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古本屋になりたい:23 いそぎばたらき・いちみのかしら

 朝日新聞に、「あのね」という子どもの小さなつぶやきを投稿するコーナーがあった。
 幼稚園から小学生くらいの子どもたちが発した何気ない、可愛らしい一言を、家族が投稿したものだ。

 朝日文庫から、「あのね 子どものつぶやき」として出版もされている。可愛くて面白くて、何も悲しくないのに、読んでいると胸が詰まるような気がする。

 この朝日新聞の「あのね」だったか、同じような小さな投稿コーナーがあった毎日新聞だったか、気に入った投稿をスクラップして持っていたのに、どこかへやってしまって手元にない。
 あやふやな記憶だが、その中で特に好きな投稿があった。

 小学一年生のお子さん。ひらがなの勉強中で、今日は「い」の言葉をたくさん集めてくるのが宿題だ。
 ノートをこっそりみると、「いそぎばたらき」「いちみのかしら」と書いてあった…。

 今、目の前のテレビで、「鬼平犯科帳」の再放送をやっている。

 中村吉右衛門の長谷川平蔵が、だいぶ若い。
 どうやら、密偵の彦十(江戸家猫八)が昔馴染みに再会して、おつとめという名の悪事に誘われて逡巡している。平蔵にはすでに知られていて、おまさ(梶芽衣子)たち仲間が、心配しながら見守っている。

 単純に事を起こす前の彦十を咎めるのでは、悪い奴らにお縄をかけることができない。
 彦十を信じる気持ちと、あちらに行ってしまうのではないかと信じきれない気持ち。平蔵の手下のものたちは、誰も脛に傷がある身だから、いつでも彦十の立場に陥る可能性がある。

 「鬼平」ではよくある展開だ。
 ドラマをよく見ていた頃は、鬼平こと長谷川平蔵がどう動くのかに注目していたように思う。

 子どもの頃の方が、正義を良しとする気持ちが強かった。
 たとえ今は仲間でも、元々は罪を犯して平蔵に捕えられた人たちだ。彼らを信用して使っている鬼平が格好いい、と思っていたのだ。
 信じる気持ち。
 こちらが信じれば、その思いは相手に通じる。
 なんて素敵。

 今改めてドラマを見ていると、彦十や、おまさや、大滝の五郎蔵(綿引勝彦)の側に自分が立って物語に入り込んでいることに気づいた。

 あんな気が荒い女の子とは友達になれない、と思っていたアン・シャーリーは、いつのまにかマシュウとマリラの気持ちで慈しむようになった。

 良いこと探しが趣味のポリアンナ。そんなポジティブになれるかいな、と思っていたはずなのに、改めて読むと、前向きでええ子だとしか思えない。

 甥っ子たちと映画館で観た「ドラえもん」は、のび太どころか、ドラえもん、そんなに頑張ったら死んでしまうよ!自分を大切にして!と、ドラえもんに対しても保護者目線になっていた。

 かつて親しんだ物語の主人公たちの年齢を超えて、見方が変わったことはたくさんある。
 しかし、私が密偵たちに寄せる気持ちは、アンやポリアンナやドラえもんに向ける保護者の目線とは、どうも違うのではないか。

 平蔵と密偵の関係は、例えば親子のような、信じる者と信じられる者という、まっすぐな線で結ばれるたぐいのものではない。
 信じ切ってはもらえない、いつ裏切るか分からないと思われても仕方がない、という諦めを抱えながら、密偵たちは、使ってくれる鬼平のために働いているのだ。

 時には、どうせ自分は本当には信じてもらえていないという気持ちが勝って、再び悪の側に自ら落ちていく密偵もいた。
 危うい動きをする彦十を見守りながら、おまさも五郎蔵も、自分を見るような思いを抱えていたに違いない。

 そして、テレビの外の私も、今週の彦十に、次週、おまさや五郎蔵が取って代わるストーリーもありうると、ハラハラしながらドラマを観ている。

 時代劇は勧善懲悪もので、分かりやすいから庶民に愛された、などと言われる。

 御奉行様になる前は不良だった遠山の金さんも、町に繰り出しては火消し連中と仲良くなった暴れん坊の八代将軍も、設定はアウトローの部分を持っているが、美しくてキリリとした、時代劇俳優そのもののお顔をしていた。
 強い心と美しい顔は、善なるもの、ヒーローそのものだった。

 火付盗賊改方・長谷川平蔵役の中村吉右衛門は、ちょっと違う。
 歌舞伎俳優として出自も才能も申し分なし、テレビドラマでの立ち居振る舞いが格好良いのも間違いないけれど、整った美しい顔というわけではなかった(ですよね?)。

 史実の長谷川平蔵は、青年の頃、放蕩無頼の風来坊だったそうだが、中村吉右衛門は、そんな平蔵の若い頃を彷彿とさせるような、ヤンチャな顔をしている。
 泥棒たちは平蔵には睨まれると、恐ろしくて震え上がったという。鬼の平蔵と呼ばれた所以だが、そんな荒々しさを、中村吉右衛門は持っていた。べらんめえな口調もよく似合っていた。

 単純な勧善懲悪ものに留まらないところが、「鬼平犯科帳」の魅力だった。
 それは、密偵たちの描かれ方からも観て取れる。
 いつ、望むと望まざるとに関わらず悪の側に戻ってしまうかもしれない、細い一本橋を渡っているような危なっかしい密偵の存在が、何よりもリアルだった。
 どうせ滑り落ちる危険があるなら、少しぐらい足が濡れても、初めから川の中を歩く方が安全ではないか。

 そんなはずはない、彦十が、おまさが、五郎蔵が、長谷川様を裏切るはずがない、とこぶしを握りしめて信じながら、昔の仲間から見れば今の彼らの姿こそが裏切りなのだ、という現実に、震えてしまう。

 中村吉右衛門が亡くなり、もう、新しい鬼平は要らない、と今は思っているけれど、いつかその気持ちが薄れる時も来るだろう。
 北大路欣也の秋山小兵衛、なかなか良いもんな…。

 急ぎばたらき、一味いちみかしら

 20年も前に小学校一年生だった、どこの誰かも知らないあの子はどうしているだろう。 

 今も、鬼平が好きかな。
 原作を読んだりしたかな。
 羽生PAの鬼平江戸処には、行ったかな。

 本気でちょっと、会ってみたいと思う。

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