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自身の生い立ちについて

どうも げこふりです。
今回は発達障害というか自身の生い立ちをテーマに記事を執筆していきます。記事を執筆なんて偉そうなこと言ってますが僕はただのブログとして書いていたりします。あまり気負いせずにやっていくことが大事かななんて思ったり…

生い立ち〜現在まで

僕は幼児の頃から変わっている子としてお友達やママさんたちから認識されていました。集団で遊ぶことを得意とせず虫やマンホールの観察に2時間くらい夢中になったり、友達をつくるのも苦手でした。あと鉄道好きなのは今も変わらずです笑

小学校はまだ優しい友達や気が合う友達にそれほど嫌われることなくまあ楽しい生活を送れていたのですが中学校に入ると一気に環境は激変します。
自分にもコミュ力の不足さや自覚のない他人への不愉快な言動により、嫌がらせやいじめを受けることが増えてしまい、全身にあざが出来たりプリントを破られたり靴を隠されるなど典型的ないじめ被害に遭ってしまい、断続的な不登校となってしまいました。

振り返れば自分に原因があると分かっていますが死にたくなるくらい辛いものには変わりありません。いまこの記事を書いてるときもトラウマがフラッシュバックしてきます。

その後中1夏〜中2夏までは断続的に不登校になり、特別支援学級にも通ったりしましたがそこでも友達や特に異性関係でトラブルとなり、またいつか詳しく話しますが長野県のある地域に留学することになりました。また小児科からですが当時は広範性発達障害の診断もおりました。

長野時代は周りも不登校や発達障害の子達ばっかりでトラブルも絶えない日々でしたが先生たちや友人たち同士での成長で楽しく過ごすことが出来ました。田舎暮らしにも興味関心を持つきっかけとなりました。

中学卒業後は北海道の公立高校(寮つき)に進学しました。長野に居た頃、興味を持った農業や自然環境について学びたかったからです。あえて公立に進んだのも自信を付けたからです。

しかし偏差値が低く、荒っぽい子たちも多くきついイジリの対象になったり寮でのダメ出しなど辛いことが多くあり、結局半年で中退して地元東京の通学型通信制高校に入り直すことになりました。うまく転入扱い出来たため、留年せずに済みましたが。本当に両親には迷惑ばかりかけてしまったと申し訳ない気持ちでいっぱいです。

東京の高校では先輩や同級生から多少のイジりはあったものの、友人の支えにより卒業と大学へ進学することも出来ました。また柔道も入門したりして技量はあまり伴わなかったものの、礼儀作法を身につけることができて、これは今でも非常に役立っています。一応、初段(黒帯)は取得しました。またコンビニバイトは不思議と続いていて、まさか30を超えた今でもとりあえずの収入源になるとは思いませんでした。

大学進学後は東日本大震災の影響もあり、入学式や交流会が無くなったりと異例の新入となりましたが運良く友人にも恵まれ、彼女も出来たりとまさに人生で最も輝いていた頃だな〜と感じます。もう発達障害という特性も意識はしないほどに楽しかったのですが周りは多分、僕の特性について我慢させてしまっていたのかなと感じています。

そして発達障害人 鬼門の社会人へ

大学4年での就職活動は内定も貰えないまま夏休みに入りましたが長野時代にお世話になっていた学園からオファーが来まして寮の指導員と広報事務の仕事をさせてもらえることになりました。それがなければ最初からフリーターだったかもしれないので感謝しております。

職員として入社したものの、仕事については小さな零細企業的な職場だったので研修もほぼなく全て独学で身につける必要がありました。
ネットで新入社員へ送る社会人マナー的なまとめ記事をノートに書いてなるべくそれを実践しようという感じでマナーを覚えて、仕事についても上司はあまり教えてくれないため、ネットで学んだ知識で実践するという付け焼き刃。
なかなか苦労した新人時代でした。おまけに一人暮らしのため、メンタルも安定してなかったなーと思います。給料も安かったですし笑

その間、組織も極小だったにも関わらずゴタゴタが多く、退職者もあったり派閥みたいなこともありました。今でもお世話になっている先輩に付いて回っていましたがなかなかに大変だったことを覚えています。だんだんとやる気も熱意もなくなり、あるトラブルによりうつになり1ヶ月休職してしまいます。

休職中も傷心旅行に山陰方面に行ってました。本当に旅が好きなんだなと改めて振り返っても実感しますね笑 でも良い気分転換になりました。社会人でこんなこと出来る人はほぼ居ないですからね。

結局、そこの職場は2年で退職することになりその後は役所の会計年度任用職員として勤務することになります。
いわゆる契約社員の公務員バージョンです。仕事は正職員の補佐や現場での作業などやりがいがあり、楽しいものでした。
しかし休日や仕事終わりの消防団活動が遺伝子レベルで自分に合わず、ミスや覚えが悪く先輩からいつもお叱りを受けていました。

よく考えたら何でこんなことボランティアでやんなきゃいけないんだという意識から意味を見出せずに、またタダでさえ仕事で疲れてる状況も相まってまともに役に立てなかったと思います。

そんなこんなで結局、一人暮らしもゴミ屋敷にしたりお金の管理ができず、クレジットカードも限界まで借りたりして生活もままならなくなったため東京の実家へ帰ることにしました。

転職活動のため、年休や代休を使いながら長野と東京を行き来する日々で精神も確実にすり減っていました。しかも圧迫面接もあったりお祈りメールの連続に心は折れかけました。そして内定を1社からも貰えず長野を去ることになってしまいました。

長野ではお世話になった方々から餞別を頂いたり泣きながらお別れしてくれた方もいたり、僕ってそんなに嫌われてたわけじゃないんだなと実感出来ました。しかしこの環境に今は居たくないという思いであっさり旅立ちます。

東京に帰ってからは就活をしながらコンビニバイトをしていました。店長やマネージャーからは好かれていましたがお局のおばちゃんからは嫌われていたためけっこうキツかったのを覚えています。自分にとってバイトと言えばやっぱりコンビニですね笑

そして50社目に受けた会社から何とか内定をもらえたため、意気揚々と入社します。
しかしその会社めちゃブラックでした。典型的なパターンですよね!少し名前の知れた企業のグループ会社だから大丈夫かと思いましたが全然。 休みも少なめだし、上司が典型的なネチネチパワハラ上司でメンタル最弱の僕は3週間で飛んでしまいました。
おまけにただ飛んだだけじゃなく、親にもこんなことしたら会えないと強い思い込みと希死念慮もあり、スマホの電源を切って家出&自殺旅行に出るという極端にも程がある選択をしてしまうのです。ちなみに四国へ行って懺悔のつもりでお遍路を途中までしたり首を括ってみたりしたんですけどうまくいかず結局長野に居た親友の家に逃げ込み長野でしばらく滞在することになります。この辺のお話も詳しいことはまた別に書こうと思います。

今思えば事情を話したりすぐに退職手続きをすればそんなに大きな問題じゃなかったんでしょうが思い込みが激しい特性のため、そうも行かずとんでもない行動をしてしまいました。

そして長いフリーター生活

療養から戻って短期のデータ入力のバイトをしたあと、大学時代の先輩が店長やっているコンビニに夜勤バイトとして入りました。
とりあえず夜勤バイトをしとけば新卒給料くらいは貰えるからです。それが26歳のときでした。その先輩店長も会社と揉めてすぐ退職してしまうのですが…

そこからずるずると31歳になるまでコンビニバイトを続けています。27のときにバイト先で知り合った女子学生(高校生ではないですよ)と1年くらい付き合うのですが徐々に冷められ、自然消滅という別れになってしまいました。向こうもADHD診断(診察は僕が勧めた)されていた軽度の発達障害人でしたね。その別れをきぅかけにYouTubeを始めたり、フリースクールの理事に就任したりときっかけがあったのです。また僕自身もASDとADHD診断を正式に下され、精神障害者保健福祉手帳を取得したのもこの頃です。3級の1番軽い等級ですのでそんなに関わった人からはわからない程度だと思います。

でもこのコンビニでつい1月まで付き合っていた彼女とも出会うことになります。待遇の良さから今は別のコンビニにて働いていますが。

思えばコンビニバイトで3連続、出会いがあり彼女が出来ました。ある意味最強の出会いスポットかもしれません笑 また結局自分の人生の分岐点は失恋が大きな転機になっているなあと振り返って見ると分かりますね。

今はこうしてブログを書いたり、旅に出れば旅行記を書いていくのが趣味であり何かに打ち込めるものだと思っております。失恋に効く薬の1つですね。

まとめ

ついつい長くなってしまいましたがこれでもだいぶ端折った方です。僕は子どもの頃から病んだりすると環境を変えたり旅に出たくなるものでしたが大人になってもかわらず。そして定職に就かずに5年もの月日が流れてしまいました。ですが無理すると前の会社での失敗を繰り返す。そうならないために安定したコンビニバイトを続けた方が良いだろうとのことで今もやっています。出来る限り、いろんな活動にも興味がありますが出来る範囲で関われれば良いかなと思っています。

長くまとまりの無い文章ですが最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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