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古本屋になりたい:43 高野悦子「二十歳の原点」


 ミートソースを作るためにトマト缶を開けようとしたら、プルタブがちぎれてしまった。
 玉ねぎもにんじんもみじん切りにした。ミンチ肉も解凍した。
 時間は元に戻らない。

 わたしの中のもうひとりが教えてくれる。

 でもほら、缶切りで開ければ。

 ところが、我が家には缶切りがない。
 栓抜きもないが、キッチンバサミの合わせの部分が丸くギザギザになっていて、いつだったか麺つゆの瓶の蓋はこれで開けた。
 ないと分かっているのに、念のため流し台の引き出しを開けたり閉めたりする。
 もちろん、缶切りは出てこない。



 大学一回生の夏休み明け、学部棟の階段で、魅力的な貼り紙を見つけた。
「サイクリング、放浪、廃村めぐり」
「ワンダーフォーゲル同好会」
 手書きの文字とつたないイラストが踊っていた。

 入学して間もない頃、学園祭の実行委員会に顔を出すようになったのだが、そうそうに嫌気がさした。
 男子学生たちが閉鎖的な円陣を組んで競馬の予想ばかりしているのと(いつ行っても、狭い部屋の真ん中に外からの侵入を拒むように椅子を円に並べ、みな内向きに座り顔を突き合わせ、競馬新聞を読みながら互いに難しい顔をして賭ける馬を吟味していた)、ある女子学生がスポーツ推薦で入った学生を、「私たちみたいに勉強という努力をして来なかった人たちで、ずるい」と毛嫌いしているのを見て面倒くさくなったのだ。

 もちろん、競馬に罪はない。
 スポーツ推薦で入学した人は、努力を実らせた人たちばかりだ。一般入試の試験より難しいものを突破して来ているし、そもそも学力審査も受けている。
 だいたいうちの大学くらいで、賢いつもりでガタガタ抜かすな。今だけでも何千人と同じような学力の人がここに同時にいる。
 そう、面と向かって言う元気はなかったが。

 それなりに勉強して大学に入って、大規模な学園祭を企画、実行し、盛り上げようとする会に入った人たちがそんな感じ?と、わたしは怒りというよりもとても低い温度でがっかりしてしまった。
 高校の時よりも同級生が子どもに見えるような気がした。

 基礎演習というゼミの予行演習みたいなクラスと、英語と第二外国語のクラスは少人数でメンバーが固定されていたから、すでにお昼を食べたり休憩時間を一緒に過ごす友だちは出来ていた。
 サークルとかはもういいか、と思っていたところに、ワンダーフォーゲル同好会の貼り紙が目に飛び込んできたのだった。

 登山はハードルが高そうだが、サイクリングと放浪という言葉に心惹かれた。廃村めぐりは何のことだかわからなかった。

 友人とふたり、ワンダーフォーゲル同好会がミーティングをしている教室を覗きに行った。
 ちょうどもうふたり、同じ貼り紙に釣られて女性が見学に来ていた。新入りの女性が4人もいるなら心強い気が、お互いにしたのだと思う。揃って同好会に入ることになった。

 山へ入るには、一にも二にも準備である。
 体力作り。
 装備を揃えること。
 ルートの設定と確認。

 運動が苦手で、何より走るのが嫌いなのに、学校の周りを二周するコースと、学校の敷地を出て近くの寺院の奥にある八十八ヶ所巡りをお手軽にできる巡礼スポットを一周してくるコースを日替わりでこなし、腹筋と背筋を鍛え、背中に人を乗せて階段を三階まで昇った。

 大きなザックはひとまず同好会の持ち物を借りることになったが、そのほかの装備は買って揃えるしかなかった。
 先輩に連れられてアウトドアショップに行き、登山靴とニッカポッカと、こまかなものを購入した。
 ネルシャツにツイードのニッカポッカ。ゴツくて重い登山靴。今のおしゃれな登山グッズとは全く違う。昔ながらの髭面の山男と同じ格好だ。

 そして毎日のように、登るルートを決めるミーティングがあった。

 リーダーが決められ、リーダーがそれぞれ次回の登山の計画を立て、参加者を募る。ミーティングでその計画が発表され、リーダーはどういうルートを辿るのかを説明する。それから、何時にどこまで進むのかを詳細に全員で検討していく。

 A地点を出発地点として、B地点を辿り、C地点がその日の最終目標の場合、目標時間までにBに到着していれば先に進み、Bに到着していない場合、Cに進むのかAに戻るのか、というようなことを、五万分の一の地図を睨みながら検討し、リーダーの設定が甘くないか、みんなで厳しい追及をする。

 一日の全体のルートについてではなく、部分部分について引くか進むかをリーダーは的確に判断して決めなくてはならない。
 ほとんど揚げ足取りのような、重箱の隅をつつくような厳しい質問が出て、ミーティングが殺伐とした空気になることもあった。

 登山をする人がみんなこういうふうにルートを厳しく細かく設定するものなのか知らないけれど、大人になって世の中が少しよく見えるようになると、どこまで行ったら進む、あるいは引く、みたいな選択は必要な時があるなと思うようになった。
 もしくは、何かしら計画を立てるなら、進む/戻る、も想定しておいた方が良いと思う。
 グダグダの会議に出ると、一回山に登る訓練してみたらどうだろう、と思ったりもした。

 また、下準備とは少し違うけれど、歌の練習もした。テントの中で、山の歌を歌うのだ。
 雪山讃歌とか、山男の歌とか。
 音源はなく、教えてくれる先輩の歌を頼りに覚えるしかない。先輩は揃ってみんな音痴で、雪山讃歌のようにメロディを知っているものでなければ(いとしのクレメンタイン)、本当に合っているのか分からないし、不安定なメロディは覚えるには厳しいものがあった。

 ”御注進”の練習もあった。
 精一杯の大きな声で、大学名、学部、名前を叫び、校歌を歌って、テント内に入る許可を得るのが御注進で、山に着くまでも、駅で電車に乗り込む前にこの御注進をしなければならなかった。
 人出の多い大きな駅での御注進は、めちゃくちゃ恥ずかしいのだが、声が小さかったり、詰まったり間違うと「もとい!」と言われてやり直しなので、こちらはもうヤケクソで大声を出すしかない。

 色々古臭い、昔ながらの山登り。
 大学でしか味わえないものではあった。

 ある日、ワンゲルに先に入っていて、同じ学部のKくんが、これ先輩やで、と高野悦子の「二十歳にじゅっさいの原点」の文庫をくれた。古本だったと思うが、わたしは本をもらえると単純に嬉しい。

 個性的でちょっと面倒な人が多いワンゲルの中で、Kくんは陽気で博識で、中学の頃から山に登っているとかで色々詳しく、話しやすかった。
 ふっくらとした元気な子どものような顔をしていたが、その見た目と裏腹の論客で、共産党支持者の集会に呼ばれて彼らを論破したらしい、といううわさもあった。議論では対立したが相手に気に入られて、肩を組んで飲み交わしたとか。

二十歳にじゅっさいの原点」は、1960年代の終わり、学生運動の頃を京都の大学で過ごした高野悦子の日記である。
 こう書いてもネタバレとは言わないと思うけれど、著者の高野悦子が鉄道自殺をした後、父親が娘の日記を出版したものだ。
 出版された当時話題になり、その後も長く読み継がれている。
 高野悦子が所属していたワンダーフォーゲル部が、わたしのいた同好会の前身だそうだ。高野さんよりあと、わたしが入ったのよりも10年以上前、大きな事故があったらしく、同好会へと部が自ら格下げを希望したと聞いたが、詳しいことは知らない。

「独りであること、未熟であること、
これが私の二十歳の原点である。」

 山での面白い話が色々あれば良いのだけれど、残念ながらあまりない。
 わたしは二回目の登山のあと、三回目の準備をしている期間に腰を痛め、ぎっくり腰と診断された。
 山で遭難している自分を想像してゾッとしてしまい、そのままワンダーフォーゲル同好会を辞めたのだ。
 女性の先輩がリーダーになって、尾瀬のお花畑を巡るパーティーに参加する予定で、楽しみだったのだけれど、重い荷物を持って立ち往生ならまだまし、谷に滑落でもしたら、と考えるととてももう登山はできないと思った。

 一度目の登山と二度目の間に冬が来て、冬山には登らない方針の同好会だったからトレーニングだけが続けられていたが、一緒に入った友だちはその間に次々と辞めてしまっていた。

 私たちが惹きつけられたサイクリングも放浪もこれまでのところ行われておらず、やはりワンダーフォーゲル同好会は登山をすることが本来の目的だった。
 放浪がしたいなら、自分がリーダーになって企画すれば良いよ、とのことだった。全然、ウェルカムだよ、という口ぶりだった。

 それはそれで何の問題もないのだけれど、もう少し気楽に考えていた女の子たちには、ハードすぎたのかもしれない。山を登るよりほかに、色々と大事なことはあるもの。
 あとまあ、便秘になるんですよね、行きたい時に行けないから。正味の話。これは辛い。

 一人残ったわたしとしては、「二十歳の原点」をくれたK君に義理を果たしたいような、妙な責任感を感じていた。次の年、新入生は一人しか入って来ておらず、同好会が先細りしているのは明白だった。

 しかし、背に腹は変えられない。
 元々体力にも運動神経にも自信がないところに、肝心の腰を痛めてしまっては、やはり登山は安全第一、無理はできない。
 下級生が持つ役目のテントは重い。特に雨に濡れた登山用の本気のテントほど重いものはないし、2リットルの水が入ったボトルは各自で持ち、食材などは手分けして持つとはいえ、トータルの重量は20〜30キロにはなる。
 きっと、今のテントはずいぶん軽くなっているのだろう。

 色々言い訳をしたけれど、結局わたしも、顔も洗えないトイレも行けないような山で汗だくになっているより、キラキラとした大学生活の方に目が向いてしまったのだ。

 廃村には一度行った。
 二度目の登山の時、京都と滋賀の県境にある人気ひとけのない村を歩いた。
 古びたおやしろ、手入れのされていない田んぼや畑、舗装されていない誰も歩いていない道。
 小学校らしき木造の校舎にも人影はなかった。
 繋がれていない白い犬が向こうからやって来たが、おとなしかった。痩せてはいなかったから、まだ住んでいる人はいたのかもしれない。だとしたら、廃村めぐりだど浮かれているのも失礼な話だが、昔話に出てくるような光景に、みんな静かに興奮していた。
 ふきのとうを初めて見たのは、この時だったと思う。

 Kくんがそれからどうしたかあまり知らない。
 青年海外協力隊に入りたいと話していたが、留学経験のある人が優遇されるようだと悔しそうにしていたのを思い出す。

 プルタブが引きちぎれてしまったトマト缶を前にして、わたしはワンゲルのことを思い出した。
 缶詰を缶切りなしで開ける方法。
 わたしはそれを知っているじゃない。

 “スプーンで缶のふちをひたすらガリゴリする”のだ。

 ツナ缶か何かで、開ける練習をしたのだった。
 山で必ず食べるカレー用のスプーン。柄をギュッとぐうの手で握って、缶詰のほんの数ミリほど持ち上がったふちのすぐ内側を、力一杯押しながら擦って、金属を伸ばすように切り、穴を開け無理やりこじ開ける。
 十分とか二十分、それをやり続けるのだが、わたしは結局缶を開けられなかった。

 ある日テレビを観ていて、元自衛隊の芸人・やす子が、缶切りがない時はこうするんです、と話し始めた時は、おっ、スプーンか!?と画面に目が釘付けになった。
 やす子は、缶詰を上下逆さまにして地面の石でゴリゴリこすり、缶のふちが削れたところで蓋を簡単に外してみせた。
 スプーンよりずっと簡単だ。

 しかし、山でもなく、戦場でもない、一般的な団地の一部屋では地面にゴリゴリして缶詰を開けるわけには行かない。汁がこぼれていたし。
 わたしはひとまず諦めて、もう一つ買ってあったトマト缶でミートソースを作った。

 メモ。
 明日、ホームセンターに行くので、缶切りを買うのを忘れないこと。

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