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10年越しの夢を捨てる時が来た #11

 最近いつもボーッとしている。脳に薄雲がかかったように思考がハッキリしなくて、視界が霞む。自分の目で見ているビジョンがどこか遠い世界のことのように感じて、まるでテレビで他人の物語を眺めているようだ。今さっきの出来事がしっかりと思い出せなくて、生きている自分に色を感じない。

 夏菜子はこの症状が何なのかを知っている。離人症だ。

 よくは思い出せないが、中高生とか思春期の頃によくこの感覚に陥った。と言っても、病院で診断された訳ではない。心理の勉強をしている中で、たまたまそれに辿り着いた。自分の人生が自分のものでない感覚の説明がついた時、妙に安心したことを覚えている。

 20年ぶりにこの感覚に苛まれている理由は一つしかない。もう何も思い出すなと、脳が危険信号を発しているのだ。

「佐藤さーん!」
 呼ばれて夏菜子はハッとした。スタッフルームには看護師が何人かいて、夏菜子はパソコンに向かって患者カルテの入力を行っている。
「これ、できてなかったですよ!またお時間のある時に、お願いしまーす」
「わ、すいません!すぐやりますね」
「いやーまだ期日先なんで、後で大丈夫ですよ。私パソコン苦手なんでマジで助かります。いつもありがとうございまーす」
 夏菜子の前に数枚の書類を置いて、同僚看護師は笑顔で去っていった。
 人間関係は決して悪くない。中途採用者ばかりの職場で先輩後輩はあまり関係なく、それぞれが得意なことを率先して行う役割分担が行えている。なにしろ基本的な能力の高い人が多くビジネスライクなので面倒がない。かと言って、仕事帰りにたまに飲みに行くような付き合いの人もいる。

 尊敬できる人の多い輪の中で、夏菜子の息苦しさは日毎に増した。まともな人たちの中にいると、自分がまともでないのが浮き彫りになる。もちろんそれを感じているのは夏菜子だけなのだが、今まで働いてきたどの職場よりも仕事ができる人間が多い環境に居て、夏菜子の劣等感は募っていた。

「佐藤さん!」
 いつからか、夏菜子は呼びかけられることにストレスを感じるようになった。
「はい!」
 名前を呼ばれる度に、自分が手痛いミスをして叱責される未来が頭をよぎる。
「605号の岡田さんが呼んでたよ。佐藤さん来てくれるって言ってたのにまだ来ない〜って」
 頭では分かっている。誰も夏菜子を攻撃したりはしないことを。
「あ!しまった、すっかり忘れてました!すぐ行ってきます」
 分かっているのに、感情だけが重く腹に沈んでいく。
「岡田さん、佐藤さんのことお気に入りだもんね。いつも話聴いてくれるって喜んでたよ」
 瞬発的に、叱られるのではないか、殴られるのではないか、傷付けられるのではないかと、心が震える。
「いやいや、みんな岡田さんの話聴いてあげてるじゃないですか。私だけじゃないですよ」
 笑い合って何でもない会話をしながら、夏菜子はひとりトラウマと戦っているのだ。
「いやー、私なんか右から左だもん。佐藤さんみたいにちゃんと聴いてないから」
 後でどんなに褒められたとしても、瞬間的に湧き上がった恐怖心をなかったことにはできない。
「またまた〜、じゃ急いで岡田さんのとこ行ってきます!ありがとうございます!」
 その上ミスを指摘されたという事実が、夏菜子に重くのしかかる。
 どうしよう、またやってしまった。こんな単純なこともできないなんて!そう夏菜子を責めるのは、過去の亡霊たちだ。夏菜子は今でも、子どもの頃にかけられた呪いに縛られたまま完璧な自分を探し求めている。

 だから、どんなに些細なことだとしても、人より劣っていることを露呈されるのは夏菜子にとっては致命的だ。いちいち深く傷付いて、何日何週間も無力感に苛まれることがある。そしてその感情が溜まりきった時に体に現れる構造になっている。

 言動と感情が伴わない日々を長く過ごしていると、自己同一性が失われていく。自分と自分以外との輪郭がぼやけて、誰かに掴まえていてもらわないともうどこに居るのか分からない。

 夏菜子はギュッと自分の肩を抱き、その存在を確かめた。

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