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10年越しの夢を捨てる時が来た #12 【了】

ー10年。

 長いようで、短いようで、少しは成長できたような、やっぱり何も変わっていないような、振り返れば駆け抜けた日々だった。がむしゃらに、時に荒々しく、夏菜子は目の前の患者に向き合い続けた。

 うつ病から復帰して何年かは、職場で過換気症候群に襲われて休ませてもらうことがあったり、朝目覚めたら失声症状が起こっていることがあったりした。看護師よりも負荷の低い仕事が他にたくさんあると分かっていながら、それでも看護師を続けたのは『恩返しの気持ち』に起因するところが大きかった。

 希死念慮が強かった頃、夏菜子は何度も自殺未遂を図った。

 実際は、そんなことではおよそ死ねないだろうという程度の自傷行為に過ぎなかったが、それでももしかしたらと思うと、元気に生きて働いていることが奇跡のように感じられる。そして、生きながらえたのは全て周りにいる人たちのお陰だと夏菜子は想っている。

 息をする以外に何もできなくなった自分を引き取って養ってくれた家族へ、まともに会うこともできないのに懸命に支えようとしてくれた当時の恋人へ、酷い八つ当たりをしても優しく見守り続けてくれた友人へ、そして新しく出会いうつ病ごと受け入れてくれた数々の人たちへ。

 自分が真っ当になって幸せに暮らすことが何よりの『恩返し』になると思い、多少の無茶は折り込み済みで突き進んだ。何年もの間、恩返しこそが生きる目的となっていた。

 だがそれにも限界を感じている。自分の感情を無視して、人のために生きることなんてできない。

 夏菜子は決して看護師の仕事が嫌な訳ではない。患者と接することやケアをすること自体は、自覚的なストレスを感じることなく幾らでも行える。問題は、看護師は患者に対して看護業務だけを行なっていれば済む職業ではないということだ。

 チームワークが基本となる医療現場において、患者、患者家族、医師、看護師、介護スタッフ、ケアマネジャー、リハビリスタッフ、ソーシャルワーカー、相談員、事務員、と数えきれない程の職種との協働が求められる。

 それぞれの立場で意見を言い合えば結果として対立構造は生じやすく、殺伐とした人間関係に置かれることが多い。看護師同士であっても、それぞれの看護観を持ち寄れば患者に対して方向性が交わらないことは往々にしてある。その間でコミュニケーションを取らなければならないことが夏菜子にとって高ストレスとなるのだ。

 夏菜子はふと、初めて看護師長と面談が行われた日のことを思い出した。それは夏菜子が入職して1ヶ月後、酷い生理痛で動けなくなり小一時間程スタッフルームで休ませてもらった後のことだ。それも今にして思えば身体化だったのだろう。

 看護師長は夏菜子の生理痛の事情を確認してから、受診を勧めた。夏菜子の生理痛の酷いのは初経の1日目からのことで、学生時代も随分と苦しめられたものだから検査の類は全て行ったし定期的ながん検診も受検している。異常はないが時々酷い時には動けなくなってしまうことがある。そう伝えると、看護師長は迷惑そうに言った。

「うちの子たちは真面目だから、悪い影響を与えてほしくない」

 あまりのショックに、夏菜子は前後の会話を覚えていない。ただ強烈に、自分がこの病院の、この看護師長の部下という立ち位置から疎外されており、また不真面目な職員だと認識されている、という事実が脳に突き刺さった。

 ここに自分の居場所は無いと確信するには十分すぎる出来事だった。

 それからは、どんなに上手くやっていても虚無感が付き纏った。看護師長と目が合う度に存在を全否定されているような気持ちになり居た堪れなかったし、他のスタッフにも歓迎されていないのではないかと疑心暗鬼に陥った。

 程度の差はあれど、前の職場でもその前の職場でも、夏菜子はそういう人間関係を気にして体調を崩した。それがどんどん積み重なり、看護師として働くにあたって絶対的に発生する種々の人間関係に心底疲れ切ってしまった。

 1ヶ月半前、看護師長との面談を受けて看護師の夢を諦めることを決意した。複雑性PTSDと診断されてから少しずつ冷静を取り戻し、夏菜子なりにじっくりこの10年間の歴史を振り返ってみるとやはり、自分らしい働き方は看護師ではないように思える。

 じゃあそれが何なのかなんて分からない。もしかしたら、そんなものはこの世に無いのかもしれない。

 ただ一つ確かに言えることは、夏菜子なりに必死で取り組んだ『恩返しの旅』はここまでとなり、これからは誰のためでもなく自分のために生きていくということだ。

「短い間でしたが、お世話になりました」
 玄関で小さくお辞儀をして、夏菜子は病院を後にした。

 レールの敷かれていない道を進むのは怖いが、今ならやれる気がしている。過去ではなく、未来を生きるために。

【了】

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