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小説「空気男の掟」5

5 止まった時間の動かし方


 僕は暗闇の中で、もちろんひとりきりで昨日の夢のことを思い出していた。夢の中で僕と理子は砕け散った。その後はどうなったのだろう。砕けた物は直らないのだろうか。それは誰でも知っていることだ。砕けたガラスは直らない。人間関係にしてもそうだろうか。砕けた関係はもう戻らないのだろうか。それに、こんな状況になってもまだ理子に会いたいと言えるだろうか。どんな顔をして会えばいいんだ。表情なんて作れそうにもない。理子に会ったら、どんな顔になるかなんてわからない。カオナシのような仮面を被っていないと、話すことさえできないような気がした。理子ともし再会できたとしても、僕は今まで通り話すことさえできそうにない。

僕は、理子がいなくなるということがどういうことか少しずつ理解するようになっていた。現実的な物質の喪失により、明るさを失い、文明を失い、残ったのは自由だけとなっていた。僕はこの自由を何に使いたいんだ。果たしてこれが自由と言えるのだろうか。そんな僕に残された物は何だろう。そう思って、立ち上がって家の中を確認することにした。

僕は暗闇に少しずつ慣れた目を凝らした。ものの見事に理子が所有していた物は全てなくなっていた。代わりに僕が買った物や持ってきた物はしっかりと残されていた。歯ブラシはひとつに、フライパンはゼロに、ベッドはひとつに。

ただひとつ僕の物がなくなっていた。スケッチブックだ。大学時代に使用していたスケッチブックがなくなっていた。どこを探しても見当たらなかった。スケッチブックは、いつも僕の部屋にあった。それも誰にも見つからないと思っていた場所に隠していた。僕は、パソコンの台にしていた段ボールの中にスケッチブックをいつも隠していた。僕は、大学を卒業してからもスケッチブックを捨てずにいた。けれど、スケッチブックを誰かに見られるのはいささか恥ずかしいので、誰にも見られない場所に保管していた。それが、パソコンの台として使っていた段ボールの中だった。

僕の部屋の照明は取り外されていた。もちろん照明のスイッチを押しても電気は点かなかった。部屋にはパソコンが残されていた。台として使っていた段ボールも残っていた。段ボールは、パソコンの重みに耐えかねてへこみ始めていた。パソコンをどかして、段ボールの中を見てみると何もなくなっていた。

理子はこのスケッチブックの存在を知っていたのだろうか。

昨日見た夢では、僕は理子にスケッチブックを見られていた。しかし、現実は違っていた。再会したあの日に、理子はスケッチブックを見ていなかった。僕は、理子に見られないようにスケッチブックを鞄の中に隠していた。そして、現実にはスケッチブックを理子に見られることはなかった。僕が、絵を描いたり詩を書いたりしていることすら理子は知らないはずだった。なぜ理子は、スケッチブックの存在を知っていたのだろう。なぜスケッチブックがなくなったのだろう。僕はスマホを開いた。暗闇の中でスマホの仰々しい光を浴びながら理子にメッセージを打った。

「スケッチブックがなくなってるんだけど、何か知ってる? もし持っているなら返して欲しい」

そう僕は理子にメッセージを送った。僕は電源の点いていないパソコンの前で、何もせずに胡坐をかいていた。パソコンを点けて何かをしたいという意欲は全くなかった。ただ、僕は理子からの返事を待つためだけに存在していた。しかし、どれだけ待っていても理子からの返事は来なかった。もう返事を待つのを諦めて寝ようと僕は思った。身体がこわばっていてうまく動かなかった。ゆっくりと立ち上がり、浴室に向かった。風呂場には理子が使っていたシャンプーやコンディショナーがなくなっていた。なぜだか僕は少し笑ってしまった。僕はシャワーを浴びてから、リビングのソファーで横になった。寝室のひとつだけになったベッドを見たくなった。

部屋からはテレビもなくなっていていた。時計がなくなったこの部屋では、まるで時間が止まってしまったようだった。僕の時間は何かが、誰かが知らない間に刻みとって奪っていたのかもしれない。「チッチッチッチ」。「時刻は20時55分、ニュースをお伝えします」。そんな音が僕から時間を奪っていたのかもしれない。意図せずに取り戻した時間を、僕はどう使いたいのだろう。目を瞑っていても眠れそうにない。でも、今は眠る以外にやりたいことも思い浮かばなかった。限りない自由を限りない睡眠に捧げたかった。

 どれくらいの時間が経ったかもわからない。僕は、眠れずにいた。喉がカラカラに乾いていた。キッチンでミネラルウォーターを飲んだ。そして、外の空気を吸いたいと思い、家から外に出た。ドアを開けた先には、鳥男がいた。彼は、廊下から外の景色を眺めていた。僕はその後ろ姿に声を掛けてみることにした。誰でもいいから、話し相手が欲しかった。

 「こんばんは」僕は言った。

 「ああどうも、こんばんは」

鳥男が挨拶を返してきた。目を細めて目元に皺ができた。マスク越しでも笑顔を作っていることがわかる。表情が戻ると、不思議そうに僕を見てきた。目を大きく開けて見られると、不気味さが増していく。僕は何を話せばいいのかわからなかった。そもそも鳥男と僕の間に話題はなかった。

 「いい天気ですね」鳥男が言った。

 「いい天気ですか? 夜だからよくわかりませんけど」

 「ええ、いい天気ですよ。雨も降ってなければ雲もない。先日の嵐と比べれば大抵の天気はいい天気ですけどね」そう言って鳥男は笑った。

 「確かにそうかもしれません」

 「いつも通り月も光ってます。見てください。満月まであと数日というところですが綺麗だと思いませんか?」

 僕は、鳥男に促され、空を見上げた。いつも通りの月が浮かんでいた。

 「綺麗ですね、いつも通り」

 「そう、いつも通り綺麗なんです」

 「前から思ってたんですけど、あなたは何でここにいるんですか?」

 「ここに?」

 「はい、この階でこの廊下で何をしているのかなって気になっていたんです」

 「ああ、そういうことでしたか。てっきり存在に対する哲学的な問いかけかと思っちゃいましたよ」

 「そういうわけではないです」

 「頭おかしいって思ってくれていいんですけど、本当のことが知りたいですか?」

 「はい。別に嘘は知りたくないです」

 「UFOを探しているんです」

 「あのUFOですか?」

 「ご想像の通りのUFOです。ちょっとあなたがどんな想像しているのかわかりませんが」

 「普通の円盤のUFOを想像してました」

 「そうですか、そうですか。わたしはUFOを探すためにここに来て、空を見上げているのです」

 「はあ。なんでUFOを探しているんですか?」

 「ちょっとロマンじゃないですか。男の子の」

 「そんなもんですかね。UFOは見つかりましたか?」

 「見つけましたよ。ちょっとね」

 「本当ですか?」

 「嘘です」

 「はあ」

 「嘘です」

 「どこまでが嘘なんですか?」

 「全部です」

 「はあ」

 「UFOなんて探してませんよ」

 「はあ」

 「本当のことが知りたいですか?」

 「はあ」

 「ここからだと向かいの高架を走る電車が見えるのわかりますか? あそこです」

 促された場所を見ると、建物の隙間から小さく電車が見えた。

 「あれですか」

 「そうです、あれです。わたしはあの電車を見ているんです」

 「電車がお好きなんですね」

 「はい、そうです」

 「そうなんですか」

 「嘘です」

 「はい?」

 「電車は嫌いです。わたしは、電車が暴走していないか見張っているんですよ。あれは簡単に人を殺してしまうんです。あれはちょっと危ない」

 「確かにそうですけど」

 「誰かが見張っていないといけないんですよ」

 「見張っていても僕らには何もできないんじゃないでしょうか。ここからは電車とこんなに離れている。ましてや電車を操縦することもできない」

 「それでもわたしは電車を見守っているんです。」

 「何か理由はあるんですか?」

 「いや、ちょっとね」

 「そうですか」

 「わたしは、電車に乗っている人々が無事に家にたどり着くことを祈っているんです。ただ、何事もなくいつも通りに家に帰れることを祈っているんです」

 「いつも通りですか」

 「いつも通りです。だからわたしはここにいるんです。わたしの住んでいる2階からだと電車は見えない」

 「はあ、そういうことですか」

 「そういうことです。わたしの話を信じていただけますか?」

 「ええ、まあ」

 「本当ですか?」

 「ええ、はい」

 「失礼ですけど、あなたは単純な人なんですね」

 「そうですか?」

 「わたしの話を信じるなんて。本当に電車を見て祈りを捧げている人がいると思っているんですか?」

 「あなたがそうですよね?」

 「そう言いましたが、本当にそうだと思いますか?」

 「ええ、そう思いましたけど」

 「ちょっと信じられない。本当に信じてくれるなんて」

 「違うんですか?」

 「いえ、それが本当なんですよ。わたしは電車に向かって祈りを捧げているんです。ただあなた、少しは人を疑った方がいいですよ。いつかその性格のせいで大切な物を失ってしまうかもしれません」

 「僕に大切な物などありません」

 「そうですか」

 「彼女も出て行ってしまいましたし。守りたい物もないんです」

 「それはちょっとお気の毒ですね」

 「どうすればいいのか、もうわからないんです」

 「どこにもいないんですか?」

 「見当もつきません」

 「探したんですか?」

 「探して、ないです」

 「ご自分で探してないんですか? ちょっとそれは」

 「探して、いないです」

 「あの、失礼かもしれませんが、本当に彼女のことを大切だと思っていたんですか?」

 「大切、だった、と思います」

 「それなのに、あなた自身は彼女のことを探していない。一体何をやっていたんですか?」

 「そうですね。普通に、普通に生活をしていました。ただ、何もやっていなかったわけではないんですよ。彼女の居場所を調べて欲しいと、依頼をしましたし」

 「ただ、あなたは彼女を探しには行かなかったということですか」

 「僕を責めないでください。確かに探しに行っていません。本当にどうすればいいのかわからなかったんです。あの日、あの嵐の日に彼女はいなくなったんです。探しに行こうにも外には行けなかった。嵐が過ぎ去った翌日からは、淡々と生活は続いていました。それでも、時間が止まってしまったみたいなんです。現に、部屋の壁掛け時計はなくなりました。彼女の手配した引っ越し代行業者が取り去ってしまったんです。僕には何も残されてはいないんです」

 「そうでしたか。でも、安心してください。時間が止まっているのはあなただけではありません。わたしもそのひとりでした。似たようなものです。止まった時間を動かすことも諦めかけていました。わたしが、毎日祈りを捧げるのは他の誰のためでもなく、出て行った家族のためです。妻と息子はあの電車に乗って行ってしまったんです。真夏の猛暑の中、妻と息子は出て行ったんです。三十六度を超える目もくらむような気温の中、蝉もおとなしくなっていました。そんな中、妻と息子は出て行ったんです。腹をくくった女性は強い。あの強い意志には男はちょっと敵わない。わたしはその日、一日中扇風機が首を振っているのをただ眺めていました。どうしても身体が動いてくれなかったんです」

 「そうだったんですか」

 「繋がりなんて簡単に切れるんですよね。夫婦であろうと親子であろうと。少し、わたしのことをお話ししてもいいですか?」鳥男は僕に聞いた。

 「ええ、どうぞ」僕がそう答えると鳥男は話し始めた。


わたしの家族が崩壊してしまったのは、十数年以上前のことです。先ほども申し上げた通り暑い夏の日に妻と息子は出て行きました。当時、わたしは無職でした。ちょっと色々とあったんです。以前は、主に開業医向けに医薬品の営業をしていました。業績も問題なかったのですが、体力的に意外にハードな仕事でして。夜の接待なども多く、日々疲れ切っておりました。ただ、そんなわたしにも趣味がありましてね、休日は釣りに出かけていました。ほとんどは、川釣りです。もちろんここの近くの多摩川がメインの釣り場ですよ。息子とよく一緒に釣りに出かけたものです。釣れるのはほとんど鯉ですね。だから、持ち帰って食べることもしません。ただ釣って川に放つ。キャッチアンドリリース。そこに何の意味があるのかなんてちょっと考えたこともありません。ただわたしはそこにいるんです。

息子が小学生になって初めて一緒に釣りに行きました。梅雨が明けた7月頃で日射しも強かったのを覚えています。その時、針に餌をつける方法を息子に教えていたんですが、誤って指に針を刺してしまったんです。あの子は、それでも泣かなかった。強い子だったな。今思い出しても、わたしよりも強い男の子でした。荷物を全て片付けてすぐに家に帰りました。帰って事情を説明すると妻は目の色を変えて、息子を怒りました。それをわたしが制して、妻をなだめました。指の怪我の処置が終わると、息子はポツリと「釣り行きたい」と言いました。妻はそれを聞いて憤慨しましたが、わたしは嬉しくなって笑っていました。知らない間に強い男の子に育っていたのです。わめき散らす妻をしり目に、わたしは息子を連れて再び釣りに出かけました。わたしと息子は大きな石に腰かけて、夕方まで一緒に釣りをしました。釣れたのは、たったの一匹でした。それでも、息子は嬉しそうにはしゃいでいました。夕方には、持ってきた水筒の麦茶はすっかり空になっていました。息子の被っていたジャイアンツの帽子の淵には汗の跡がつき、白い塩に変わっていました。

その日から、息子と一緒に釣りに行くようになりました。それは、わたしにとって大切な時間となりました。息子からはジャイアンツの話、学校の話、嫌いな勉強の話、妻の話、友達の話など沢山のことを聞きました。当然のことかもしれませんが、わたしは息子に向かってわたしのことをほとんど話していませんでした。聞かれないからただ話さないのです。もしかしたら、息子はわたしに興味がなかったのかもしれません。わたしは、息子のことが知りたいともちろん思っていました。

わたしの仕事がうまくいかなくなったのは、ちょうど息子と釣りを始めてから一年が過ぎた頃でした。わたしの勤める会社は全国に支部が置かれています。ある日、いつも通りに出社したところ、上司から話があると言われ会議室に通されました。暑い日で、上司のシャツが汗で肌にへばりついていたのを覚えています。会議室は冷房で寒いくらいに冷えていたんですけどね。きっと汗が引いていなかったんでしょう。そして、上司からは、異動の打診を受けました。退職など人事的な問題が重なり、大阪支部の人員が足りていないということでした。そして、現場での営業経験が長いわたしに大阪へ異動して欲しいということでした。わたしは家族と相談させて欲しいと上司に伝え、その場では答えを出しませんでした。異動の話を聞いたときにまず頭に浮かんだことは、息子との釣りでした。わたしがもし異動したなら、家族とは離れて暮らすことになります。わたしはすでにマンションを購入していました。完済まで残すところ十年あまりでした。妻も息子にも築いてきた人間関係があり、それを壊すわけにもいかないとわたしは考えました。もし異動することになったら、マンションを売却せずに家族を家に残し、単身赴任をすることになったでしょう。でも、わたしは異動の話を断ることにしました。息子と釣りをして休日を過ごし、家族が同じ家に暮らすことを何より大切だと考えたからです。結局、わたしは家族には異動のことは相談しませんでした。

職場でのわたしの扱いが変わったのはそれからです。わたしはまるで空気のように扱われていました。わたしだけ資料が用意されずに会議が始まったり、わたしのいる前でわたしの陰口が言われたり。ちょっと笑っちゃいますよね。その人の前で悪口を言うことは陰口とは言わないのに。それはあくまで陰口でした。わたしはいないものとして、空気として扱われたのです。今、思い出してみても嫌なものですね。

妻には、そのような状況は話していません。話したところでどうなることでもありませんでしたから。わたしも最初のうちは我慢をしていたのですが、次第に苛立ちは募っていきました。もちろん、職場ではその苛立ちを隠そうとしていました。ほとんどが外回りだったので、会社に身を置く時間も少なかったのは不幸中の幸いでした。しかし、無自覚に煙草や酒が徐々に増えていきました。ふいに感情のコントロールができなくなり、ちょっとしたことで息子を叱りつけることが増えました。妻にも暴言を吐くようになっていました。こうして話していても、自分のことながら情けなくなります。日に日に、自然と妻と息子はわたしのことを恐れるようになっていきました。妻はわたしに「おはよう」とも「おやすみ」とも言わなくなりました。息子はわたしに怯えながらも、話しかけてくれました。優しい子だったんです。妻に似た大きな目でわたしの目を見て「おはよう」と言ってくれました。

釣りにもほとんど出かけなくなっていましたが、ある日、息子から釣りに行きたいと言われました。早速、一緒に準備をして出かけました。その日、息子はいつも被っていたジャイアンツの帽子を忘れてしまいました。真昼の太陽の日射しにさらされながら汗をかき、ゆっくりと歩いて多摩川に向かいました。釣りに行くの久しぶりだね、と息子は嬉しそうに笑っていました。嬉しそうな息子の姿を見て、わたしの心も久しぶりに穏やかになっていました。いつもの場所で、釣りを始めるとわたしたちは黙ったまま隣に座って、川の流れや釣り竿などを眺めていました。時折、鯉が跳ねて水面に顔を出しました。しばらくして、息子がわたしに話しかけました。「お父さん、あのね、お母さんがね。悲しそうにしてるんだ」そう言いました。「そうか」わたしは息子の顔を見ることができずに、うつむくことしかできませんでした。「お父さん、最近怒ってばっかり。怖い。どうしたの?」その時、息子が初めてわたしのことを聞いてきた気がしました。「何にもないよ、何にもない。ごめんね」わたしは、そう言いました。そして、煙草に火をつけて息子の顔を見ました。「いいよ、大丈夫」息子はそういって笑ってくれました。前歯が抜けて、間の抜けた笑顔がわたしを笑わせてくれました。

その日の釣果はゼロでした。帰るころには、飲み物もなくなって、汗もかいてべとべとになっていました。それでも、わたしは少しだけ爽やかな気分になっていました。久しぶりに息子と手を繋いでゆっくりと帰ったのです。息子は少し疲れたのか、行きよりもゆっくりとした足取りになっていました。家に着き、わたしが釣り竿などの道具をベランダしまっていると、風呂場から大きな音が聞こえてきました。急いで見に行くと、裸の息子が倒れてました。妻が叫び声をあげて、息子の名前を呼び続けています。息子からの返事はありません。ただ、幸い息子の意識はあるようでした。わたしは救急車を呼び、妻と一緒に病院に向かいました。

状況を考えるとおそらく熱中症だろうと、搬送中に救急隊員から告げられました。詳しいことは診断をしないとわからないということでした。待合室では、妻はわたしを責め立てました。

「こんな暑い日になんで釣りになんか行ったの」。

「帽子はどうして被らなかったの」。

「水分補給をしていたの」。

「あなたはお酒ばっかり飲む」。

「子どもはあなただけの子どもじゃない」。

「あなたはいつだって自分のことしか考えていない」。

「あの子のことを考えてあげたことあるの」。

「わたし達家族のことを考えたことあるの」。

沢山の言葉がわたしに降り注いできましたが、もうわたしの頭には残っていません。頭が考えることを拒否したのです。

息子の命には別状ありませんでした。診断は熱中症でした。

その日から、わたしの心は破裂した風船のようにしぼんでいきました。仕事でもつまらぬミスを繰り返すようになり、家族とも何も喋らなくなりました。わたしは、どうしようもなく価値のない人間だったんだと自分を否定することしかできませんでした。そして、わたしは仕事を辞めました。

仕事を辞めたわたしは一日中家にいました。就職活動をするわけでもなく、煙草を吸い、酒を飲み、ワイドショーを見て政治家の暴言を吐きつけ、何もかも無意味に感じると、虚しくなってうなだれていました。当時のわたしが生み出していたのは大量の吸い殻くらいのものでした。お陰で今も肺の調子はよくありません。鬱というやつだったのかもしれませんね。次第に、夜も眠れなくなりました。昼夜逆転のような生活になっていき、同じ家にいながら家族とは顔を合わせないようになっていました。わたしが守りたかったのはこんな生活だったのかと思うと、無力さを感じずにはいられません。そして、妻と息子は出て行きました。

「出ていきます」大きな荷物を持った妻はわたしに言いました。浅い眠りから目を覚まされたわたしは、ぼんやりとした意識の中で妻と息子の姿を見ました。妻の手は息子の手を握っていました。息子はその手を放して、わたしに手を差し出しました。「お父さん」息子が言いました。わたしは差し出されたその手を握りました。「またね」息子はそう言いました。そして、二人は出て行きました。息子はしっかりとジャイアンツの帽子を被っていました。


 「大変でしたね」僕は言った。

 「ええ、まあ」

 「僕だったら、そんな経験したら立ち直れそうにないです」

 「まあ、人間は簡単に死なないみたいです。もちろん自殺とかもちょっと考えちゃいましたけど」

 「そうですか」

 「はい」

 「でも、どうやって立ち直ったというか、気持ちを切り替えたというか、また生きていく気力を取り戻したというか。ごめんなさい、僕、すごく失礼なこと言ってますね」

 「ああ、気にしないでください。そうですね、わたしにとって時間が止まったのはあの日、妻と息子が出て行った日だったんです。昨日も今日も明日も明後日も特に何もすることのなかった当時のわたしの時間は止まっていました。ある日、わたしは、息子と出かけたいつもの場所にひとりで向かいました。釣りをするつもりはなかったので、煙草と財布だけを持っていきました。わたしは、一日中川の流れを見ていました。川の流れに合わせて水面が光に反射されてキラキラと輝いていました。それを眺めていたわたしはあることに気がつきました。わたしが何をしなくても、川は流れ続けているということに。きっとわたしが死んでもいつも通りに川は滞ることなく、脈々と流れ続けるのです。たとえ、わたしの時間が止まっていたとしても、出て行った妻と息子の時間は流れ続けるのです」

 「はい。そうかもしれません」

 「妻と息子の生きる時間がどうか幸せであって欲しい、幸せになって欲しいという祈りに近い思いがわたしの時間を動かし始めました。できることなら、わたしは家族とやり直して過ごしたいと思い、二人を探しました。どうにか居場所はわかったのですが、妻はわたしと会ってくれませんでした。それは、もう仕方のないことだったのです。だから、わたしはわたしが死んだ後に何が残せるかを考えました。わたしの死後、妻と息子に何が残せるか。そしてわたしは、このマンションを残そうと思ったんです。収入がなければそれも叶いませんから、わたしはどうにかして社会に復帰しました。ローンも無事に返済が終わったんですよ。このマンションはわたしの死後、妻と息子が売却してもかまわないと思っています。彼らのこれからの為に何かの足しになればいいと思っています。」

 「祈りに近い思いが止まっていた時間を動かし始めた」

「わたしの場合は、です。人によるのかもしれませんけど。あの、煙草持ってませんか? 久しぶりにちょっと吸いたくなっちゃいました」

 「ああ、ちょっと待っててください。家から持ってきますよ」

 「すみませんね」

 「僕も吸いたかったんで、気にしないでください」

 僕は自分の部屋に置いてあった鞄からマルボロを手に取った。そして、鳥男の待つ廊下に出た。すると鳥男はいなくなっていた。僕は煙草を取り出し、火をつけた。ため息は煙に変わって空に伸びていく。僕はその行方を目で追っていると、エレベーターが止まった。エレベーターからは、隣の部屋の住人である若い女が出てきた。

 「こんばんは」

 僕が声を掛けても、女からの返事はなく怪訝そうな顔をされた。女はイヤホンを着けていた。大きな音を立ててドアが閉められて、施錠される音が大きく響いた。ガチャン。

 煙草が吸い終わるまで待ってみても、鳥男は戻ってこなかった。鳥男は僕の今の姿に過去の自分の姿を重ねたのだろうか。あまりに個人的な体験を聞かされて、僕は何と言えばよかったのだろう。答えようがなかった。

 気づいたことがあった。それは、僕も個人的な悲劇を語ろうとしていたことだ。誰かに話したとしても、何かが変わるわけではない。それなのに、僕は話し相手を求めていた。SNSの誰かではなく、面と向かって誰かに話したかった。あまりにも個人的すぎる話を、僕はSNSでする気にはなれない。誰も何もコメントしないからだ。正確に言うと、誰も何もコメントのしようがないからだ。コメントをしたとしても、何も現実が変わるわけではない。コメントをもらったとしても、僕の行動が何か変わるわけではない。少し満たされた気持ちになるだけだ。そうか、つまりこういうことか。

 僕のことを本気で考えてくれる人間は僕以外にいない。面と向かって話したいのは、逃げられない状況を作り上げて真剣にさせるためなのか。それでも、誰もが自分を語りたがる。目の前の人間の問題を棚上げにして。鳥男は、理子のことを自分で探さなかった僕のことを責めていた。それなのに、彼も家族が出て行った後にすぐには探しに行っていなかった。僕はそのことに少し苛立ちを覚えた。主観と客観はいつまでも矛盾したままじゃないか。

 僕は吸い終わった煙草を階下に投げた。もう一本新たに手に取り、火をつけた。大きく肺に煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。空には鳥男が言ったようにいつも通り月が浮かんでいる。

 「ねえ」声がした。聞き覚えのある声だった。顔を向けると、そこには理子が立っていた。

 「理子」

 声を掛けても理子は返事をしなかった。理子はグレーのパーカーに紺のジーンズというラフな格好をしていた。大きな丸い目が瞬きもせずに僕の方を見ていた。だが、理子は僕を見ていなかった。理子は僕の身体を通り越した別の何かを見ているようだった。その瞬間、僕は透明な空気になってしまった気がした。

 「これ」そう言うと理子は、大きな黒いビニール袋を胸の辺りまで持ち上げた。

 「ああ」僕は力なく返事をした。

 「わたし、洋介のそういうところ嫌いだった。じゃあね」そう言うと理子は袋を僕に投げた。理子はそのまま踵を返して階段を下りて行った。

 「そういうとこ?」

スニーカーが階段を下る足音が遠くなっていった。頭では理子を追いかけようと思っても、身体はまるで動き出してくれなかった。

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