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志は人を語るか⑴

志ってなんだろう。
夢とは何が違うんだろう。


タイトルを読んで、少しでもそう思った人がいるんじゃないでしょうか。

実際、僕はこのことについて語っている人をほとんど見たことがありません。 みんな「大きな夢を持て」「夢は人生を豊かにする」とは言います。 でも、「志を持て」という人はそれに比べてほとんどいない。


なぜでしょうか。


志って、なんでしょうか。


多分、最初の投稿って、当たり障りのない自己紹介がセオリーなんですよね。
でも僕はあえて、僕自身の志を語るというやり方で自己紹介をしてみたいと思います。なぜなら、

「志は人を語る」からです。

人が志を語るのではありません。志が人を語る。
まあ、とりあえずこの言葉の意味は置いておいて、早速僕の志を記したいと思います。


今回書くのは僕の持つ二つの志のうちの一つ、
「人を遺す」ということについてです。


少し話が変わりますが、あなたは今の生活、人生にどれくらい満足しているでしょうか。

僕は、めちゃくちゃ満足しています。僕の器からしたら、両手で抱えきれない程のものを僕は与えられていると思います。僕にとって、今の生活は奇跡でしかあり得ないと、冗談抜きで思っています。時々、今自分がこの生活を送れていることが、信じられなくなることさえあります。

じゃあ、その「奇跡」って、誰が生み出したんでしょうか?


僕でしょうか?


いえ、それは僕ではありません。もちろん、僕の努力だってその奇跡に幾らかは貢献しているだろうと思います。でもそれは、全体の5%、いや1%にも満たないものです。


残りの99%は、周りの人との縁でできていると僕は思います。今の生活につながるきっかけとなった全ての人との出会い、縁こそが今の僕自身の生活を作り上げています。

つまり、今の僕の生活は人との縁、出会いのおかげなのです。

僕は僕自身の努力だったり才能だったりを否定しているわけではありません。ただ、それがどれだけ結果に作用するのかは別にして、一度全体から見てしまえば、僕たちが積み重ねる努力なんてものはほんの少しの割合にしか満たないということです。

じゃあ、そこで僕は何をするべきなのか?


僕はそれを「恩返し」だと思いました。今の満足した生活が自分のおかげではないなら尚更、この生活を生み出してくれた「縁」に僕は恩返しをしなければならない。

ここで僕は悩みます。「縁」に対する恩返しの形は、どうあるべきなのか。何をもって恩返しとするのか。一年ほど答えが出ない時間を過ごしました。

そしてある日、中学の恩師から僕に届けられた野村克也さんの「言葉一つで、人は変わる」という本に、僕はこんな言葉を見つけます。


「財を成すを下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」


「人を遺す」


生まれた縁に恩を返すのなら、僕が新たな人という縁を生み出せば良いのです。
この言葉を知ってから、僕はこの「人を遺す」ということを僕の今までの縁に対する恩返しの形、つまり志として心に刻むようになりました。


つまり、この一つ目の志において、僕は僕自身の人生というものを
「周りとの縁によってできた奇跡であり、縁に支えられやっと成立しているもの」
と解釈し、
「その縁に対する恩返しの形として、今度は自分が後世に人を遺すこと」
を僕の人生の意味、貫くべき志として定義した、ということです。




ところで、志は人を語ったでしょうか。


ここであなたと出会ったのも、間違いなく何かの縁でしかありません。


「縁尋機妙 多逢勝因」










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