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古本屋になりたい:28 「正岡子規ベースボール文集」

 数年前に亡くなった伯父が、肺炎をこじらせて入院したことがあった。

 毎日来ていたのにここ数日来ないと心配した、行きつけの喫茶店のマスターが、独り者の伯父が住むマンションを訪ねて、病院にも行かないでふせっているのを発見した。マスターは、伯父を近くの病院に連れて行き、入院が必要らしいと伯父の妹である私の母に電話をくれた。

 仕事が休みでたまたま街へ出ていた私に母から電話がかかって来て、私は予定を変更して病院へ駆けつけた。ずっと付き添ってくれていたマスターとその奥さんにお礼を言って、付き添いを交代し、そうこうしているうちに母や叔母も到着した。
 伯父はぐったりしていたが、それでもずっと、大丈夫や、大したことない、と言い続けていた。

 結局、大したことないなんてことは全くなくて、重度の肺炎と診断された伯父は、片方の肺を摘出する手術をすることになり、呼吸器専門の病院に入院した。

 伯父の入院した病院が、一昔前はサナトリウムだったのではないかと思うのだが、正確なところはわからない。あまりそう言う歴史は、今では大っぴらにしないものなのかもしれない。

 病院は、丘の上の見晴らしが良いところにあって、表玄関は新しく建て替えられていたものの、裏手には古い建物も残っていた。増築を繰り返して複雑な作りになっていて、廊下を辿っていくと、病院らしく真っ白で静かなことは変わらないのに、その白が褪せて、少しずつ時代を遡っていくように思えた。
 鍵形に曲がった古い廊下の窓から、中庭のあまり手入れのされていない痩せた薔薇や、無造作に置かれた庭仕事の道具が見えて、福永武彦の「草の花」にこんな場面がなかったかな、と考えたりした。

 この伯父や私の母の父、つまり私の祖父は、着物の仕立てを仕事にしていたが、足が悪かった。
 子どもの頃に木から落ちて足を痛めたのに、痛いと言わずに我慢していたら足を引きずることになってしまったそうだ。「お父ちゃんは我慢強かったけど、痛い時は痛いと言わなあかん。」と、小さい頃によく母に言われた。

 やせ我慢の気質は、伯父にも遺伝したのだなと、伯父が入院した時に思ったのだが、もしかしたら、遺伝的に、痛みや体の不調に鈍いところがあるのではないかと言う気もする。

 正岡子規は、脊椎カリエスで34歳の若さで亡くなった。脊椎カリエスは、結核菌が脊椎に感染して起こる病気だ。

 野球が好きで、本名ののぼるから転じて野球のぼーると号したのは有名な話だが、ベースボールを野球と訳したのが子規だというのは誤解だ。ただ、野球という語の命名者である中馬庚ちゅうまんかなえが「一高野球史」を出版するより前から、野球のぼーるを名乗っていたのは本当らしい。

 結核にかかるのは、線が細くて体が弱そうな人というイメージがある。
 子規も子どもの頃は体が弱く、大人になっても体格には恵まれず顔色が悪かったようだが、野球好きは見る専門ではなくて、プレイヤーだった。

 「正岡子規ベースボール文集」(岩波文庫)は、2022年9月に編まれ出版された、新しい文集だ。
 野球俳句、野球短歌、野球エッセイなど、子規が野球について書いたあれこれがまとめられている。
 解説を入れて125ページほどととても薄いが、読めば子規が体をのびのびと躍動させて野球を楽しんだことがよく分かる。 

まり投げてみたき広場や春の草

明治二十三年

 広い土地や草原を見ると、ここで野球が出来るな、と考えてしまうたちだったらしい。
 この頃は、勉強もそこそこに野球ばかりしていたようだ。

久方のアメリカ人のはじめにし
ベースボールは見れど飽かぬかも

明治三十一年

 野球俳句も野球短歌も、正直あまり上手くない感じがまた微笑ましい。戯れ心に詠んだのかもしれない。

なかなかにうちあげたるはあやうかり 
草行くまりのとゞまらなくに

明治三十一年

 野球のルールを子規が紹介している文もある。
 現代の人ならそれほど野球に詳しくなくても知っているような基本中の基本だが、明治の中頃にはまだ決まった用語もない、未知のスポーツだった。

○ベースボールに要するもの はおよそ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生ならばなほ善し)、皮にて包たる小球ボール(直径二寸ばかりにして中は護謨ゴム、糸の類にて充実したるもの)、投者ピッチャーが投げたる球を打つべき木のバット(長さ四尺ばかりにして先の方やや太く手にて持つところやや細きもの)、一尺四方ばかりの荒布にて坐布団の如くこしらへたるベース三個、本基ホームベース及び投者ピッチャーの位置に置くべき鉄板様の物一個づつ…

明治二十九年 随筆「松蘿玉液」 

○ベースボールの球 ベースボールにはただ一個の球あるのみ。そして球は常に防者の手にあり。この球こそ、この遊戯の中心となる者にして球の行くところすなはち遊戯の中心なり。

随筆「松蘿玉液」

 知ってるって。
 と思わず突っ込みたくなるが、この頃の野球の認知度はこんなものだったのだ。

 正岡子規は、江戸時代最後の年、慶応三年の生まれだから、明治時代とほぼ同い年ということになる。

 子規が最初に喀血したのは明治二十二年のこと。それ以前にも喉から出血したことはあったと書いているから、体調が良くないのは分かっていたのだろう。しかしどうにも呑気な調子で、自分は体は弱かったが肺活量があるし、親族にも結核にかかった者はいないから自分もかからないと思っていたとも書いている。

 体を休めなくてはいけないとお医者に言われても、遠足に行って体を冷やしたり、早く空気の良い故郷に帰って海水浴でもして養生しろと言われても、試験があるからと東京にいて、医師や親の言うことを聞かなかったそうだ。

 子規という名は、喀血した自分を、喉の赤いホトトギスに見立てたものだ。

 まだ症状が軽いうちは、前向きに、ユーモアを交えて病気のことを語れたのかもしれない。
 後に、脊椎カリエスで歩行困難になり、病床から起き上がることもできなくなるとは、想像していなかっただろう。
 子規が野球をプレーすることから距離を置いたのは明治二十四年のことだったと、河東碧梧桐が後に語っている。
 腰の不調を訴え、脊椎カリエスと診断されるのは、明治二十九年のことだ。

 子規の友人たちが、子規と野球のことを書いた文章もいくつか載っている。
 学校の休憩時間に野球をして、教室に戻って来てもボールを捕る動きをして余韻を楽しんでいたという思い出話を読むと、こんなにも野球を自分の体で楽しんでいた若い子規が愛おしくなる。

 今から何年も前、私も伯父と同じく肺炎になったことがある。
 ひどい風邪だと思って、市販の薬を飲んで寝ていたら、3日目くらいに悪寒がし始めた。呼吸器が弱いという自覚はあったが、こんなことは今まで経験がなかったので驚いた。数分に一度の割合で、体がブルっと震えて収まらない。

 休日診療所で、多分肺炎だと思うと言われ、隣の大きな病院で診てもらうことになった。歩けますか?と聞かれて、全然大丈夫です!と元気に応え、紹介状のようなものを持って自力で歩いて隣の病院に向かった。足は重かったけれど、ちゃんと隣の病院にたどり着いた。

 血液検査とレントゲンの結果を待つ間に、ベッドで横になって点滴を打った。
 30分ほど横になっているうちに悪寒はおさまって、体感としてはなんかもう大丈夫と言う感じだったのだが、検査結果を聞きに診察室に戻ると、肺炎なので即入院です、と言われてしまった。
 大事をとって一晩くらいかな、と気楽に考えていると、1週間くらいだろうと言うので、心底びっくりした。

 笑顔で僕の話聞いてるけど、そんなにニコニコしてられないくらいしんどいはずですよ。

 そう医師に言われても、そこまでしんどいとは思えない。基本的に人の話は笑顔で聴くようになってしまっているのは、接客業が長いゆえの職業病だ。
 隣の診療所から徒歩で来たのに、入院する病室への移動は車椅子に乗せられた。そんな大げさなと思ったが、医師の言うとおり、きっちり1週間入院することになった。

 私の肺炎は悲観的になるような症状ではなかったものの、微熱がなかなか下がらなかった。
 肺炎の肺は、聴診器で聴くとチリチリ…と音がするのだと担当の先生が教えてくれた。まだ音がしますね、と言われて、病気の真っ最中だということを実感した。

 痰が出ればそれを分析してもっと合う薬を処方できるんだけど、とも言われた。
 咳が酷くなく、痰もほとんど出ない。でも熱がまだあって、肺がチリチリ言っていて、ベッドで大人しくしていなくてはいけない。

 結核の辛さ、罹患したと分かった時の絶望は、現代の私が肺炎にかかった時の驚きとは比べ物にならない。私の場合は、治ってからは不便を感じることもない。
 それでも、健康診断の結果シートには、肺炎の既往歴が載り続ける。
 新型コロナウイルスが蔓延して、自粛が当たり前になった時は、私の肺は完全ではないかもしれないと思うと落ち着かなかった。

 今年は、コロナ禍で延期されていたワールド・ベースボール・クラシックが開催されて、大いに盛り上がった。
 野球を愛し、結核で亡くなった正岡子規と、コロナ禍でのWBC。
 無理に繋げて考える必要はないけれど、「正岡子規ベースボール文集」が、今読まれるに相応しいのは間違いない。

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