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8月の読書

タイトルは蔓性のトレニア・・この暑さにも負けずに青々と茂っていて
くれる。

8月の暑さはひどかった。2月に車を手放してから、買い物は徒歩かバスで行っている。気候の良い時にはお散歩がてらで、ちょうど良かったが、
この暑い中を荷物を抱えて、15分ほど歩くのは、さすがに年齢を考えると
憚られる。バスを使うのだが、それでも汗びっしょりになり、出かける気が
失せる。冷蔵庫のものを最大限に利用し、買い物に出かけるのを一日延ばしにしてしまう。その空いた時間を読書に向けられるのは、酷暑の効用と
しよう。

今月読んだ本は「神様のカルテ」以外は、学者の研究論文のようなものになってしまった。

「神様のカルテ」夏川草介 
テレビの「あの本読みました」に夏川草介が出演しており、その滲み出る
人柄の良さに惹かれて図書館から借り出した本だ。「スピノザの診察室」は
だいぶ以前に申し込んだのだが、60人ほどの予約が入っていたので、当分は回ってこないだろうと、当てにしていない。

読み始めてすぐに既視感があり、調べてみるとテレビドラマで以前に放映されており、見ていたことがわかった。

主人公桑原一止は真摯に患者と向き合う地方病院の医師だ。
病院は「24時365日」という看板を掲げている。
そのため、医師たちは常に人不足に悩まされ、夜の救急担当になった時など、三日三晩ろくに睡眠がとれないことがザラだ。
そんな状態で、果たして安全な診療ができるのかと不安になるが、そこは有能な看護師や同輩の医師の協力でなんとか凌いでいる状態だ。

何よりも、この小説に悪人が出てこない。表現の仕方が変わっても基本的に、患者に良かれと思って仕事をしている人たちばかりだ。
病院以外での登場人物も、妻ハルをはじめとして、一風変わっていると思われる同じアパートの住人も、その底辺に流れる血は、周りの人たちの幸せを
考えている。

終末期にある人に対して何をすべきか、医者としては究極の選択を迫られる
事案だろう。当人が何を望んでいるか冷静に見つめ、そこに対応して患者が
喜んで終末を迎えたとしても、なおも「あれで良かったのだろうか?」と
自問自答する姿は、心ある医師ならば誰でもが経験することだろう。
人の生死を考える時、命の重さに変わりはないけれど、対象が若者か、老人かによって考え方が変わるのは当然のことと思う。
命を預かる医師は医療を施すほかに、こうした心の葛藤との戦いもあると思うと、大変の仕事だな〜と実感する。

著者は何より夏目漱石の愛読者。本人が言うように確かに文体は漱石を彷彿とさせる。それがこの小説に独特の雰囲気を作り上げている。
テレビで著者が出演していた時「草枕」を暗唱する姿にびっくり!!
並大抵の愛読者ではない。漱石が乗り移ってる??

「西行」 歌と旅と人生  寺澤行忠
西行については、若くして出家したとか、
「願わくば・・」の歌で有名、そしてその願い通り桜の頃
亡くなった・・・ということ以外に、西行の名を文学書の中で時折接するぐらいで、特に語れることを知らない。

地位にも資産にも何不足ない環境でありながら、23歳という若さで
なぜ出家したのか? は多くの人が研究し、のちに西行の出家を題材にした
文学も生まれる。
それらの説話は佐藤義清(のりきよ)・・出家前の西行の名前・・が出家するに際しての諸々を描いている。そして、それらの話が元となって、義清の待賢門院(藤原璋子)・・鳥羽天皇の中宮・・に対する恋を軸とし、叶わぬ恋が原因とすることが一般に流布した。
しかし、西行の研究者として著者は、歴史上の書物からは、決してそれひとつが出家の原因だと、断定できないと言っている。
その事を「山家集」「源平盛衰記」などにより、天皇を巡るいざこざの情勢などを理不尽と西行が感じ、そのような事を感じなければ、それなりに生きていけるのに・・と読んだ歌などを挙げ検証している。

出家に際しては、
「世の中を背き果てぬと言い置かむ 思いするべき人はなくとも」
 (世の中に背を向け出家したと言い置こう たとえ自分の心を十分に理解
してくれる人がいなくとも)
とゆかりのある人に言い送った歌だという。

自分の精神の核心部を漏らす事を意識的に避けようとしていた西行は、
一つの理由から出家したわけではなく、いくつもの理由が重なって実行されたとしている。
小林秀雄の「無常という事」という著書(私たちの世代では馴染み深い)でも「彼(西行)が忘れようとしたことを、彼と共に素直に忘れよう」と著しているそうだ。

西行は大峰山に入り過酷な修行しているが、それがいつの時期であったかは
定かでないらしい。
昼間の過酷な修行を終え、夜になってホッとして山中で暗い闇に浮かぶ月について詠んだ歌が修行の厳しさを伝えているという。

西行は多くの旅をしている。平安町の末期にあって旅は大変な困難を伴うものだった。それでも僧侶としての修行の旅であったと同時に、日常性から離れ、精神の自由を確保しようとしていたのだろうと著者は推測する。

私の住まいする地から遠くない大磯に「鴫立庵」がある。
ここは夕暮れを詠んだ三夕の歌の一つとして有名な歌を西行がを詠んだと
される場所だ。
・・・「心なき身にもあわれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮れ」・・
この歌にまつわる考察もある。

又、旅、地元という個人的な接点から、西行が晩年になって奥州へ東大寺
大仏の勧進に出かけた折に、鎌倉で頼朝の招きを受けて頼朝と話をする機会があったことが記されていたのも興味深かった。
この話は司馬遼太郎の「街道をいく」シリーズ三浦半島記でも読んだ。
鎌倉八幡宮で、頼朝と、西行の面談のことに触れ、頼朝は西行に公家の作法などについて詳しく聞きたがり、強く引き留められ、1泊したという。
そして西行に餞別として銀のウサギの置物を手渡したが、それを西行は門前で遊んでいた子供にあげてしまったとあり、出家していた西行と野心満々の頼朝との違いに思わず頷いた。
その件についてはこの著者も記しており、もう老齢にかかっていた西行に
とっては、重い荷物となったことでもあったし、そういうものに全く興味の
なかった西行と頼朝の感覚の違いが出たエピソードとして著されていた。

桜と西行の関わりについては、飛ばすことはできない。
桜に関わる歌は詠出歌の1割にも及ぶという。
・・「願わくは桜の下にて春死なむ その如月の望月の頃」・・
は特に有名だが、正にその願い通りに亡くなったことが、なおのこと人々に強い感銘を与えた。

万葉集などで花といえば梅のことだったが、平安時代になると桜のこととなり、貴族の間で愛された桜は武士の時代になるとともに、武士階級にもその傾向が強まり、室町時代には一般庶民も桜を愛でるようになる。
秀吉の醍醐の花見を経て、現在のような酒宴を伴う行事として日本人の間に
定着する。桜を愛でる気風は、現在では海外にも広がって交流も続いている。
これらの発端が西行によるところが非常に大きというのだ。それほど西行の
桜好きが日本人に影響を与えたのだ・・と改めて認識する。

西行は「無常」と「道」という日本の思想史を貫く大きな役割を果たしたと言えると結んでいる。

硬い文章だと嫌だなと思って読み始めた。
頭の中で整理されたかといえば、甚だおぼつかないが、平易な文章で大方
理解、引用された184首の歌には、一部を除いて訳文が載せてあり
とても理解の助けとなった。

西行の印象として、若くして出家し、旅を共として沢山の歌を読み、芭蕉などに影響を与えた人ぐらいにしか認識していなかったが、これだけ多くの西行ファンがいるという事は、人並みの生活の中では得られない数々の経験とその人生を貫く姿があってこそなのだと知ることができた。

 「二人の美術記者」井上靖と司馬遼太郎
井上靖は大学で美学美術史を学んでいたので、新聞社に入って学芸部記者として10年余りを過ごしている。
井上はこの間、記者として偉くなろうとかの気持ちは全くなく、自分の好きなことを好きにやろうというスタンスだった。そのため資料室にいる時間の
方が長く、この間に作家への伏線である「調べて書く」という作業が、どういうことかを知ったと言われる。この間の一時期、会社から学費を出してもらって、古巣の京都大学大学院で「美学」の勉強をしている時期もあった。

一方司馬遼太郎は、戦後新聞社に入り社会部担当を希望していたのにも関わらず、文化部に回され、美術評論を書くことになった。
本人はそれが嫌で、なんのために新聞社に入ったのだと落胆したという。
しかし元々絵を描くのが好きであったし、真面目なサラリーマンとして、美術を熱心に勉強し、絵を見るために動くことを厭わなかったという。

そんな二人には16歳の年の差があり、井上はすでに流行作家として活躍していた。
ある時、「会社を辞めて作家生活に入ることを考えている」
と初めて会った井上に漏らすと即座に「それはようございました」 と返ってきてその言葉に救われたと語っている。
そんな二人はその後、中国や西域の旅に同行している。

この本のなかで、著者は西洋画、日本画、彫刻、建築物など様々な作品を取り上げて、それらに対する二人の感受性の違いや、時には似ている部分を挙げ、仔細に説明している。
二人はそのためにたくさんの美術品に接し、資料を調べて公正な評論を掲載しようと努力している様子を、書かれたエッセイや評論から引用して検証している。

井上のプラド美術館にあるゴヤの「カルロス4世の家族」を見て、その人物像に考えた様々な物語は、圧巻だ。
豊かな感性なしでは、世界は再創造されなかったのでは・・と。

司馬が須田国太郎や、ゴッホ、焼き物の八木一夫に出会わなければ、あれほど思考を深められなかったのでは・・とも。

著者は美術記者という遠回りを糧に、二人はあるべき道で花を咲かせたのだという。
そしてその回り道の歩き方が問題だと。逃げ道を探しキョロキョロ伺って
いても扉は開かれない。いかにきちんともがくか、それが己の進む道に光を届けてくれると、
「芸術とはなんと雄弁で懐深い世界であろうか・・二人はそう伝えてくれた気がする」と結んでいる。

私もこの本によって、今まで自分が見てきた美術品に対して「そいう視点があったのだ!」と・・。
自分なりの新たな物語を紡ぐ感覚を教えてもらった。

豆腐の文化史
江戸の昔から広く人に愛されて来て「豆腐百珍」などの本が
あることでも知られている豆腐が、果たしていつ頃から庶民にも武士にも好まれるようになったものか?
知りたい気になり、手に取ってみた。
空海が唐から帰国時にその製法を持ち帰ったとされる説もあるが、これは
弘法大師伝説の一種に過ぎないと言っている。

鎌倉期に入ってからの豆腐の普及は、精進料理と密接な関係を持って
普及する。

原則的に肉食を禁じられた僧侶たちに取ってはタンパク質の多い豆腐は貴重な食材だ。精進の料理人たちが、工夫を重ね動物もどきの食品を作ることにも心を傾け、その結果「がんもどき」が生まれたなどは典型的なもどき商品だ。

豆腐の伝来は、平安末期に中国から僧侶たちによってもたらされ、鎌倉期には地方にも伝わり、室町、戦国期になると地方の村々にも豆腐屋が存在していたことは間違い無いと検証している。

その後、石臼や水車の発明で大量に作られるようになり、価格も安くなって、庶民に広く普及していくようになる。
そうなると俳諧や文人、落語などにも登場し、庶民の話題にも多く登場する。

豆腐から派生する食材、湯葉や、オカラなどについても生まれる由来や、
使われ方、エピソードなど学者としての研究成果が発揮されている。

最後は「豆腐と生活の知恵」として各地を訪ね歩き、いろいろな豆腐を紹介しているが、今では作られていないものも多くなってしまったようだ。
地方に伝わるそれらは私の聞いたこともない製品ばかりで、わずかに
「豆腐餻」とか「豆腐ちくわ」を知るぐらいだ。

現在では、豆腐がヘルシー思考の高まりから世界に受け入れられ、輸出も
多くなり、燻製、そぼろ、チーズ状などいろいろな形で広がっている状況を語って締られている。

岩波新書版でいわば研究論文のようなものなので、たくさんの史料やや文献が取り上げられ、読みにくい部分もあったが、日頃食べている食品の
何がしかでも知ることができた。

以上はいずれも私の認めました「読後感想文集」から抜粋し、短くまとめたつもりですが、長くなってしまいました。
最後までお読みいただきありがとうございます。

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