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一九七九・彩の国モッズ伝来!!!!

"コリン・マッキネスに捧げられるものなら捧げる"

登場人物

”オレ”
「主人公、語り部。当時17歳、高校3年生。パンク・ニューウェーブ好き」

”エース・本間”
「オレのダチ、おない年、ファッション事情通、映画好き、ロックはビートルズしか知らない」

”モーター・小島・ヘッド”
「バイク屋の息子、おない年、モーター・ヘッド、スカ、パブ・ロック周辺好き」


まだ今のようなSNSなどなかった時代、遥か海の向うの情報得る方法が限られていた時代、糸電話、または伝言ゲームのような頼りない情報は受け取り方にとっては大きな誤解をまねくこととなった。これは、あるスタイル、アティチュードに憧れるも、情報不足からくる勘違い、思い込みにより、ズッコケ青春時代を送った哀れな少年たちの物語である。


オレたちは、公団住宅、いわゆる団地、エース・本間の号棟に集まっていつものように「あーだ、こーだと」どうでもいいことをだべっていた。
その日、エース・本間が言った。

「そういえば、あの映画知ってるか?”さらば青春の光”、てやつ」
こいつは、どういうわけか、やたら、映画とかファッションとかに詳しかった。やつが”POPEYE”を買って読んでることは知っていたが、どうもやつの情報源はそれだけではないようだった。

「それ、どんな映画だ」オレは言った。

「なんでも、”アメリカン・グラフティ”のイギリス版って感じらしい。イギリスの不良は、スクーターに乗ってスーツでキメてるらしい」

「スクーター?ダセえ・・・」ここで、モーター・小島・ヘッドが口をはさむ。
オレは、どうにもピンとこなかった。ツツパリ、喧嘩上等、暴走族、そんな不良がスーツでキメてるという状況が今ひとつ理解できずにいた。

「とにかく、まあ、オレは観てくるよ。”アメリカン・グラフティ”のイギリス版と聞いては観ないわけにはいかないからな」とエース・本間。やつは名画座で”アメリカン・グラフティ”を10回位観ているほどの大ファンなのだ。

それから、しばらくして、オレは自分の家、同じ団地の号棟、帰途についたわけだが。だが、何か、オレはこの時の話しがしばらく気になっていた。その「イギリスの不良は、スクーターに乗ってスーツでキメてるらしい」という箇所に・・・。
同じ高校の不良、ツッパリたちの、考え方、フアッションにひとかけらの共感も寄せられないオレにとって、何か、別の場所から突然、別の光りが差し込んできたような気がした。

数日後、エース・本間の家で、やつはえらく興奮した調子で喋りだした。

「観てきた、観てきた、チョーいいよ!お前らも絶対見たほうがいい!」とやつは語りながら、クリアファイルに差し込まれたチラシを取り出し、オレたちに手渡す。一枚はオレに、もう一枚はモーター・小島・ヘッドにと。

『さらば青春の光』(英1979年)監督・フランク・ロダム、主演・フィル・ダニエルス、スティング、44年たった今でもオレはそれを持っている。

映画『さらば青春の光』1979年公開時チラシ

オレとモーター・小島・ヘッドは、そのチラシをポカンとただ見ていた。しかし、なるほど、見れば見るほど惹かれる何かがあった。

「とにかく、すげえんだよ。主人公が夜のロンドンの街をヴェスパで疾走すんだよ。ヴェスパってイタリアのスクーターのことなんだけどね。スーツは三つボタンここ重要ね。そんで、その上に米軍放出品のコートを羽織るのが決まり。それmods・モッズの基本・・・、」

「mods・モッズ・・・、」オレが、そのワードを聞いたのは、耳にしたのは、おそらくその時が最初だったと思う。
「そう、そうなんだよ。やつらはモッズ族って呼ばれてんだよ」と、エース・本間はさもわかったような口をきく。

「なんか、このスクーター、デコチャリみてえだな・・」とチラシを見ながら、モーター・小島・ヘッドが笑う。

「そんで、ゲロマブイ女(完全に死語)が出てきて、もうこれはコレ以上は、言えねー、言えねー。そんで、ロッカーズとの大乱闘があるんだ・・・」

オレとモーター・小島・ヘッドはなんのことかよくわからず、ただ黙って聞いていた。

「まあ、とにかく観てきてからだな。今日はもう遅いからお前ら帰れ・・」

オレは、そのチラシを折れないようにエース・本間の家にあった古新聞の間に大事に挟んで持ち帰った。モーター・小島・ヘッドはチラシを四っに折りたたむとジーンズの後ろポケットに差し込んだ。

今から、考えると、エース・本間の家は母子家庭だったのだと思う。やつはオレたちには、父親は単身赴任しているといっていたが、その姿は一度も見たことはなかった。やつの母親はえらい美人で、黒木瞳に似ていると評判だった。そんな母親が働くスナックは近所のオヤジどもで連夜大盛況。店からもれるカラオケの騒音が深夜遅くまでこだましていた。
オレたちが、やつの家に集まるようになったのは、実はその母親からの提案だった。私はこんな職業、夜仕事で、ウチの子が一人で寂しい思いをするといけないからたまに遊びに来てやってちょうだいと。そんなことをオレの母親に話したらしい。だから、オレが夜遅くやつの家に行くことはオレの家にあっては容認されていたわけだ。それには、悪い不良グループと付き合わないようにという思いもあったのだろう。つまり、オレとモーター・小島・ヘッドは、やつの母親、黒木瞳から見れば、どうあれ健全な青少年に映ったというわけだ。

とはいえ、エース・本間は、不良というべきキャラではまったくなく、やたらオシャレ情報通の当時からしてみればかなりのトレンディ野郎だった。まあまあのイケメン、長身、清潔なハンカチをチノパンのポケットに入れチラ見せするのがやつのオシャレ・ポイント。これが女子の目を惹くとかなんとか言っていた。やつが、オレにボタンダウン・シャツを教え、深夜のエロ番組に教え、大人のオモチャが子供のオモチャではないことを教え、ペントハウスを教え、”アメリカン・グラフティ””セルピコなど数々の映画を教えた。やつは、その情報をどこから得たのか。今にして思えば、やつは飲み屋のホステスの息子、いわば、大人の世界にいちばん近い存在だったのだ。それらは、自然とやつの体にしみ込むように入ってきたのだろう。

その週末、オレは銀座”丸の内ピカデリー”でモッズの洗礼を受ける。
完全にその映画にノックアウトさせられる。どこをどう帰ってきたんだか、記憶がないくらい。ブライトン・ビーチの崖から落ちたヴェスパのことが頭から離れなかった。ジミーは死んだのか。その日、確か、有楽町の駅前、日立LO-Dプラザでシーナ&ロケットがライブをやっていたのを憶えている。鮎川誠が客席に向かってリクエストを募ると、誰かが「You Really Got Me,ユー・リアリー・ガット・ミー」と叫ぶ。瞬間!アナウンスもなく、いきなりそのイントロがレスポールでかき鳴らさせる!沸く観客!オレはロンドンのマーキーにでもいるような気分になった。そのライブがオレのその時の気持ちをこれでもかと煽るのだった。

オレがまず最初に思いついたのが、モッズ・スーツを作るということだった。もちろん、金もなかった。たとえ金があったとしてもバルコン・ナミキなど知る由もなかった。そこでオレが目を付けたのが親父のお古、冠婚葬祭用のスーツだった。着てみるとそれは余裕があり、だぶっとした印象だった。さらに致命的なのは、それにはボタンがふたつしかなかったことだ。オレは母親の裁縫道具を取り出して、そこに無理やり三つ目のボタンを縫い付けた。ただのダミーのそれを。だが、パンツの方はもっと始末が悪かったそれは、シルエットが幅広いタックが入ったものだったのだ。そんなことを、あーだ、こーだとやっているうちに、母親が通りかかる、「あなたは、いったい何をしてるのと・・。」オレはことの成り行きを説明した。それからダメもとで、オレの求めているスーツその理想の形を伝えた。三つボタン、シェイプされた形、胸のVゾーンは狭く、パンツはタックなしで細ければ細いほどいい。
すると、母親は何も言わずにそのスーツを引きとりその場所から去って行った。スーツは元の洋服タンスに戻されるのだろうと思った。親父の大事な冠婚葬祭用として。オレは、ほかの手を考えなくてはならないと感じていた。

だが、数日後、オレの部屋の襖の向こうから母親の声がした。「出来たよ。着てごらんよ」襖を開けると母親は、例のスーツを手にして立っていた。母親がどうやって、そのスーツを手直したのか未だに分からない。母親は息子可愛さで、夜なべして直したのか、それとも、洋服修理のお直しを出したのか。だがどうあれ、スーツを着たオレの姿は、間違いなくモッズのそれだった。さすがにいちばん上のボタンはダミーのままだったが・・・。

そして、シューズだ。今ならモッズがどのようなものを選ぶかはハッキリと分かっている。クラークス、マーチン、Loake、トリッカーズといったところ。だが、当時は、そんな知識などなかった。オレは平然と通学でふだん履いているハルタのローファーをそれに合わせた。(笑)なんの疑問も持たずに。
ネクタイは黒い葬儀用のものをふたつ折りに自分で縫ったものを使うことにした。そして、いよいよモッズ・スタイルで出掛けるオレに、団地の階下に住むイソガイさんが突然声を掛けた。「ひゃ、ヒロ〇さん亡くなったんかい?」と。ヒロ〇さんとはそう、オレの親父の名前だ。(笑)

『四重人格・ザ・フー』日本盤ジャケットカバー


その頃、『ザ・フ―/四重人格』はすぐに手に入れた。帯のコピーはこうだ。「ロックに生きがいをかけるモッズ族の少年、四重人格の精神分裂に悩むジミーはザ・フーの象徴か?青春の正気と狂気の間を鮮烈に描くザ・フーのロック・オペラ傑作アルバム!」これは、当時死ぬほど聴くこととなった。冒頭の『Iam The Sea(ぼくは海)』~『The Real Me(リアル・ミー)』の流れ、ジョン・エントウィッスルのベースが唸りあげる部分は今聴いても鳥肌が立つ。

そして、このアルバムには写真集がついている。写真家イーサン・ラッセルによる40ページにも及ぶフォト・ストーリー。これまた当時のロンドンの雰囲気を濃厚に感じさせるものだった。ロンドンを旅行したものなら知っている。あの鈍色の曇り空、すすけたレンガ塀、無機質な光景、スインギング・ロンドンとは名ばかり派手さ無縁の倦怠が横たわっている街だということ。唯一の刺激は、ギター、アンプ、ドラム・セットを完全に破壊するザ・フーのギグが行われる薄暗いクラブにあるということを。オレは毎日、爆音でこのアルバムを聴きながらその写真集を穴があくほど見ていたものだ。
ピート・タウンゼントはこの写真集について、ある音楽紙の記者にこう語っている。「彼はこれらをナショナル・ギャラリーに出展するつもりらしい。イーサンはロックンロールという未開の芸術を文明的な眼で見ている」

ナショナル・ギャラリー部分は、ピート特有のジョークに違いない。

『Quadrophenia』booklet by Ethan Russell

だが、しかし、モッズは、これだけではなかったのだ!

この感覚、それに覚えがあることを、この数年前の話しだ・・・。

それは東京12チャンネルで夕方、5時くらいからやっている番組だった。海外アーティストのビデオクリップを流すだけの番組だったと記憶する。そこに、『The Jam』ザ・ジャムは登場したのだ。黒のスーツ、ギター・ヴォーカル、ベース、ドラムスというあまりにも簡素なスタイルで。彼らはそのなかで、リッケンバッカーをかき鳴らし、リフ決めの部分で飛び跳ねていた。彼らはパンク・ムーブメントから出てきたのは周知の事実であろう。だが、彼らも否定しているとおり、ザ・ジャムの感覚はそれらとは異なっていた。そう、これもまた、モッズ、そのアティチュードにおいて繋がりを持つということだ。オレはここで、このザ・ジャムと『さらば青春の光』は完全にリンクするということを悟る。

今、改めて思うにオレの音楽観というものは、どうやら、スーツというものが重要な意味を持つらしい。ビートルズ、初期のザ・フー、ザ・ジャム、そして、アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャース、1961年来日時のリー・モーガンのシェイプされたイタリアン・スーツ、それこそ、モッズ・スーツの完全なるお手本、理想形だろう。紳士服の国、オックスフォードの流れではない、イタリアン・スーツその感覚は、イタリアのスクーター、ヴェスパにも繋がる。

『ザ・ジャム/イン・ザ・シテイ』日本盤 帯でポールの顔かくれる
『ザ・ジャム/イン・ザ・シテイ』日本盤 帯とるとポール怒り顔

オレのモッズ・スーツにいち早く反応をしめしたのが、エース・本間だった。オシャレに敏感なやつはプライドを傷つけられたと感じたのか、すぐに古着屋で三つボタンのブレーザーを見つけ、ボタンダウン・シャツにレジメントタイを巻いて現れた。だが、やつのパンツはタックが入り、最悪なことに裾をダブルに折り返していた。どう見ても、それはモッズというより、”くろすとしゆき”だった。だが、その姿は、マートン・パーカスのミック・タルボットにも見えた、百歩譲って、見えないこともなかった。その時、オレはやつのことを冗談でエース(モッズの)といった。それが、エース・本間の由来だ。

『仮面の群衆/マートン・パーカス』日本盤ジャケットカバー
『MERTON PARKAS you need wheels』7inch cover jacket


ある日、オレたちは、ポール・ウエラーが着ているポロシャツの話しになった。胸に月桂樹の葉がデザインされたやつだ。今なら、それが『FRED PERRY』フレッドペリーであることは分かる。だが、当時、そのブランドについてまるで知識がなかった。そのマークのポロはどこも探してもなかったのだ。エース・本間はいう、「これは、ウインブルドンの葉っぱだな。モッズはポロシャツはテニスウェアを愛用するんだ」と。それで、オレたちは、お揃いのヨネックスのポロをバーゲンセールで買い求めた。(笑)


米軍放出品のコートがアメ横の中田商店にあると聞いたのは、やはり、エース・本間からの情報だった。10月の終わりオレたち二人はアメ横に行き、買ったアーミー・パーカーをそのまま着て高崎線に乗って帰ってきた。上野公園を散策、駅、電車内、バスでその姿は大いに目立ったと記憶する。

次に、オレたちが望むものは、必要だったのがベスパである。モーター・小島・ヘッドの実家である「小島モーターズ」から借りたヴェスパならぬ、原付スクーター、「スワニー」、「パッソーラ」(笑)で、オレたちは、夕方、自分の住んでいる町(IN THE CITY)をただぐるぐる回った。アーミ―パーカーをなびかせて。サイコーな気分だった。だが、当時、町の人間は、オレたちがモッズであることなど誰一人として知らなかった。

『Quadrophenia』booklet by Ethan Russell

モーター・小島・ヘッドは頭を坊主にしていた。ファッションではなく、幼いころからそうしていたのだ。やつは、最初、ヘビーメタルから入った。その流れでモーター・ヘッドを聴くようになったのだ。レミーがやつのアイドルだった。だが、やがて、スペシャルズなどのスカに目覚めていく。やつの坊主頭はまるで初めからそうなるように、そのままスキンズに移行した。そこで、やつは、アメ横の中田商店へ行き、MA-1を買う。そこまでは、スキンズとして順調だった。だが、リーバイスの足元には、ミドリ安全の安全靴が選ばれた。(笑)もちろん、やつにしろドクターマーチンなど知る由もなかった。

当時やつの家の店「小島モーターズ」には、ごく普通に少年暴走族が集まっていた。腕のいいバイクの整備士だったやつの親父には、暴走族のリーダーすらも一目置いていた。調子の悪いバイクの音を聞いただけでどんな不具合が生じているか判断することができたのだ。やつの親父はオートバイを点検整備して乗ることを指導していた。だが、時に、ひどい例もあった。だが、やつの親父はそれに対し一歩も譲らなかった。
モーター・小島・ヘッドは、当初、暴走族の仲間に使い走りにされているような時期があったと思う。同じ年の仲間、家の商売のあいだで揺れていたのだと思う。だが、やがてやつは自分自身でそれを克服した。寡黙なやつだが、後に、やつが言ったことで印象的な言葉があった。「不良は、不良でもいいが、オレは音楽を愛せないような不良は信じない、」というものだ。

その日、オレたちは「スワニー」、「パッソーラ」で日本のブライトン・ビーチ「江ノ島」を目指していた。オレも行くといったモーター・小島・ヘッドが選んだのは「スーパー・カブ」だった。(笑)恥ずかしいからそれだけはやめてくれと言ったが、やつは譲らなかった。しかし、埼玉から東京、神奈川、その道のりはハンパではなく、ようやく江ノ島が見えてきた頃は、陽が海岸線に落ちかかっていた。
オレたちは、そこでイカ焼きを食い、サザエのつぼ焼きを食った。その写真はも今でもある。「こんなの、モッズが喰うか」とオレが言うと、「ジミーは、鰻パイ喰っていた」と、モーター・小島・ヘッドが答えた。

その帰り路で、事件は起きた。スクーターが崖から転落、まさか。

都内に入った頃、オレたちは、とあるファミレスに入り、窓際の席で、遅い夕食をとっていた。そのウインドウに無数のヘッドライトが照らさせる。オレたちは、窓の外で起こっていることに目が釘付けになった。
なんと、そこに、無数のヴェスパが連なり、それも見事にデコレーションされたやつが並んでいたのだ。なかには、ランブレッタなどもある。そして、皆それそぞれがモッズ・スーツでキメて、ターゲットマークや「The Who」,「The Jam」ロゴを張り付けたアーミー・パーカーをはためかせていた。
さらには、なかには、ステディに寄り添うモッズ・ガールの姿もあったのだ!!!!

彼ら、モッズの一団が店に入ってくる。席に案内される、運が悪いとはこのことだ、なぜならば、その進路なら、彼らはオレたちのテーブルの前を通らなければならない。嫌でもオレたちの姿が目に入る!
その時だ、最悪の間の取り方で、ミドリ安全の安全靴を履いた、自称サイタマのスキンズ・モーター・小島・ヘッドがトイレから戻ってくる!
やつとモッズの一団がかち合う。やつ小島は、彼らの姿をじろじろと眺めて通り過ぎる。
彼らが、オレたちのテーブルの前を通り過ぎる時、オレとエース・本間は息を殺して死んだように固まっていた。オレはハルタの革靴をテーブルの下の奥の方へと突っ込んだ。モッズの一団・三組に用意されたテーブル、それは、なんと、オレたちのテーブルを囲むようにして配置される。そこに、モーター・小島・ヘッドが現れる。「おい、お前ら、見たか、あいつらホンモノのモッズだぜ!」と、でかい声を響かせながら。
その声に、モッズ・ガールの一人が反応する。彼女は、小島の姿を見て笑う。彼ら全員の視線を浴びるのは、今度はこっちの番だった。その視線に、オレは、ただ、ただ、時間が過ぎてくれるのを待っていた・・・。


追記
『さらば青春の光』は、2019年に40年ぶりにデジタルマスターになってリバイ公開された。上映された「シネマート新宿」で、このポスターを「ばのら春さ、青光(あおひかり)」と読んだ若い方がいたという。それに、いいね!

映画『さらば青春の光』2019年rリバイバル公開時チラシ

エース・本間の母親はやつが20才になる頃、店の常連客と再婚した。しばらくは、やつ一人で団地に住んでいたが、ある日、誰にも何を言わず、突然、姿を消した。

モーター・小島・ヘッドは、小島モーターズを継いだ。バイク客に点検整備の重要さを訴えるとともに、今だ、ラジカセのテープであの頃の音楽を聴いている。現在のお気入りは、スティッフ・レーベルのコンピレーション。

オレ、。モッズについて忘れかけていた頃、仕事から夜遅く帰ってきてテレビをつけたらMTVが流れていた。そこで、『BLUR』ブラーの「PARK LIFE」パーク・ライフが流れた。ぼーっと見ていると、そこに映ったのが、なんと、『さらば青春の光』で主演を務めた、ジミーこと、フィル・ダニエルス!
高校時代のクラスメイトと数十年ぶりに街でバッタリ出会ったような気分になった。”パブでくだまいているようなオヤジ”になりたくなかったジミー、だが、彼は、その”パブでくだまいているようなオヤジ”になっていた。しかし、彼は”一流のパブのくだまきオヤジ”になっていた。経験からいって、こういう人間が世界でいちばん手強いことになっている。(笑)

『blur/PARK LIFE』cover jacket and poster








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