猫柳

 比較的早い年齢で親元を離れた。
東北で雪の季節が長い土地だった。
粉雪が夕方になるとオレンジに輝いて舞い上がる。

 母は犬を3匹飼っていた。
私が帰省すると、母は犬たちの散歩を任せて昼まで惰眠を貪る。
 並んだベッド。
私は横でイビキをかく母を暖かな布団の中から恨めしく眺めた。
 先発部隊で冷えきっている自分の鼻にこれから加勢するからと空約束をしばらく繰り返して、一晩布団で暖めた服にモゾモゾ着替える。
 犬たちはいつも、今か今かと足踏みをして待っていた。
 車に乗り込むとまだ暗い山に向かい、音の消えた麓で騒々しく車を降りる。
 小さな動物たちは夜のうちにどんな踊りをしたのだろう。
 ウサギ、狐、カラス。風に振り落とされた木の枝や赤い実が、雪に残る動物たちの足跡に伴奏をつけている。
 次第に雪の暗さが柔らかになり、紺から水色の影に移ろっていく。

 春は暦に遅れて付いてくる。
実家を離れたというのに、私はいつまでも母に振り回されていた。
 別に母が何か注文を出す訳ではない。
ただ自由に生きていただけだ。私はいつも母を待っていた。
 朝ごはんを作って母を待ち、起きてくる前に昼を過ぎる。
 起きて来たら、用意した朝食の前にと請われて淹れた珈琲の時間が長引き、夕方の散歩の時間になっていたりする。
 そうなると結局朝ごはんはカップ麺に取って替えられる。
 夕方の散歩は母と揃って行った。
喧嘩をしていても、飲んだくれだった私が酔っぱらっていても引っ張り出され、二人で雪のなかに犬たちと繰り出す。
 散々待たされるもので、私はよく腹を立てていた。
 鼻の中を凍らせ、前を行く母のスカーフやら帽子やらにぐるぐる巻きになった、暢気な頭を忌々しく眺める。
 「こんな色のヨーグルト、あったんだよ」
 母は、もうそれは真っ白な丘の続きにある薄ピンクの空を見て言った。 
突風が吹く。世界が雪で煙る。
 ああ 美味しそうだね
私は頭の中で返事をする。
 しばらく歩くと猫柳の木がある。硬く銀色の毛が滑らかに桃色を映し出している。
 肺いっぱい冷たい桃色の空気を吸い込む私に母が振り向いた。
 そう、美味しいんだよ
 やっぱり頭の中で呟いたんだろう、それは可愛らしく微笑んだ。

 私の田舎には美しい猫柳が自生していた。
 母が死に、もう訪れることもなくなったけど、私はヨーグルト味の夕焼けを反射したあの猫柳がどうかずっと残るようにと願っている。
 


 
 

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