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家の奥

  この事件が起きた時、僕は九歳だった。その日、僕は小学校から帰るとランドセルを部屋に投げ出し、いつものように台所に行き何かおやつはないかと探していた。すると急に背中に気味の悪い冷気を感じ、後ろを振り返ってみた。その冷気は廊下を伝って奥の部屋のほうから流れて来ていた。一緒に暮らしていた祖父は留守で人気のない屋敷の中はしんと静まり返っている。その中、暗い廊下を伝って何者かの囁く声がした。
――来るのじゃ、来るのじゃ。
  半ズボンに白い靴下をはいた僕は引き込まれるようにして廊下に出て行った。二百年ほど昔に建てられた古い家で屋根は藁ぶきで苔むしていた。閉めきった部屋の数は全部で三十ほどあった。その中で特に奥まった部屋は開かずの間として、誰一人入ってはいけないことになっていた。幻のようなその声はまさしくその開かずの間の方から這い出ていた。闇の廊下の奥から何者かが冷たい邪な視線を放ち、僕を捉えて離さない。魅入られて僕は夢見るように歩いた。
  僕は次々と続く閉めきった部屋の前を通り抜けて、ついに開かずの間に続く小部屋に入った。塗りこめた低い天井と赤黒い畳敷き。目を上げると正面に結界が張られた板戸があった。その奥が開かずの間。前には白い座布団が一つ置かれ、何者もこれを超えては行かれないことを示していた。
――来るのじゃ、そこを超えて。
 結界は今にも千切れ落ちそうになっていた。死んだ獣が腐ったような臭いが開かずの間からもれてくる。僕は禁忌の境をまたぎ、板戸の古びた結界を引き裂いた。部屋の中に入るとそこにはどす黒い闇の妖気が渦巻いていた。後ろ手に部屋を閉めきると闇の中に蠢く不吉な妖が告げる。
――その封印を解け。
  開かずの間の最も奥にある巨大な黒い柱に貼られた呪封印の前に僕は歩み寄った。導かれるまま歩み、柱の前に立ち、それを剥がし捨てた。すると柱から怨念にゆがんだ人面が俄かに浮かび口の中に白く濁った霧となって飛び込んできた。魔性が僕の中に活きづく。
――呪え、呪うのだ。
  僕は柱にささる太い釘の上に左手をあて、右手のこぶしを打ちつけた。釘が掌を貫き鮮血が床に流れ落ちる。
――呪え、呪うのだ、おのれ自身を。
 魔物に煽り立てられ、僕はなおも狂い、右手で打ち据える。血が迸り、返り血で顔を赤く濡らした。僕の燃える赤い眼が呪いの悦びに震えていた。
――呪いは今まさに再び成就する、この者の命と引きかえに。
 その時、僕の首をめがけて何かが飛んだ。そのものは僕の首に巻き付き骨が折れそうなほどの力で締め付けた。僕は息ができない。触れてみるとそのものは人の背丈ほどもある大蛇だった。僕は膝をつき、床に倒れる。やがて、意識がもうろうとし、最後に気を失った。
  目覚めると僕は離れの一室に寝かされていた。
「気づいたか」 
  祖父が枕元に座っている。吸飲みで水を飲ませてくれた。
「危ないところだった。護り神様に助けていただいた。有難いことだ」
 祖父はそう言って、僕を見つけた時のことを話してくれた。
  祖父は帰宅した時に屋敷に漂う妖気に驚いたという。
呪いの凶気が家の外まで流れ出していた。
「孫が開かずの間に踏み入ったに違いない」
  祖父は僕が結界を踏み超えた事を即座に悟った。そして、隠しておいた怨霊調伏の呪封印を取り出し、開かずの間に走った。見ると倒れた僕の頭から首にかけてとぐろを巻く白蛇がいた。この白蛇こそが屋敷の護り神だった。祖父は蛇が僕の口の中から体内に入り込み怨霊を食い尽くすのを待った。そして、蛇が口から這い出ると、祖父は柱にある血だらけの釘の上に呪封印を貼った。開かずの間に満ちていた妖気が消え、不吉な臭いも途絶えた。白蛇は畳の上を這い、何処へかと消えた。
「昔、この屋敷を建てる時に何者かが呪い木を心材となる材木に紛れ込ませた、という。呪われた心木を使ったため、この屋敷の者にはその後、不幸が続いた。誰が呪ったものか分からないし、また、その理由も詳らかではない」
 祖父は開かずの間に再び結界を結び人の出入りを禁じたが、奇怪なことに数日後、不審火があり、祖父と僕の住む屋敷は焼け落ちてしまった。
「呪いもこれで命脈がつきた」
つぶやく祖父を見て僕はこの火事の真相は黙っているしかないと思った。
夜、離れの窓から外を眺めていると、何かが焼け跡の闇の中に湧き立ち、白い幻となって何処へともなく去っていったのが見えた。
                                    了


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