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『我が家の新しい読書論』4-2

EMちゃん&ESくん
 ただいま~

網口渓太
 おかえり~。朝食にモーニング食べに行ってたの?

EMちゃん
 うん、今日は駅前のマダムがやってる方の喫茶店に行ってきた。あともう蝉が鳴いてたことを報告するよ(笑)

ESくん
 スクランブルエッグとカフェオレ。あそこトーストの焼き加減が上手だね。渓太くんこれ、お使いのお漬物。

網口渓太
 おっ、ありがとう。ふたり共、お昼ご飯作ってるからちょっと寛いでて。もう蝉か、早起きだなそいつ(笑) じゃあ、もうじき梅雨があけるのかもね。

 これなら、どんなに忙しくても作れるでしょう。ご飯を炊いて、菜(おか
ず)も兼ねるような具だくさんの味噌汁を作ればよいのです。自分で料理す
るのです。そこには男女の区別はありません。料理することに意味があるの
です。
 毎日三食、ずっと食べ続けたとしても、元気で健康でいられる伝統的な和
食の型が一汁一菜です。毎日、毎食、一汁一菜でやろうと決めて下さい。考
えることはいらないのです。これは、献立以前のことです。準備に十分も掛
かりません。五分も掛けなくとも作れる汁もあります。歯を磨いたり、お風
呂に入ったり、洗濯をしたり、部屋を掃除するのと同じ、食事を毎日繰り返
す日常の仕事の一つにするのです。
 「それでいいの?」とおそらく皆さんは疑われるでしょうが、それでいい
のです。私たちは、ずっとこうした食事をしてきたのです。

 ご飯と味噌汁のすごいところは、毎日食べても食べ飽きないことです。
 毎日食べても飽きない食べ物というのは、どういうものでしょうか。どん
なにおいしいお料理も、繰り返し、毎日食べたいとは思わないものです。と
ころが、ご飯に味噌汁、漬物は毎日食べても食べ飽きることはありません。
食べ飽きるものと食べ飽きないものの違いはどこにあるのでしょう。
 だいたい人工的なものというのは、食べてすぐにおいしいと感じるほどに
味がつけられています。そういった、人間が味つけをしたおかずというの
は、またすぐに違う味つけのものを食べたくなります。
 一方、食べ飽きないご飯とお味噌汁、漬物は、どれも人間が意図してつけ
た味ではありません。ご飯は、米を研いで、水加減して炊いただけ。日本で
古くから作られてきた味噌は微生物が作り出したもので、人間の技術で合成
したおいしさとは別物です。人間業ではないのです。
 味噌や漬物が入ったカメの中には微生物が共存する生態系が生まれて、小
さな大自然ができています。味噌や漬物という自然物は、人間の中にある自
然、もしくは、自然の中に生かされる人間とであれば、無理なくつながるこ
とができるのです。
 私たちは、自然の景色を見て美しいと感じ、それは何度見ても見飽きるこ
とはありません。そのダイナミックな変化に感動することもあるでしょう。
自然は自然とよくなじむ、このことを心地よいと感じます。その心地よさに
従って、命を育んできたのです。

『一汁一菜でよいという提案』土井善晴

ESくん
 渓太くん本当この本好きだよね(笑) 誰かの記念日に贈本するときも、い
つもこの本じゃん。

網口渓太
 ええですやん。「型」に目がないのもあるけど、料理ビギナーの自分で
も、一汁一菜だったら美味しく栄養満点の食卓を作れるのもいいのよね。こ
の速さは、とっても大事。ほれ、

松岡 「流れ」の問題はロジェ・カイヨワ氏と話した折も話題になりました。彼は「流れ」を見つめなおさないとあらゆる人文科学も自然科学も行き
づまる、という見解を持っていた。僕もちょうど、「流れと構造」というこ
とを考えているところです。それは簡単に言うと、「構造」をつくらないか
ぎり「流れ」は見えてこないーということです。一般には、「流れ」と「構
造」は対立するものですが、僕はむしろ「構造」の樹立ゆえに「流れ」がは
じまるという考えを探る。そこで、これは奇妙な言葉なのですが、「相似
律」という構想を導入してみた。すなわち、「ちがいを求める」のではなく「近さを求める」ことの提唱です。

マンディアルグ 実に現代的な課題だ。鉱物と女、樹木と思想……みんな似
ています。現代には確かに相似性が欠けています。

松岡 もはや「方法の時代」は終わったようですか。

マンディアルグ 私には方法はありませんね。私は可能な方法すら失った男
です。

松岡 方法のための思考では遅すぎるとおもわれます。強いて言うならば方
法は同時に消費あるいは解消でなければならないですね。

マンディアルグ 確実な方法をさがそうとしたらだめですね。

松岡 失速します。

『間と世界劇場』松岡正剛

 土井先生のお味噌汁と炊いたご飯とお漬物という日本人らしい食事の型は、松岡さんの言う「流れと構造」の実践にもなるからね。土井先生の味
噌汁は本を読んだその日から作れるから。一読したら四の五の言う前に、
まず一度味噌汁を作ってみることをおススメしたいね。面白いと思うよ。

EMちゃん
 ワタシも土井先生の料理動画が好きだけど、先生独特の言語観が放たれて
るSNSもカワイイのよね。「ぶるうべりぃ」とか(笑) じゃあ、ワタシは
「食べる」ことがただの消費行為ではないという着眼点から、岡本かの子さ
んの世界観を引用するわ。芸術家の岡本太郎のお母さんね。

 岡本かの子は、食べるという行為がいかに人の精神生活と密接しているか
を描く名人である。その作品世界の背景には、食というモチーフと共に、常
に淡い生殖の官能が滲んでいる。「いのち」という店名のどじょう屋が舞台
になっている『家霊』は、そうしたかの子のエッセンスが凝縮された小説の
ように感じられる。
 おかみが病身になってからは、娘のくめ子が店の切り盛りをしている。く
め子は、ある時から徳永という年老いた彫金師が頻繁にどじょうをせがみに
やってくるのを鬱陶しく思う。しかし、彼の言うところでは昔、代金の支払
いに困っていた時に、彫金した作品をくれればお代はいらないとおかみに言
われたという。以降、「これは」と思える出来栄えの簪(かんざし)などが
出来た時には、おかみに献じてきた。しかし、身体も衰え、仕事への矜持も
失った今は、ただただ「あの小魚のいのちをぽちりぽちり(中略)骨の髄に
噛み込んで生き延びたい」と訴える。くめ子はその長い独白を聞いた後、料
理場に立ち、「日頃は見るも嫌だと思った」どじょうに親しみを覚え、手の
なかで轟く魚の感触に「いのちの呼応」を感じ取る。
 その後、くめ子は病床の母親から告げられる。この家の女は代々、放蕩者
の夫に苦しめられてきた。しかし、店の経営に苦心し続けるなかでも、「誰
か、いのちを籠めて慰めて呉れるものが出来る」。母親にとっては、徳永の
くれた箸の類が、店のなかで「生き埋め」のようになりながらも、生き続け
る活力を与えてくれたのだ。
 人は、生物学的な欲求の充足だけで生きることができず、精神的な希望を
満たす必要にも駆られている徳永はどじょうの代金は支払えなかったが、お
かみの乾いた心を潤す簪を作ることはできた。
 本作で描かれている徳永のどじょうへの執着は、ただ空腹を満たしたいと
か美味いものを食べたいなどという刹那の感情を超えて、彼の実存を支えて
いるかのようだ。そして、くめ子が触れたどじょうの生の感触を通して、料
理をつくり、差し出すことがいかに他者の精神を助けうるかということが描
かれる。食べることの意味をここまで人間存在の根底で見据えて描ける作家
は、どれだけいるだろうか。『鮨』『雑煮』『真夏の夜の夢』といったかの
子の他の作品からも他者の生命を自らのうちに取り込み、受肉させることの
根源的なエロティシズムを感じさせる。食べることは日々反復される行為だ
が、決してただの消費行為ではなく、わたしたちが世界と関係する最も基本
的な方法なのだ。

『コモンズとしての日本近代文学』ドミニク・チェン

ESくん
 「労働価値説」とか「コスパ思考」にまみれてしまって、人工的貧困から
脱することができずにいる現代人の目を醒ましてくれるような一節だね。

網口渓太
 いいね、リッチマンより”様子のいい人”になりたいよね。まぁ、リッチで
様子のいい人もいるからあれだけど。それなら、p98も面白いと思うよ。

 判断する基準を持つとは、これまで経験したものと、初めて経験するもの
の違いに気づくことでもあります。
 料理屋の仕事というのは、お客様を喜ばせることです。季節を先取りし
て、初物があれば献立の中に忍ばせて、季節の移ろいをお客様に知らせま
す。また、暖かくなれば、たくあんの切り方を変えて繊維に沿って切ること
で、歯ごたえに小気味の良さを出すのが季節の気分です。座敷を夏向きのし
つらいに変えることも、新しい絵を掛けることも、建物を少し普請すること
も同じです。そういった小さな変化に気づいて下さるお客様は、料理屋にと
って嬉しいことです。ましてや、褒められれば一層嬉しく、気づいてくれた
そのお客様を、「あの人はやっぱり偉い人だな」と思って尊敬するのです。
 一方、客側にとっても、教えられたのではなく自分で気づくことは小さな
ことでもそれは閃きですから、パッと心が開いて嬉しいものです。そういう
閃きのある人を「もの喜びできる人」と言います。仕事をしていますと、何
より喜んでくれる人が嬉しいものです。喜んでくれる人は、わかってくれる
人ですから、わかってくれる人にいいものを買ってもらいたいと思います。
もの喜びできる人は、ご本人はきっと気づかれていることと思いますが、ど
こに行っても、ずいぶんと得をされていると思います。
 もの喜びするとは、感動できること、幸せになることです。人の愛情や親
切に気づくことができるのです。愛情を感じる能力です。料理を作ってもら
ったという経験を毎日三度繰り返すことで、愛情をたっぷりと受けていた
ら、当然かもしれません。無償の愛を受けていたからこそ、人にも愛を与え
ることができるのでしょう。これこそ愛のリレー、清水博先生のいう「与贈
循環」です。清水先生によれば、よく言われる「贈与」とは自分の名を残
し、見返りを求めるもの。対して「与贈」とは、自分の名を残さないで与え
るばかりのことを言います。人間は自分以外の人のために何かをすることこ
そが本質であり、その与えがまた新たな与えを生み、やがてはそれはみずか
らのところに戻ってくるのだという思想です(茶の湯におけるもてなしの場
である茶事の料理、「茶懐石」のような理想の和食では、盛りつけたお料理
から人間は消えていなけれなならないものです)。

『一汁一菜でよいという提案』土井善晴

 そうなのか、じゃあESくんが買ってきてくれたたくあんは、どう繊維に
沿って切れば美味しくなるんやろか?

EMちゃん
 「贈与」は知ってたけど、「与贈」っていうのもあるのね。無償の愛ねぇ。

ESくん
 3パターンくらい切ってみたら? 味比べしてみようよ(笑) 何か、つい
でにバルトの「イディオリトミー」の考え方も合わせられそうじゃない。

  われわれが望んだのは、ある特殊な想像的なものの探求であった。つま
  り「共生」を(社会、ファランステール、家族、カップルといった)あ
  らゆる形態において考えるのではなく、共同生活が個人の自由を阻害し
  ないような、ごく限られた集団における「共生」をもっぱら探求しよう
  としたのである。ある宗教的モデル、とりわけアトス山のそれに着想を
  得るかたちで、われわれはこの想像的なものをイディオリトミーの幻想
  と名づけた。

 いったいこの「イディオリトミー」とは何なのか。

 ここでバルトがさらりと用いている「イディオリトミー(idiorrytmie)」
とは、ギリシア語の「イディオス(特殊な、自分の)」と「リュトモス(流
れ、リズム)」からなる合成語である。その原義が示唆するように、これは
「自分のリズム」、さらにそこから転じて「理想的なリズム」を意味する。
ただし、これはもっぱら後述する宗教的な含意のもとで用いられる言葉であ
り、本来それ以外の場面で目にすることはほとんどない。(略)
 そのラカリエールの本に登場する「イディオリトミー」という言葉は、ギ
リシアのアトス山に存在する、ある特殊な生活形態を指している。いまな
お、東方正教会の中心地としてーあるいは世界遺産として、というべきかー
知られるこの山には、修道院に属しながら各々のリズムで生活する者たちの
共同体があるという。イディオリトミーとは、その修道士たちに許された
「理想的なリズム」のことなのであった。
 ラカリエール、およびそれに依拠するバルトによれば、このアトス山にお
ける修道士たちの生活は次のいずれかに二分される。すなわち一方には、食
事、典礼、作業のいっさいを共同で行なう、通常われわれが思い浮かべるタ
イプの修道院がある。そしてもう一方には、修道士たちが一人ひとり個室を
もち、それぞれ自由に食事をとるタイプの修道院がある。こちらが問題の
「イディオリトミックな」修道院である。ラカリエールによると、後者の
「奇妙な共同体においては、典礼でさえ、夜のミサを除けば各人の意志に委
ねられている」。修道士の生活として、これがきわめて破格なものであるこ
とは言うまでもないだろう。
 なぜバルトはこのアトスの修道院に関心を寄せたのか。それは、この「イ
ディオリトミックな」修道院が、孤独とも集団生活とも異なる「中間的な」
リズムを可能にする空間であるからだ。ここで生活を共にする修道士たちは
孤独ではないーなぜならそこには、目的を同じくする仲間たちがいるのだか
ら。なおかつ、かれらは共同での生活に疲弊することもないーなぜならそこ
では、典礼や作業をはじめとするいっさいの職務を、みずからのリズムで執
り行なうことができるのだから。つまりこの修道院は、各々が自分のリズム
を手放すことなく、しかし共に生きることのできる理想的な空間なのだ。こ
れらすべてをふまえつつ、バルトは「イディオリトミー」という言葉そのも
のを、「ユートピア的で、エデンの園のように牧歌的な」生の様態として定
義しなおすのである。(略)

  ここで問題としたいのは、<二人で生きること>でもなければ、<恋愛
  のディスクール>をー奇しくもー継承する<疑似ー夫婦のディスクール
  >でもありません。それは人生、食習慣、生活様式、つまりディアイー
  タ、養生法をめぐる幻想です。それは双数的でも、複数的(集団的)で
  もありません。それは何と言いましょうか、規則的に宙吊りにされる孤
  独のようなものであり、たがいの距離を分かちあうという逆説、矛盾、
  アポリアーつまり、距離の社会主義というユートピアなのです。

 カップルのように「双数的」でも、グループのように「複数的」でもな
い、日常的な生活様式にかかわる幻想ーバルトはそれを「養生法をめぐる幻
想」とよんでいる。録音によると、バルトはギリシア語の「ディアイータ」
という単語にさしかかったところでこれを板書し、フランス語にはこれを厳
密に対応する言葉がないのです、とコメントしている。ちなみに、ここで暫
定的に用いられている養生法とは、英語で言うところの「ダイエット」、す
なわち食生活のことである。

 さきほども話題にしたように、バルトの講義は、ともすると秩序を欠いた
無軌道なものにも見えかねない。しかし、それは明らかに意図された放縦で
ある。バルトの問いは終始一貫している。それは「極端な孤独感」と「極端
な一体感」のどちらにも振り切れることなく、その両極のあいだにどうやっ
て理想的な生を見いだすことができるのか、という問いである。なおかつそ
れが脱中心的なかたちをとるべきことにも、バルトは同じく注意をうながし
ている。いっけん直線的な指針を欠いているかに見える講義の軌跡は、あく
までそれを実践したものにすぎないということだ。
 「いかにして共に生きるか」ー何らかの理由でこの問いに逢着した人々
は、しばしばバルトの講義録から「イディオリトミー」という概念のみを取
り出し、それを融通無碍に用いることで思索を止めてしまう。しかし、真の
問題はむしろその先にあるはずだ。一でもなければ多でもない、その中間的
な領域に目を凝らすこと。われわれの生がつねに共生の一形態である以上、
いかにして共に生きるかという問いへの答えは、つまるところ具体的な実践
のなかにしかない。ディアイータ、すなわち日常的な生活様式をめぐる思索
を、けっしてやめないこと。われわれがバルトの講義録から引き出すべき
は、まさにこうした「日常的なもの」をめぐる詩学であるはずだ。

『食客論』星野太

EMちゃん
 あらあらこれは準備万端。この箇所をいつか出そうと用意してたのバレバレよ。

網口渓太
 いかにもESくんが好きそうな内容だ(笑) でも、いい感じに交わったんじゃない。この続きもさらに意味がつながっていくはずだよ。ぼちぼち出来たかな。一旦お昼を食べて休憩してから、この続きをガッツリとやろうか。この調子だと今日も長くなるね。

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