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10年越しの夢を捨てる時が来た #6

 近くの精神科クリニックはインターネットですぐに見つけることができた。

 夏菜子がうつ病で心療内科に通っていた15年程前は、心療内科や精神科を受診するハードルが今よりももっと高く、まずもって予約制のところばかりで、1ヶ月待ちなんていうことがザラにあった。1ヶ月後の予約が取れたところで、その日の調子がどうなるかは分からないし、もし行けなかった場合、次に受診できるのは必然的に1ヶ月後ということになる。そんなに先になるようでは内服薬が足りなくなり治療に影響を及ぼすので主治医には向かないと懸念していたが、今時はそうではないらしい。

 インターネットで検索した近くの心療内科・精神科クリニックは、年中無休で予約なし診療が可能という、なんとも精神疾患患者のメンタルに寄り添ったサービス提供をしているところだった。これはありがたいと思った夏菜子は、オンライン予約をしてからクリニックへ向かった。

 オンライン予約枠はガラガラに空いていたが、いざクリニックに到着すると予想を遥かに上回る患者数に驚いた。待合室に並べられた30程の椅子の8割以上に人が座っており、皆誰かに番号を呼ばれるのを待っている。顔色の悪そうな人もいれば、スマホで熱心にゲームをしている人もいた。適当に空いている席に腰掛けた夏菜子は、視線だけ動かして周囲に溶け込むように努めた。

 椅子の向いている方向には診察室がいくつかあって、時々ドアが開いて女性スタッフが番号で患者を招き入れた。電光掲示板からポーンと音がして番号が表示されると、会計か薬の準備ができた合図らしい。明るくて活気のある待合室で落ち着かないでいると、すぐに夏菜子の番号が呼ばれた。
「63番様ー」
 思いがけず後方から声がしたので慌てて立ち上がり挙手をした夏菜子に、若い女性スタッフが目配せをした。促されるままに狭い個室に入り、ニコニコした表情の女性スタッフと対面して腰掛けた。女性スタッフは名乗り、夏菜子用のカウンセリングシートを広げて記入を始めた。家族構成、受診理由、困っていることを順番に聞かれ、あっという間にシートが埋められていく。夏菜子は用意していた言葉を予定通りに並べるだけだった。

 女性スタッフとの面談が終わると待合室に戻され、今度は診察室に呼ばれた。別の女性スタッフに通された部屋には医師らしい白衣を着た男性がゆったりと腰掛けており、女性スタッフはその奥でパソコンに向かって着席した。男性医師は穏やかな表情で深瀬と名乗り、簡単な挨拶を交わすとすぐにカウンセリングシートに視線を落とした。そして、先に伝えていた内容のすり合わせが夏菜子と深瀬の間で行われた。

 概ね3ヶ月に1回程度、体調を崩したり、寝坊をしたり、転んで怪我をしたり、体が痛くなったりすることについて職場で不振がられ、精神科受診を打診されたこと。それは小学生くらいの物心ついた時から現在に至るまで、一度もなくならずに有り続けている症状だということ。15年程前にうつ病、全般性不安障がいの診断を受けたが、その症状は改善し治療は終了していること。小さい頃から親に叩かれたり悪口を言われたりして過ごしてきたこと。
 すり合わせが終わると、深瀬はシートにはないことを尋ね始めた。
「虚無感を感じますか?」
 虚無感とはなんて懐かしい響きだろう。夏菜子は中学生の頃、それを毎日のように感じていた。何をしていても生きている意味が分からず、自分の体がボロボロと砂のように崩れていく感覚だ。
「最近はほとんど感じることはありません。私は友人に恵まれています」
 深瀬は目を細めて頷くと、遠慮がちに質問を変えた。
「初対面でこんなことを聞いて嫌な気持ちがしたらごめんなさいね、自傷行為はありましたか?」
「小さい頃は、髪の毛を抜いたりとか、爪を噛んだり、自分で同じところを引っ掻き続けて血が出る程掘ったりすることがありました。そういうののことですか?」
 夏菜子にとっては当時日常的に行っていたある種の癖のようなもので、これまで問題とされてこなかったことを改めて聞かれるのは不思議な感覚だった。深瀬は再びうんうんと頷き、質問を続けた。
「自傷行為をする方の中には刺青が入れるような方もいますが、佐藤さんはどうですか?」
「はい、あります」
 夏菜子は何の躊躇いもなく袖を捲り、手首に入れた刺青を見せた。深瀬は少し怖気付いたような反応をしてから状況を受け入れた。

 その後もいくつか確認の質問がされ、深瀬はまとめに入った。

「伺った内容から今日のところの診断をしますね。佐藤さんは発達過程において安心できる経験をすることが出来ず、複雑性PTSDとなってしまった。親御さんとの関係がトラウマとして残り、侵襲体験を受けるとトラウマが刺激されてストレスとなって蓄積する。そのストレスが器から溢れ出す時に、何かしらの身体症状に転換されてしまう、ということだと思います。カウンセリングをお勧めしますが、自費診療となりますし、あくまでも任意です。佐藤さんが決めてください」

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