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芸術と「距離」。「推し」ができて…

「推し」
というものが私の中で誕生してから
思うことがある。

それは、芸術が人生で占める割合について。

私の「推し」は歌に演技に大忙しの人だ。
そんな彼女の姿を見るべく、
東へ、西へ、(おそらく時に海を越えて)
ファンたちは右往左往する。

生で触れる芸術は良い。
画面越しや誌面越しに見るものとは違い、
生きた芸術として心に届く。

形として残らないものだからこそ、
その姿を、その声を脳裏に焼き付けようと
心も研ぎ澄まされる。

そして豊かな感情とともに
その地をあとに帰路に着く。
この時間がたまらなく好きなのである。


芸術に触れたい、
芸術を通して表現したい、
という感情は人間らしくて非常に愛せる。

生命維持のためには
不要不急だと言われたとしても、
健康で文化的な生活のためには
必要不可欠な感情だ。

今の時代でこそ
テレビやインターネットから得られる情報も多いが
生の芸術には及ばない。

その場の空気感が
すでに芸術の一部であるからだ。
「本物」に触れたときに生まれるエネルギーは
その場でしか感じ取れない。
それは表現する側も同じことだろう。

だが、その感情を満たすためには
いくつものハードルが待ち受けている。
スケジュール確保、チケット取り、
そのためのお金。

そして当然ながら
「そこ」に行かなくてはならない。

舞台なら劇場に、
音楽ならホールやライブハウス、
美術なら美術館などの展示会場に。

そして
「そこ」との物理的な距離が、
芸術が人生で占める割合に大きく関わってくる
と最近強く思うのである。

なぜなら「そこ」に選ばれる場所は
圧倒的に都会が多いからだ。

私はいわゆる
「地方」と呼ばれる場所で育った。
習い事や部活で、
ある一定のジャンルの音楽には
深く関わってきたが、
プロによる多様な芸術に触れる機会は
決して多くなかった。

大人になって
初めてアーティストのライブに行ったとき
衝撃を受けた。
音響設備、照明器具、観客の盛り上がり、
どれも知らないものばかりだった。
本物ってこういうものなのかと思った。

(ちなみに初めてミュージカルを見に行ったときはなんだかよくわからなかった(笑)歌によって物語が進んでいくというスタイルに馴染めなかったのだ。その時は、数年後に舞台芸術に魅了されることになるとは思ってもみなかった。「推し」ってすごい。) 

もし、私が地方でない、
つまり都会、または都会に近いところで
育っていたら
何か変わっていたのだろうか
と思うことがよくある。

もちろん親や家庭での
芸術への向かい合い方次第なのは
言うまでもないが、
同じ条件の家庭環境だったとしたら、
都会に近い方が
芸術と直接触れ合う機会が
増えるように思わざるを得ない。

それは大人になった今でも同じことが言える。
「そこ」までの
物理的な距離が遠ければ遠いほど、
時間、お金ともに費やす負担が大きい。

費やすものが多ければ多いほど
芸術に直接触れる機会が減っていく。

熟考して本当に行きたい、
見たいものを絞るしかなくなる。

もちろん、仕方ないのは百も承知だ。
人が多く集まりやすいのは
交通網が発達している都会だし、
設備が整った会場が多いのも都会だ。

ただ人間の芸術レベルというものは、
住む場所によって差が生じかねないのだと
大人になってひしひしと感じているのである。

つまり何が言いたいかというと私は今、
舞台を見たい。見たい舞台がたくさんある。

ただそれだけだ。

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