人間失格予備軍

太宰治『人間失格』を読んだ。お恥ずかしながら太宰治は『斜陽』くらいしか読んだことがなくて、教養としていつか読まねばと思いながらも機会がなかった。
いや、正確に言うと手に取ったことはある。小畑健が表紙を描き下ろしていた時に(『DEATH NOTE』が流行った時期だった)買うかどうかかなり迷った。結局レジには持っていかなかったのだが、十年以上前のことを今でも覚えてるくらいには葛藤した記憶だ。
ブログのタイトルを『人間失格予備軍』と書いたが、そんなものはいないともいえる。葉蔵は生まれた瞬間から人間失格で、物語の最後は周囲からその烙印を押されたに過ぎない。生まれた時からこうなる他の道はなかった。
だから読者が葉蔵に共感したところで、真に同じとは言えない。少なくとも私は田舎の金持ち出身でもないし、女を惹きつける容姿も持たないし、道化を演じのける地頭の良さもない。
それでもこの物語が人を魅了してやまないのは、破滅的な生活を送る様、心の葛藤に親近感を覚えるからだ。
他人と過ごしていて心が安らがない、むしろ針の筵に座るような思いをし続けるところ、酒に溺れて一時的な安心を得るところ、自分はどうしようもないと理解しつつも堕ちていく一方なところ。読んでいくうちに「これは自分の一部だ」と錯覚し、葉蔵に対して愛おしさを覚えた。
騙し打ちのように脳病院に連れていかれ、そこで物語が終わらないところもよかった。女中からは「頭のおかしいやつ」と馬鹿にされたまま、体だけは繋がる生活が続くのだろうと想像した。
本作の中で私が特につらいなと感じた箇所は、取り調べを受けている時にわざとらしく咳き込んで見抜かれるシーンと、シゲ子が「本当のお父さんがほしい」と言うシーンだ。どちらも背後から刺されるような衝撃がある。特にシゲ子の無邪気な夢は、どれだけ葉蔵の心を抉ったろうか。葉蔵は「少女は女である」と正しく理解していたはずだが、それを改めて突き付けられたような心地がしたんじゃなかろうか。あの決定的な言葉がなければ、シヅ子と添い遂げられた可能性もある……か? いや、結局のところ根底には逃げがあるから、どこかのタイミングで生活は破綻したのだろう。
どのルートを辿っても、葉蔵の末路は変わらなかっただろう。何人もの女に手を差し伸べられ、大成せず、迎合はできても適応はできない。初めから終わりまで「人間失格」なのだ。そうやって生まれて、そうやって死ぬしかない生き物。
上手く言語化できたか自信がないが、そんなことを思った。とても面白く、充実した読書体験だったので、太宰治の他作品も読んでみたいと思う。

昨日はドライブに行ってきたのだが、とても楽しかった。田舎の観光地に足を運んだから、車窓は緑いっぱいで桜も咲きほこり、ご飯も美味しかった。
しかしここでもやらかすのが私という人間である。四人で外出したのだが、一人がお手洗いに行き、もう一人が「煙草吸ってくる」と言った時に「私も!(吸いたい!)」と言ってしまい、三人の間に気まずい空気が流れた。
「ごめん引き留めて、先に行ってきて」となんとか三分後くらいに絞り出したのだが、ああまたやってしまった……と脳内は大反省祭り。朝のうちに自宅で統合失調症の薬を飲んでなければ、もっとひどい精神状態になっていただろう。
煙草を吸っている友人に後ほど「さっきはニコチン不足で頭回ってなくて変なこと口走っちゃった、ごめんね」と謝りを入れて「全然!」と返事をもらったが、変な人のカテゴライズをされたことは間違いないだろう。
どうしてこう脳死みたいな状態で話してしまうのだろうか。あまりにも浅はか。私の人間性のペラペラ具合は尻も拭けない。

人と外出するの、楽しいけれど疲れるな。向いてない。
道の駅で買って帰った苺は美味しかった。

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