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小説「空気男の掟」2

2 空気男に愛を


 1頁

人型のシルエットが2つ隣り合っている。シルエットはガラスの瓶のようだ。光が一部反射している。それぞれシルエットの中には煙が満たされている。1つのシルエットには緑、もう1つのシルエットにはピンクの煙。どうやら男と女を表しているようだ。それぞれのシルエットには吹き出しがついていた。ただ、その吹き出しには何も書かてれいない。


 2頁

 夜道を歩く男女のシルエットが手をつないで歩いている。道の先には白いマンションが建っている。どうやらそこが目的地のようだ。街路樹の枝にフクロウがとまっていて片目を開けて男女を見ている。男のシルエットにだけ吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


 3頁

 2人のシルエットはベッドの上に寝ている。女の枕元には猫が1匹寝ている。2人は手を繋ぎ天井を見ている。女のお腹には透明な玉ができている。その玉の中には煙はない。女のシルエットにだけ吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


 4頁

 女のシルエットが椅子に座りお腹を撫でている。女のお腹は大きくなり、玉も大きくなっている。足元の猫が女を見上げている。猫は寂しそうな顔をしている。猫にだけ吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


 5頁

 女のシルエットが小さな赤ん坊のシルエットを抱っこしている。赤ん坊のシルエットに煙はなく透明な状態をしている。男のシルエットが横に立っている。男にだけ吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


 6頁

子どものシルエットが中心となり、右側に男のシルエット、左側に女のシルエットが立っており手を繋いでいる。子どものシルエットには、ピンクの煙と緑の煙が流れ込んでおり、身体の中心で混ざり合っている。子どものシルエットに吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


7頁

子どものシルエットが様々な色の子どものシルエットとボールを蹴って遊んでいる。それぞれに吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


8頁

女のシルエットが膝をつき、仰向けになって寝ている猫を抱いている。子どものシルエットは、その様子を眺めている。女のシルエットの胸の辺り黒い煙が揺らめいている。子どものシルエットの胸の辺りにも小さな黒い煙が僅かにではあるが確かに存在する。


 9頁

 子どものシルエットが赤色の煙の入ったシルエットと手を繋いでいる。赤色のシルエットは子どものシルエットより少し小さい。子どものシルエットには吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


10頁

子どものシルエットが同じような大きさのシルエットと一緒に列を成している。それぞれ違った色の煙をしている。学校の校庭のような場所で、朝礼が行われているような感じだ。台の上に立つグレイの煙のシルエットに吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


11頁

10頁目と同じ情景が描かれている。ただ一つ違う所は、子どもたちのシルエットの頭部にグレイの煙が流れ込んでいることだった。台の上に立つグレイの煙のシルエットに吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。

12頁

全てが黒で塗りつぶされている。


 13頁

子どものシルエットは体内の煙の色は同じまま、身体が大きく成長し、青年のシルエットとなっている。頭部はグレイ、身体はピンクと緑で分かれ、中心部では煙が混ざり合っている。胸の辺りは黒い煙が子どもの頃よりも少し大きくなっている。青年のシルエットは成長して大きくなった赤色のシルエットと向き合っている。赤色のシルエットに吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


 14頁

 ピンクと緑のシルエットが棺の中に横たえられている。青年のシルエットは赤色のシルエットと共に跪いて祈りを捧げている。青年のシルエットの胴部は黒い煙で充満している。誰にも吹き出しはついていない。


 15頁

 こちらには背を向けて夜の公園のベンチに座り男女のシルエットが星を眺めている。青年のシルエットと赤色のシルエットそれぞれに吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


 16頁

 男女のシルエットが向き合っている。女のシルエットが男の胸に手のひらをかざしている。男のシルエットの黒い煙は小さくなり、赤色の煙がその煙を取り囲んだ。女のシルエットに吹き出しがついている。吹き出しには何も書かれていない。


 17頁

 黒い帽子を被ったシルエットの男がハンマーで青年の頭部を殴った。誰にも吹き出しはついていない。


 18頁

 全てが白で塗りつぶされている。


 19頁

 青年の頭部は割れたガラスのように粉々になり地面に散らばっている。首から体内に入っていた煙が空に向かって登っていく。ピンク、緑、グレイ、赤、黒。


 20頁

 雨が降っている。赤色のシルエットは傘も差さずに天を仰いでいる。雨の色は、ピンク、緑、グレイ、赤、そして黒。赤色のシルエットの胸の辺りには黒い煙が膨らんでいる。


 絵本はそれで終わっていた。


 カチカチと音がして、照明が点いて部屋が明るくなった。振り向くと理子が立っていた。様子を伺うような眼差しでこちらを見ている。目が合った。それから、僕が持っている絵本に視線が向かい、もう一度ゆっくりと僕の目を見た。

 「ねえ」理子は静かに言った。「どうして泣いているの?」

 僕は何か言おうと口を開けてみたけれど、声にならなかった。僕はなぜ泣いているのだろう。理子に言われるまで気がつかずにいた。確かに僕は涙を、僕の、この目から流していた。


 登戸駅に着き、電車から降りると健二からメッセージが届いた。

 「ごめん、もう登戸にいるんだけどトイレ行ってくる。小田急側の階段下に新しい公衆便所ができたの知ってる? そっちの方に来て」

 「了解」そう返事を送った。

 「健二がトイレ行ってるみたい」僕は理子に言った。

 「どこの?」

 「小田急の方だって」

 「あっちの方か。わかった」

 僕と理子は改札を通り抜けて階段を下りて行った。下りた先にはタクシーやバスが乗り付けるためのロータリーがあり、通勤通学の時間帯であればバス停のベンチでバスを待つ人や駅に向かう人などで賑わっている。この時間帯だと人もまばらになっていた。大きな階段を下りてすぐのところにはドトールがある。僕が女と待ち合わせをしようとしていた場所だ。ドトールの明かりは暗く、中には誰もいないようだった。どうやら営業時間は八時までのようだった。そもそも営業していないのであれば、女は僕を待つのを諦めて帰っているだろう。安堵したその瞬間に、ベンチに座っている女と目があった。女は目を細めてこちらを凝視してきた。その女は薄手のベージュのコートに赤いチェックのマフラーをしていた。僕は目を逸らして前を通り過ぎようとした。女が立ち上がった。

 「ちょっと、あなた」女が声を掛けてきた。

 「はい?」

 「あなたY?」

 「いえ、違います。なんのことですか?」

 「違うならいいの。何でもない」

 「そうですか」僕は理子の手を握り歩いた。

女から少し離れた所で理子が僕に声を掛けてきた。

 「ねえ、変な人だったね。最近変な人が多いよね」

 「確かに変な人多いね。春のせいかな」僕は答えた。

 「それって関係あるの?」

 「わからない。ちょっとトイレ行ってくる」

 僕は、健二のいる公衆トイレに向かっていった。振り向くと、女は元のベンチに戻っていた。女はドトールの方を向き、階段やエレベーターに注意を払っている。女が座っているのは駅舎を支える大きな柱があり、それを囲むように設置されたベンチだ。女のほかには、カーキ色のダウンコートを着た男が座っていた。フードを頭まですっぽりと被って俯いているため、顔が見えなかった。

公衆トイレに入ると、ドアがひとつ閉まっていたので声を掛けた。

 「健二、いるか?」

 「おお、来たか。悪いな。腹痛くなってよ」

 「ああ、いいよ。それより急に悪かったな」

 「いいって。空気男の偽物の話を聞きたいんだろ? 俺もよく知らないけど」

 「聞きたいんだ。理子も聞きたがってる。健二に絵本の話はしたっけ?」

 「絵本? 聞いてないな」

 「理子が持ってた絵本のタイトルが『空気男に愛を』というタイトルだったんだ。僕はそれを読んだことがあった。SNSに出てきた空気男がそれに関係があるんじゃないかって思ってるんだ」

 「それは、何か関係ありそうだな。どんな内容なんだ?」

「説明するのが難しい。登場人物は透明のガラス瓶みたいなシルエットになっているんだけど、それぞれの体には色のついた煙が入っているんだ。そのシルエットの2人が恋に落ちて、2人の間に子どもが生まれるんだ。その子どもが空気男なんだけど、空気男も透明なシルエットで、中身は両親の煙や出会う人の煙を取り込んでいくんだ。そして、死に触れる度に、胸に黒い煙が増えていく。小さな頃から一緒にいた女の子がその黒い煙を小さくしてくれるんだ。だけど、次のページで空気男は殺されてしまう。割れた空気男の体から煙が空に昇り、雲を作り、雨を降らせる。その雨に女が打たれているシーンで終わるんだ。とにかくハッピーエンドではない。俺はそう思ってる」

 「重たい内容だな。それを読む子どもなんているのか?」

 「さあな、少なくとも理子は持ってた」

 「理子ちゃん元気?」

 「ああ、元気だよ」

 「そうか、久しぶりに会うな。少し緊張する」

 「まあ大丈夫だろ。そろそろ出て来いよ」

 「ちょっと待って」

 カラカラとトイレットペーパーが巻かれ、水が全てを流してしまう音がした。見たくないものを、臭いものを流してしまえるなんて、本当にありがたいことだと僕は改めて思った。健二が出てきた。紺色のダウンジャケットに黒いジーンズを履いていた。

 「お待たせ」

 「いいよ」

 健二は手を念入りに洗った。そして一緒に外に出た。理子がイヤホンをつけて音楽を聞いて待っていた。

 「お待たせ。久しぶり」健二がそう言って笑った。

 「久しぶりだね、健二くん」イヤホンを外して理子が言った。

 「確か、理子ちゃんと一年くらい会ってなかったよね」

 「そうそう、最後に会ったの一年くらい前だよね。お父さんのお通夜に来てくれたんだった」

 「そう、あの時以来だね」

 「まあ、今日は久しぶりだし、暗い話じゃなくて楽しい話をしようよ。まあ、楽しいかわかんないけど空気男の偽物の話は聞きたい」

 「空気男の偽物」少し離れた所から女の声がした。女がこちらに向かってきて、健二に向かって言った。

 「もしかしてあなたがY?」女は健二にそう聞いてきた。

 「Y? 何のことですか?」

 「あなたはYなの?」

 「まあ苗字は山形なんでYと言えば、Yですけど。あれ、もしかしてあなた美里さんですか?」

 「そう、美里。やっぱりあなたがYなのね。空気男の偽物の話が聞きたいんでしょ?」

 「空気男の偽物の話は聞きたいですけど。僕ら暇人には噂話は栄養価の高いおいしい餌になるんで。もしかしたら金になるかもしれないし」

 「あーあー言って情報を取りにきたんじゃないの? まあ、なんでもいいから話していいのよね」

「大丈夫?」健二はそう言って、僕と理子を見た。僕と理子は目を合わせて、うつむいた。

 「もういいじゃない、早く行きましょう。寒いし」

 僕らは、女についていくことになった。僕は、何かに巻き込まれることには慣れていたけれど、初対面の女の家に行くことは2回目だった。理子と初めて会ったときが初めて、そして今回が2回目だ。なぜだろう、理子の家に初めて行ったあの日よりも足が重く、前に進まない。頭も痛くなってきた気がする。美里から香ってくる鼻につく香水の香りのせいかもしれない。不必要に過剰すぎる甘い花の匂いに、僕の気持ちは腐ってしまいそうだった。水をやりすぎた植物みたいに。健二が大きなくしゃみをした。

 美里についていくと、マンションに着いた。エレベーターで10階に着き、部屋に通された。玄関には女性ものの靴が無数に散らばっていた。相方を見失った靴たちは、役に立たないただのガラクタでしかない。そんなことはどうでもいいのだろう。美里は、靴のガラクタの上でさっきまで履いていたファーの付いたベージュの靴を脱いで入っていった。

 「これ、入る?」理子が僕の顔を見た。

 「行こうか」僕の代わりに健二が答えた。健二が、かゆそうに目をこすって鼻をすすっている。

「花粉症か?」僕が聞いた。

「いや、今までそんなことなかったんだけどな。なんだか鼻がむずむずしてるし、目もかゆい。これが花粉症ってやつなのか」

「健二もついに花粉症の仲間入りってわけか」

「さあな、そうじゃないことを祈るよ。さあ、行こう」

健二はそう言って、靴を脱いで入っていった。健二は、また大きなくしゃみをした。僕らも恐る恐る入っていった。美里の甘い香りが部屋中に溢れていて吐き気がした。

 「お邪魔します」

 理子が鼻をつまみながらそういうと、奥から返事が返ってきた。

 「いらっしゃい」

 廊下の左右にはいくつかドアがあった。突き当りにも半開きのドアがあり、その中から美里の声が聞こえたので、僕らも入っていった。部屋には、女性ものの衣類が散らばっており、足首くらいまで積み重なっている。不思議なことに床を占領している衣類は全てチェックの柄をしていた。美里がチェックの海に波をたたせながら歩いていく。テーブルに向かおうとしているようだ。僕らもそれについていった。

 「チェックが好きなんですね」僕がそう聞いた。

 「別に好きじゃないわよ」美里が答えた。

 「じゃあ何でこんなに沢山チェックの服があるんですか?」

 「さあ? 考えたことない」そう言うと美里はマフラーを脱ぎ捨てた。赤いチェックのマフラーがチェックの海に飲み込まれた。もう、二度と見つからないのではないだろうか。そんな風に感じた。彼女はどうやって着替えて外に出たのだろう。

 「さあ、座って」美里が言った。

 木製のいたってシンプルなテーブルに僕らは案内された。椅子を引こうにも、洋服が絡んで、うまく動かなかった。美里はなんでもないというように、椅子を無理やり引いて座った。僕らもそれに倣って椅子を引くのだが、美里のようにはうまくいかなかった。

 「あなた達、意外に力がないのね。思いっきり引けばいいのよ。思いっきり」

 その言葉の通り、思いっきり椅子を引いた。僕は勢い余って後ろに倒れてしまった。チェックの海に落ちた僕を柔らかいチェックの衣類が包み込んだ。立ち上がろうと握ったシャツには、ラルフローレンのロゴが見えた。僕は、立ち上がってどうにか椅子に座った。美里の隣に健二が座った。僕は美里の正面に座り、隣には理子が座った。

 「すごいお部屋ですね。生活しづらくないんですか?」僕は美里にそう聞いた。

 「何にも問題ないわよ。快適に生活してるわ」

 「僕だったらできそうにないです」

 「そりゃそうじゃない。あなた、物事をわかってないわね。何にもわかっていない。あなたがわたしの部屋で生活しづらいように、わたしもあなたの部屋では生活がしづらいの。そんなの当たり前じゃない。きっとテレビのリモコンも見つけられないわ。部屋の明かりを点けるのも一苦労する。そうじゃない?」

 「そう言われたらそうですけど」

 「あなたはどんな家に住んでいるの?」

 「僕は彼女と住んでいるんですけど、2LDKの間取りで、物は比較的少ないシンプルな部屋ですね。リビングにはテレビがあって大きさは32型、あとは大きな本棚が4つ、ダイニングテーブルとソファーがあってシックな物です。寝室にはダブルベッドが置いてあります。あとは、ほとんど僕だけが使っている部屋があります。そこにはほとんど物がありません。段ボールの上にパソコンが置いてあるだけです。そういえばウォークインクローゼットがありますね」

 「段ボールの上にパソコン? その部屋に机はないの?」

 「ありません。そもそも机って必要ですか? 段ボールは丈夫だし、飽きたら違う段ボールに替えれば気分転換になります。費用も掛かりません。ネット通販で頼んで運ばれてきた段ボールを使えばいいんですから」

「ねえ、あなたはそれでいいと思っているの?」美里は理子の顔を伺うように見て聞いた。

 「彼がそれでいいと思っているならいいんです。わたしはいやですけど、それをどうこうしたいとかはないんです」

 「彼女は嫌がってるけど、それでも段ボールの上にパソコンを置き続けるの?」

 「ええ、まあ。僕にとって、パソコンをどこに置いてあるかは問題じゃないんですよ。パソコンで何をしているかなんですよ」

 「そういうものかしら。わたしにはよくわからない」

 「そうです、パソコンで僕が何をしていても、何を発信したとしても、その姿を誰かが見ているわけじゃないんです。例えば、後生に残るような素晴らしい音楽を作ったり、本屋大賞を受賞するような作品を書いたり、命を救う発見をしたり、デイトレードで大儲けするかもしれないんです。僕が段ボールに載ったパソコンを裸で操作していたとしても、その可能性はあるんです」

 「もしかしてお金がないの? だから机を持っていないんじゃないの? ねえ、正直に言ってごらんなさい」美里が僕を諭すように言った。

 「お金はありますよ。今日だって飲みに行こうとしていたくらいですからね」

 「お酒を飲む余裕はあっても、机を買う余裕がないんじゃないの?」

 「金持ちではありませんが机を買うくらいの金はありますよ。ただ、その金をどう使おうと僕の自由じゃないですか」

 「そうね。どんな部屋に住もうが、どんな机を使おうがあなたの自由ね。ところで、あなたはパソコンで何をしているの?」

 「それは言えません」

 「ああ、そう。あなたも随分変わってるわね」

 「そうですか?」

 「ええ。あなたも大変ね」美里は理子にそう言った。

 「わたしは特に大変じゃないですよ。そういうところが楽なんです。それぞれがうるさく言わずに好きなように暮らしている感じで。段ボールの上にパソコンが置いてあってもわたしには害がないので」 

 「少なくともわたしはパソコンを机の上に置きたいわ。ほら、自分以外の誰かの家に住むのなんて誰にとっても大変なのよ。それは認めるでしょ?」

 「ああ、確かにそうですね」僕は答えた。

 「そういえば、何か飲む? 今持ってくるわね」

 僕らは沈黙したまま美里を待った。健二は天井を見上げて口を半開きにしている。理子はテーブルに頭を垂れて難しい顔をしている。何か考え事をしているようだった。僕は床のチェックの海を見渡していた。目の錯覚だろうか、時々チェックが動いているように見えた。少しすると、美里はワインボトルとグラスを持ってきてテーブルに置いた。それから、白い皿に零れるほどのナッツを入れて運んできた。美里が、それぞれのグラスにゆっくりとワインを注いでいった。深く深く赤い色をした液体がコポコポと注がれていく。理子はその様子を嬉しそうに見ていた。先ほどまでの不安そうな顔はなくなり、口元には笑みがこぼれている。僕は、理子のその姿を見て、彼女がいかに酒を好きなのかを再認識した。僕らの出会いのきっかけも酒だった。そういえば、理子は最近どんな酒を飲んでいただろうか。思い出せない。

 「乾杯」

美里がそういうと、僕らはグラスを重ねた。ワインをすすってグラスを置いた。理子はフッと吐息を漏らした。健二がジーパンからスマートフォンを取り出して、テーブルの上に置いた。僕もスマートフォンを取り出した。ワインの注がれたグラスにカメラのフォーカスを合わせて写真を撮り、スマホをテーブルに置いた。

 「さて、何から話そうかしら。わたしがどうやって空気男に会ったかを話そうかしら。そうね。まず、あなた達は空気男の何を知っているの?」美里が聞いた。

 「僕らは空気男のことは、ほとんど知らないです。誰もが知っているようなことくらいですよ」健二が言った。

 「そうですね。僕が知っていることは、空気男が半年くらい前からSNSに現れたこと。そして、誰かの願いを叶えるというボランティアみたいなことをやっていること。さらに、空気男はとてもかっこいいということ」僕は言った。

 「そうカッコいいのよ。本当に格好良かった。まあ、びっくりしたわよ。あんな大きな目の男の子見たことない。背も高くて」

 「あなたが会ったのは空気男の偽物だったんじゃないんですか?」

 「んー、実際のところどうだったのかわからないの」

 「わからない? 本物だったってことですか?」

 「そもそも偽物の定義がわからなくなっちゃっているじゃない? どういうことかわかるわよね?」

 「あまり理解できていないので、教えてもらえますか?」

 「ちょっと待ってて」

 そういうと美里は立ち上がり部屋を出て行った。

 「偽物の定義か。確かに難しいかもな」健二が言った。

 「本物に会ったことないんだからね」理子が言った。

 「誰も本物がわからない。だから誰が偽物かもわからない、か」僕が言った。

 「雲をつかむような話だよな。空気男の写真は出回っているけど、それが本物かどうかわからない。空気男の画像で検索すると小栗旬の写真も出てくるし」健二が言った。

 「空気男に依頼して小栗旬がきたら最高だよね。あーいいなー」理子が言った。グラスに注がれたワインを飲み干して、ナッツをほうばった。理子の頬が柔らかなピンクを帯び始めた。

 「ところで、美里さんって美人だよな」健二が言った。

 「興味がないな」僕は言った。

 「興味とかじゃなくて、美人じゃない? 髪もつやつやで、肌も白くて皺も少ないし、鼻も高くて、少し眠たそうなとろんとした目は見つめられるとドキドキする。スタイルもいいし」

 「確かにスタイルいいよね。年齢はいくつくらいかな?40歳くらいかな?」理子が言った。

 「30歳くらいだろ」健二が言った。

 「聞いてみるよ」僕が言った。

 「それ気まずくないか?」健二が言った。

 「年齢聞くだけだろ? 大丈夫だよ」僕が言った。

 ドアが開き、美里が部屋に入ってきた。チェックの洋服を煩わしそうに引きずりながら歩いてくる。美里は手にタブレット端末を持っていた。ふと、美里の歩いた後の道で衣類が小さく蠢いているのが見えた。美里がテーブルにたどり着いて椅子に腰かけると、その蠢きは美里の横で止まった。健二がくしゃみをした。

 「これを見てほしいの」

 そう言って美里はタブレットを僕らに見えるようにテーブルに置いた。タブレットにはSNSのアカウントの一覧があった。「空気男」という名前で検索した結果だった。アカウントの写真は設定されておらず、人型のシルエットに顔の中心に?マークが付いている状態だった。いくつかのアカウントのプロフィールを開いて見てみたが、文言はほぼ全て同じだった。


 空気男は、あなたの望みを叶えてくれる存在です。望み通りの役割を演じてくれます。あなたが与えた設定を完璧にこなします。どのように使うかはあなた次第です。暇つぶし、切実な悩み、命に関わる問題、全て受け付けます。事情は聞きません。なお、何か問題が発生した際の責任は負いません。空気男の使用はあくまで自己責任で行ってください。報酬はあなたのお気持ちでお願いいたします。


 違う所としては、どの地域で活動をしているかということだけだった。活動地域:東京都世田谷区、活動地域:神奈川県川崎市のように明記されていた。

 「空気男の年齢って書かれてないんですね」僕が言った。

 「書いてないわ。でも、それは空気男に限ったことじゃなくて、ほとんどの人が書いていないと思うけど」美里が言った。

 「僕は書いてますよ」

 「あら、そう」

 「ええ、年齢を書くことで繋がりが生まれることがあるので。みんながSNSで求めてることは共通点なんですよね。これは僕が思っていることなんですけど」

 「そうかしら。わたしはその逆もあると思うの。ミステリアスなこととかに魅かれたりするの。謎があるというのが魅力のひとつだと思う」

 「そうなると空気男は魅力が溢れてますね」

 「その通りね。共通点はゼロだけど、謎で満ち溢れてる。わたしにとってはそれが魅力」

 「ところで、美里さんって何歳なんですか?」

 「さあ?」

 「教えてもらえないんですか?」

 「わたしも忘れちゃった。興味ないから。自分の年齢覚えていても得することないし」

 「僕らの中で美里さんの謎がひとつ増えるわけですね。それがまた魅力になる」

 「それなら嬉しいわ」美里が笑みを作った。

 「Yがあなたのことを美人だと言ってますよ」

 「おい」健二が言った。

 「あら、ありがとう」美里が言った。

 「そんなことより、空気男の話をお願いしますよ」健二が言った。

 「そうね。ほら、空気男はこんなに沢山いるの。どれが本物でどれが偽物かなんてわからないじゃない?」美里は言った。

 「でも、あなたは空気男の偽物って言ってましたよね」

 「それは、なんていうのかな。勢いというか、みんな注目してくれるかなって思って」

 「アクセス数を稼ぐためですか?」

 「んー、そういうんじゃないの。あ、でも実際に偽物かもって思ったのよ」

 「どういったところですか?」

 「空気男は、わたしの願いを叶えてくれなかったの」

 「手を繋ぐこと、でしたっけ?」

 「うん、それもあった。それは叶えてもらったんだけど、違うのもあったの」

 「なんだったんですか、その願いは?」

「わたしは、空気男に愛を求めたの」そう美里は言った。

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