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古本屋になりたい:46 井上靖「星と祭」

 今の中学生も、国語の授業で井上靖の「しろばんば」を読むのだろうか。

 小学校の国語の教科書に載っていたのは、それだけで完結している短い物語ばかりだったのに、中学校に入ると、長さのある小説の一部が抜粋されたものが教科書に掲載されていた。
 そのことに驚くと同時に、続きが気になるという体験も初めてしたように思う。

 教科書の中の「しろばんば」は、冒頭の数ページだけだ。
 子どもたちが、夕方、しろばんばと呼ばれているふわふわした虫を嬉しがって追いかけるシーン。その後何ページくらい続いたのかは覚えていない。
 先生の話と、解説のページもあったのだろう。井上靖の自伝的小説だということを知り、しばらくして最寄りの本屋に買いに行った。
 著名な日本文学を自分のお金で買ったのは、この時が初めてだったかもしれない。

 少し脱線するが、この数年後、ティーン向けのインテリア雑誌でお部屋改造に熱中した私は、「カラフルな文庫本のカバーは外して、本棚に統一感を出しちゃおう!」というアドバイスに従って何冊か文庫本のカバーを捨ててしまい、今とても後悔している。
 井上靖でいうと、「しろばんば」、続編の「夏草冬濤」、「額田王」にカバーがない。
 あまり後悔しないタイプなのだが、この後悔は3本の指に入るくらいの後悔である。

 中学から高校にかけて何冊か井上靖を読み、大学に入る頃にはあまり読まなくなっていた。
「おろしや国醉夢譚」や「蒼き狼」は面白かったけれど、歴史小説はやっぱり司馬遼太郎だなあ、という時期だった。

 社会人になるとますます井上靖からは遠ざかった。
 山岳小説が好きな父が「氷壁」を勧めて来たり、そういえば父は「天平の甍」や「敦煌」のことも何か言っていたなと思うのだが、どうも真面目な人が読む本という感じがして、自分も人一倍真面目なくせに敬遠していた。

 本棚にはずっとあるけれど特に読み返さないし新たにも読まない、という時間が長く続いて、再び読み始めたのはここ数年の話だ。

 本を読むきっかけはやはり本であることが多い。
 これまた、大学生の頃に熱心に読んだ椎名誠を久しぶりに読んだら、何冊か続けて読むことになり、その一つに「砂の海 楼蘭・タクラマカン砂漠探検記」があった。平成十二年(2000年)に新潮文庫に入ったこの本が、とうとう廃版になるらしいと椎名誠自身がどこかで書いていて、読んでいないやつ!と慌ててネットの古本屋で購入したのだ。

 なかなか話が本題に入らず、旅に出るまでに右往左往するのがいかにも椎名誠らしい。第二章の章題は、「停滞」である。
 本の半ばを過ぎたあたりで、井上靖が登場する。小説の作風をみても、作家本人の人物像を比べても、全くタイプが違うように思える2人だが、旧知の仲で、楼蘭に行くことが決まった時に、椎名誠は井上靖に会いに行っている。プロローグになりそうなエピソードを、なんでもなさそうな顔で真ん中に持ってくるのも、椎名誠だなという感じがする。

 前置きが長くなってしまった。

 椎名誠の楼蘭の旅を読んで、私はようやく井上靖の「楼蘭」を読んだ。「敦煌」も読んだ。「天平の甍」も手に入れた(まだ読んでいない)。

 そして、数年前のネットニュースを思い出した。
 絶版になって久しい井上靖の「星と祭」が、物語の舞台である琵琶湖岸、観音の里の住民たちの運動により復刻出版がかなったという記事だった。
 こういう時は、復刻版を買うのが本好きの心意気というものだ。それは重々分かっているのだが、ちょっとネット古書店で様子をみてみようかな、と‘ほしい本’として登録して数ヶ月。忘れていた頃に入荷の連絡があった。

 「星と祭」は、ボートの水難事故で17歳の娘を亡くした架山が、遺体の上がらない娘の鎮魂を願い、かつ、自身の心の安らぎを探して、琵琶湖東岸の観音の里を巡る物語だ。

 物語の中で、娘のみはるは亡くなってすでに7年が経っている。小説が人の人生を描くものだとしたら、クライマックスは物語が始まる前に終わっている。これから事件は起こらないし、水難事故の捜索に大きな進展もない。すべて余韻の物語だと言えるかもしれない。

 娘と一緒にボートに乗っていて同じく見つからないままの大学生の父親・大三浦は、頓珍漢なところがあり、架山は時々イライラさせられる。お前の息子が悪いんだろうと、問い詰めたこともあったが、言い甲斐がないのである。

 大三浦は鎮魂のために観音のある寺を巡っており、架山も渋々同行する。
 また、仲間に誘われて、ヒマラヤでの月見にも参加する。
 そういう時、架山は、みはるに話しかける。
 仕事部屋に一人の時も、架山はみはるに話しかける。
 みはると心の中で会話を交わし続ける架山は、なぜ娘が死んだのか、分からないままに自分に折り合いをつけていく。

 結局、架山の心に現れるみはるは、みはるではなく、架山が作り出した幻影に過ぎない。死者との会話は、自問自答に違いない。
 生きている側が折り合いをつけないことには、死者は忘れてくれない。そう頭では分かっていても、一つ一つの体験はまた別物だ。

 この物語を読んだ私にとっても、それは同じことだ。読書の薬効は後からやってくるもので、即効性はない。
 私が大事な人を亡くした時には、理由を探して惑い、水の底に沈んで上がって来れないのは自分の方だと思うことだろう。
 そういえばあの本にこんなことが書いてあった、と思うのは多分、少し後のことなのである。

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