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異形者たちの天下第2話-7

第2話-7 葦の原から見える世界

 慶長一九年(1614)は正月から忙しない年であった。
 江戸には相変わらず仕官先の定まらぬ浪人が燻っていた。そんな浪人たちにひとつの噂話が流行したのも、この頃である。
「大坂城ではキリシタン武士を召し抱える」
というものである。たぶん徳川方が意図的に情報操作したものだろうが、実際のところ、大坂城はその動きを行っていた。ただし求めるキリシタン武士は大名豪族クラスの合戦巧者である。それでも食詰め浪人たちにとって、この噂は有難い話である。結果、多くの浪人たちが大坂へ流れていった。
 合戦が起これば人材は貴重である。兵は多いに越したことはない。いつの時代も戦さとなれば雇用求人のバランスが逆転する。勢い大坂城はこれら浪人を召し抱えるべきかを真剣に考え始めていた。
 ただし豊臣信奉者でありながら江戸に留まる者も少なくない。大坂と呼応して江戸城下を焼こうと企てる輩がいたのだ。そして、そんな輩が集うのも、盛り場というのが相場だ。自然、遊女屋などで密談が交わされることも少なくない。
 この年、庄司甚右衛門は江戸町奉行・島田次兵衛利正に建白書を提出した。
「江戸に点在する遊女屋を一箇所に集めて公儀娼とすべし。遊女屋をまとめるのは江戸市中の風紀を取り締まるものなり。また市中を騒がせる不貞浪人の出入りを監視するに最も有効な機関である」
 つまり市中に点在する遊女屋を幕府公認の公娼とし、居住区とは別の場所へ移してしまえというのだ。遊女屋の経営者が率先していう言葉ではないが、市中の治安に頭を痛めていた島田利正にとっては有難い話である。しかも江戸に潜伏している浪人の掌握も出来る。他に女を抱く処がなければ、厭でも浪人たちはそこへやってくるという寸法だ。
「これは画期的ぞ」
 ただしこれには取引的なものが含まれていた。
「そこの桜主に是非とも」
と、庄司甚右衛門が名乗りを上げてきたのだ。無理もない。江戸に開かれている三箇所の大規模遊女屋は、風魔一族の息が掛かっている。これらを統治するのは風魔一族の棟梁に他ならない。
 ただし島田利正という実直な奉行は将軍・秀忠付の人物である。このことを具申したところで、秀忠は取り合う気はなかった。だから自然とこの具申は老中・本多佐渡守正信の耳に入ることとなる。
 本多正信はすぐに駿府へ報せた。倅の正純は良策として家康の裁量を仰ぐが
「幕府に仇為す輩に手心無用」
と一蹴された。正純は父・正信へ一語一句そのままに伝えた。
 本多正信はこのことを再考し、効果的な手段であることを改めて認識した。そのうえで自ら駿府へ赴き家康と談判に及んでいる。この正信をしても家康は是としない。
「大坂が滅べば不埒者はなくなる。キリシタンが消えれば足元も涼しくなる」
 このとき家康は豊臣家を滅ぼす算段を企てていた。既にイギリス・ポルトガルから石火矢を購入する段取りをしている。キリシタンへは手心加えぬ家康も、西洋の死の商人には寛容だ。
 本多正信はこののち江戸に帰ってから
「独断で」
庄司甚右衛門と接触した。
 
 柳町の遊女屋に下手な変装で本多正信が訪れたのは、江戸帰国の翌日のことである。
「老中ともあろう御方が、女郎を買いに参られましたか」
 戯れに呟く庄司甚右衛門の言葉に、眉のひとつも動かさずに正信は座した。
(つまらぬ堅物よ。噂通りだわ)
 本多正信は周囲を伺いながら
「そうか……そういうことか」
とだけ呟いた。何事かと訊ねたが、それに触れることなく
「公娼」
の構想について、さっそく正信は仔細を問い質してきた。
 庄司甚右衛門は島田利正に話したことをすべて伝えた。黙って聞いていた正信は、ふと口元を歪めながら
「これと同じ嘆願を十二年前に一度聞いたことがある。あのときは豊太閤の小田原征伐の直後であった。徳川は江戸へ移転したばかりで、そのようなことに関心を向ける余裕がなかった」
 本多正信はじっと庄司甚右衛門を見据えながら
「あのときの嘆願もそちであろう」
 本多正信の言葉に庄司甚右衛門は大きく頷いた。満足そうに頷きながら
「手前は北条家の旧臣であるな。しかも徒者ではない。風魔の忍軍であろう」
「なぜ、そうと?」
「ここへ来るまでずっと監視していたであろうが」
「ご冗談を……」
「かつては儂も一向一揆の門徒でな、そういう臭いには敏感なのよ」
 大したものだと庄司甚右衛門は舌を巻いた。隠しても得にならぬと、彼もすぐに正信の推察に頷いた。
「なればこそ、さ」
「は?」
「風魔ならばこそ、江戸の闇を任せられる。遊女屋から見える風景がいちばん人間の本能に忠実なものだ。下手な輩には任せられぬ」
 この言葉は本多正信の裁量で公娼を認めるものだった。幕府の誰もが認めていないこの事を、手放しで認めているのだ。
「大御所は足元を疎かにしている。将軍は何も見えていない。だからこの佐渡守が独断で赦す。日本橋葺屋町の海岸沿いに空き地があるから、これに設けるがよかろう。ただし時期を見て進めるがよい。資金は儂が工面する」
「まことにござますか」
「時期を見るのだぞ。今すぐではない。そのときが来たら儂が動く」
「は」
 本多正信は含み笑いを浮かべながら、こう付け加えた。
「大御所は伊賀者を過大評価しているが、あれはもう役には立つまい。将軍も柳生を抱えているが、忍ノ者としては頼りない。風魔が権力の外で江戸を守護してくれれば心強いというもの」
 庄司甚右衛門は本多正信の凄味をこのとき実感した。
 家康の陪臣でありながら公然とそれを否定するこの男は、目的のためなら何でもする噂通りの策士であった。久しく忘れていた
「生命のやりとり」
をしたような、胃の腑の痛みを庄司甚右衛門は感じていた。
 
 公娼の設置はこれより三年後、その頃既に家康はこの世に亡く、病床の本多正信はその死に臨んで資金を庄司甚右衛門に差向けた。葦が一面に広がる海岸沿いの原に造られたそこは
「葦原」
と呼ばれる湿地帯であった。その湿原は開発されて見事な色里へと変貌を遂げた。後世この地名は吉祥文字に改められて
「吉原」
と名を変えた。
 吉原とともに公娼は全国的に置かれた。風紀を取り締る建前でありながらその真実は徳川の秘密監視組織である。庄司甚右衛門は代々そこを統治し町年寄として不夜城を統括していく。
 
 さて服部半蔵は、よもや本多正信と庄司甚右衛門の間でこのようなやりとりが行われていたことを知る由ない。いや、自力で知る力が失せていたと云っても過言ではなかった。
 本多正信がいったとおり、伊賀者は忍ノ者としてはすっかり実力を失っていた。密偵活動はもちろん諜報活動さえも、もはや従来の実力に満たないのである。すべては主持ちとなることで
「黙っていても決められた俸禄が頂戴出来る」
 この組織体系に取り込まれた証であった。
 いま伊賀服部一族で実戦的なのは、甲州街道の守備を担う者たちだけであった。有事発生時の将軍避難。それだけは手抜かりがあっては断じてならないと、日夜修練を怠らない。地下道を用いる方法や長槍で警護する方法、更には鉄砲隊による訓練が人知れず行われていた。
 悲しいかな服部半蔵が正確に掌握していたのは、この守備隊だけである。
 現実の棟梁・半蔵正就の耳や目はすっかり曇っており、家康の信頼も薄らいでいた。定められた俸禄が忍ノ者という特殊技能の男たちを良しにしろ悪しきにしろ
「駄目」
にしていった。それに取って代わる者たちが現れても、不思議ではない。現に徳川秀忠は伊賀服部衆に頼ることなく柳生を用いている。
 そして、本多正信はそれを風魔に求めた。
 この時点で風魔の存在を知るのは正信だけだから、これは私的に忍軍を掌握したに等しい。それでいながら家康には報告もせず、涼しげにしている。やはり本多佐渡守正信は稀代の策士といえよう。
 
 そして慶長一九年という年は、この国の歴史の転換期でもあった。
 それはこの国の武士と名のつく男たちが、夢と、野望と、挫折と苦渋にまみれる日々の繰り返しを意味する。それとて更なる過酷への道のほんの序曲に過ぎない。
 服部一族の運命も、また例に洩れなかった。
 
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