崎 1865
 
 長崎は龍馬のような人間に、都合の良い社会だった。長崎奉行所など幕府の目が光ってもいたが、それは陽の当たるごくわずかな部分に過ぎない。世の中とは面白いもので、光の眩しさで霞んでいる日陰の方が、何層にもわたり奥が深いものなのだ。
 亀山社中が光の存在ならば、裏の、そのまた裏、さらに裏という格好で、闇の社会は果てしない。
 土佐脱藩の身の上で、堂々と陽の下を龍馬が闊歩できるのは、何故か。それは、龍馬があらゆるところの懐へ入り込める、天然の素養である処が大きい。薩摩藩の庇護もあるが、それだけではなかった。トーマス・ブレーク・グラバーというイギリス商人と繋がるときには、彼らの結社に参加を許された。こういう秘密結社という概念は、島国である日本にはないものだ。上海あたりには結社があるような話を、長州の高杉晋作に聞いたことがある。そも、長州藩は先の長州征伐で幕府から厳しい扱いを被り、外国人の武器商人から購入が認められないことになっていた。高杉晋作とは長崎で会い、武器調達の目的も果たせず途方に暮れていることを知った。
「なんとかしちゃりたいものや」
 龍馬は思案した。
 薩摩名義で武器を異国から購入し、長州に横流しする。仲立ちするのは亀山社中という筋書きは妙案だったが、問題があった。先の禁門の変や長州征討で功を挙げた薩摩のことを、長州は許さない。薩摩にしてみても、後ろめたいことはないのだから、逆恨みも甚だしい話だ。こじれた感情がある商談は成立しない。
 龍馬としては、これをまとめたい考えが強かった。
 もしもこれが成立すれば、旨味は大きく誰にも成し得ない実績となる。お互い本音でいえば、喉から手が出るほど欲しいパートナー、なのである。
「高杉さん、たまには庶民的な味が恋しかろう。飯でも食べんか」
 何かと管を巻くときに高杉晋作らが贔屓とするのが、丸山の引田屋本家花月楼だ。贅沢な場であり、藩の公金で飲み食いしている。しかし、庶民的な料理とは程遠く、舌が肥えても良い事ばかりではない。
「坂本君の云うこたぁごもっともだ。儂も庶民のことを足元として忘れてはいけんにゃあ考えちょる」
「さすが、高杉さんじゃのう」
「もっと褒めてくれたまえ」
 これまで会った他国の者で、勝麟太郎を除けば、この高杉晋作ほど龍馬とウマのあう者はいない。龍馬の一方的な感情ではなく、むしろ高杉こそ龍馬に心を許していた。互いの発想が斬新で、身分の上下も意識せず、臆せずに誰とでも接することが出来る。
 土佐っぽは浴びるほど酒を飲み我を忘れる。高杉の飲み方も似ており、今を存分に楽しむのだという信念は揺るがない。当然、酒癖が悪く、互いにに喧嘩のようなことになっても、その場で水に流せる。理想的な酔っ払いだ。ゆえに、両者は互いに尊重しあい尊敬しあう。
 龍馬の懸念と云えば、たまに高杉が、妙な咳をすることだけだろう。
 庶民的な場というからには、徹底的にと盛り上がり、港の水夫がたむろする様な盛り場にて二人は呑み始めた。
「おお、見てみや高杉さん。鯨の百ひろが食えるようや」
「わしゃ鯨が好きじゃな。長州では鯨を食うて、大きゅうなったんじゃ」
「やったら、店の鯨を全部喰い尽くしてしまおう」
「面白い。坂本君は実に面白い。大いに賛成じゃ。この店の鯨は、みんな食い尽くしちゃろうじゃないか」
 百ひろは鯨の腸を料理したもの。酒の肴には丁度いい。土佐が懐かしいと云いながら龍馬がつついたのは、鯨のたたきである。鰹よりもさっぱりとして濃厚だ。湯かけも、さっぱりとして良い。
「長州の鯨もええが、長崎もええ。わしゃ引田屋で無駄な酒席を重ねちょったようじゃ。こねーに美味い鯨が長崎にあるのなら、もっと早うに退治しちゃればよかった」
 高杉はすっかりとご機嫌だった。
「鯨は大きいが無駄がない。大きいモンは人であっても無駄はないという。高杉さんはそう思わないかな?」
「まあ、そうかも知れんな」
「西郷も、まっこと大きいぞ。やけんど、使い様で毒にも薬にもなる。鯨と同じや。高杉さんは、どう思うかな」
「西郷か……」
 言葉が出ない。出せば、恨み言しか出ないだろう。酒が、不味くなる。
「なんで、西郷なんじゃ」
 高杉晋作は、敢えて質した。相手の好き嫌いを知らぬ龍馬ではないのに、わざわざ口にするのは何故だ。きっと、理由がある。
「薩摩の名義で亀山社中がグラバーから武器を購入する。それを、長州に横流し。代金は長州から貰うたら、損もない。えい考え思わんか?」
「いや、二つ気に入らん」
「何がや」
「先ず、坂本君は薩摩の庇護で商売しちょるのじゃけぇ、薩摩の手先じゃ。哀れみやら受けとうはない。もう一つは、薩摩に借りを作るさあ御免じゃと云う事。分かるか、坂本君」
「こんまい事えいなさんなや、高杉さん」
 大きい鯨にさえ、無駄はない。犬猿の仲である長州も薩摩も、憎んでいる感情だけを除けば、互いに向いている方向は同じではないか。云われるまでもない、高杉晋作でも分かる理屈だ。ただ、感情というものは、簡単にどうのこうの出来る単純なものではないし、一人や二人のことではない。どうにもならぬ。
「西郷さんは儂みたいなモンを信じて、長崎での活動に金を出いてくれた。家老の小松さんが人も寄越しちゅーき、薩摩の監視もある。が、やること一々に、口を出さず好きにさせてくれる。西郷は太っ腹なものや」
「なら、このこたぁ」
「小松さんは承知のこと」
「じゃけど、薩摩に借りを作るさあ、死んでも御免じゃ」
「長州は豊作らしいのう。米は、余っちょらんか?これを安う売ってくれたら、きっと西郷さんも恩に着るろうねや」
 つまりは、五分と五分。条件は対等になる。真ん中にあるのは亀山社中の商売だから、長州も薩摩も対等になるのだ。悪い話ではない。
「坂本君にゃあ、適わんなあ」
 小さな酒場で鯨をつつきながら、その後のことはキチンと詰めていけばよい。考えてみれば、どこに損があるというのだ。
 悪い話ではない。
 と、この夜は、とことん二人は呑み明かした。

#創作大賞2024 #漫画原作部門

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切: