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『我が家の新しい読書論』9-1

ESくん
 もう半分ちょうだい。

EMちゃん
 ちょっと止めてよ、『もう半分』なんて。昔パパが話してた落語の怪談話
を思い出すから。

網口渓太
 また渋いなぁ。お金をとってしまった夫婦のあいだに生まれた子どもの顔が、お金をとられて川に身投げをしたおじいさんにそっくりだったていう話しだよね。 

ESくん
 うわ、こっわ。じゃあ、三分の一!

 そして何といっても「もう半分」。この台詞がなぜ怖いのか。うまく表現
できないのだが、まず、この世界の本質的部分に「半分」があるような気が
する。われわれは、「男ー女」のいずれかであるし、「生物ー無生物」のい
ずれかだ。それに、「生と死」の「生」の側に、この世にいるものはつねに
存在している。
 この世界の基底にある「二項対立」の片側に、どんな存在もいる。われわ
れは、いつも「半分」の存在であり、「片割れ」なのだ。「半分」は、森羅
万象の本質にくいこんでいる。だから、「もう半分」といわれると、光の届
かない闇から、秘密(<本当のこと>)をささやかれているような気がする
のではないか。
 それに、もう一つは、何といっても「半分」のもつ未完成観だろう。「も
う半分」がつづく限り、未来永劫、何かが終わることはない。「もう半分」
「もう半分」といつまでたっても、「一杯」になることなくつづく。「半分」欠如したまま、ずっと。
 だから、こうして生まれてしまったこの赤ん坊は、いつまでたっても、い
いつづける。「もう半分」

『落語哲学』中村昇

網口渓太
 おじいさんは八百屋で、忘れたお金はニ十歳になる娘さんが、吉原に身を
売ってまで稼いだお金だったんだよね。それは、化けて出ても仕方がないよ。

EMちゃん
 そうよ、ワタシのサラミピザも、ワタシが稼いだお金で買ってるんだから、化けて出るわよ。

ESくん
 こっわ。じゃあ、梅が入ったおにぎりと交換ってのはどうよ?

EMちゃん
 その交換条件なら、辛うじてゆるす!

網口渓太
 無事邂逅したね(笑) ふたりのやりとり観てるといつも、グレゴリー・ベ
イトソンが書いてた『ナヴェン』を思い出すんだよな。

 ベイトソンは、イアトムルの人々の日常的なコミュニケーションを観察し、そこに「分裂生成(スキズモジェネシス)という概念を考えた。分裂生成とは、人間の関係性において、一方の行為が他方の行為を増幅するきっかけとなると、両者のあいだの分裂が肥大化し、最終的に集団が成立しなくなるという考え方だ。
 ベイトソンは分裂生成の機序を、「対称的」と「相補的」の二つの型に分
類した。たとえば、争い合う男同士がいて、両者が同じ社会階層にあり、その関係性が対称的だと、両者の力が均衡するほど対立が激化するか、定常化し、この場合は対称的な分裂生成となる。
 他方で、親子関係や、支配者と被支配者、男女関係というように、社会的
に非対称な関係性がある。この両者の非対称性が強化されていくのが相補的
な分裂生成である。たとえば、支配者が高圧的な態度を取り、被支配者がそ
れに従う姿を見せれば、支配者はさらに抑圧的に振る舞い、被支配者はさら
に従順になる。
 ベイトソンは同時に、日常的な分裂生成によって深まる対立関係をリセッ
トする働きを、ナヴェンという祝祭の中に見てとった。ナヴェンの儀式は、
集団内のこどもがはじめて文化的に達成を果たした時に行われる。たとえば、こどもがはじめて魚を釣った時や、はじめて狩りで動物を殺した時などが文化的な達成とみなされる。この時に、母の兄弟や、それに近しい親族の男性が「ワウ」という役割を演じ、当のこどもは「ラウア」という役を与えられた。
 ワウとは「姉妹の兄弟」という意味で、男性がこどもの母親を演じる。ラ
ウアは「姉妹のこども」という意味で、こどもが自分の父親の役割を演じる。だから、ワウ役を務める母の兄弟は、ラウア役のこどもに向かって「おお、私の夫よ!」と呼びかけながらも、女ものの衣服を身に纏い、女性を馬鹿にしたような滑稽な行動を取って、ラウアを困惑させる。そうやってナヴェンが始まると、周囲の女性たちは逆に男性に仮装し、威張り散らしたり力を誇示したりするパフォーマンスを行い、膨張された男性のイメージを演じ続ける。
 ベイトソンは、こどもの成長という特殊なイベントを起点にして発生する
ナヴェンの祝祭が、日常で進行する男女間の分裂生成にブレーキをかけ、集
団内の対立構造を中和する作用があると考えた。ラウア役のこどもは一時的
にせよ父親役になることで、母親との親子関係という相補的分裂生成から脱
する。また、ワウ役の男は義兄弟の妻に成り代わることで、兄弟間の対称的
分裂生成から脱する。
 ベイトソンは分裂生成の構造を悪循環と表現しているが、彼にすれば互い
の立場を滑稽に表象して相対化するナヴェンは、まさに社会的な悪循環を克
服するために生み出された具体的な技法であった。これはこどもと親、兄弟
の間で、いわば互いの環世界を交換する様式だといえる。このことは、言語
的相対論の見地から表現の相互浸透の問題を考える上でも示唆に富んでいる。ナヴェンはイアトムル族に固有の特殊な文化様式ではあるが、根底に流れる分裂生成とその克服というテーマは、あらゆる社会的な関係性に見て取れるからだ。
 実際に日々の暮らしのなかでも、ナヴェン的な「互いの相違を浮き彫りに
する」所作によって、夫婦間や親子間の喧嘩などの分裂生成が食い止められ
る経験は誰しもあるのではないだろうか。特に、ニューギニアにおいてこど
もの成長がナヴェンの開催を引き起こすトリガーになっているのは興味深い。
 たとえば夫婦が喧嘩していて、そこに幼いこどもが現れておどけたり、も
しくは泣いたりして、夫婦のあいだの意地の張り合いが解消し、こわばった
表情が思わず綻ぶというシーンは、現実でもよく見られる。第三者の視点の
挿入によって対立関係が浮揚され、ふと当事者同士のあいだに互いの気持ち
に寄り添う余白が生じる。このとき対立の当事者たちは、両者をつなぐ関係
性そのものがまるでひとつの生き物のように、軟化と硬化を繰り返したり、
伸び縮みしたりしていると気づく。

『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』ドミニク・チェン

 このナヴェンの話しは、前回の(→8-1)の千葉さんの『意味がない無意
味』のギャル男の話しの引用ともとても通じていて、面白いよ。やっぱり、
意味がある無意味だけでは真面目過ぎてしまって“殺伐”としてしまうから、
意味がない無意味を挟んでユーモアで解放するようなバランスが必要なん
だろうね。社会も世間も、管理で窮屈になるほど“殺伐”とした空気が漂う
よね。ふたりは、梅おにぎりのおかげで解消したみたいだけど(笑)

EMちゃん
 完璧にサラミの気分なのに分けてあげるんだから、愛よ愛。感謝なさい。

ESくん
 心して頂戴してまーす。うまい!

網口渓太
 ハハ! 半分ずつに分けられたピザとおにぎりが乗ったお皿が2枚向か
い合ってる。梅干しは、梅好きのEMちゃんの方に全部渡ったみたいね。

ESくん
 愛ですよ愛。ごっこでも家族でありたいじゃないですか。

網口渓太
 むしろ粋? じゃあやっぱり、『いきの哲学』の九鬼周造を読んでおかないとね。

 知られるように、九鬼は、「いき」という日本に特殊な美意識を論じる
さいに、「媚態」「意気地」「諦め」という三つの契機を取り出した。こ
こではそれを詳しく見ていく余裕はないが、九鬼が「いき」の特徴として、
その「二元性」を強調していたことは、ここであらためて想起されてよい。
つまり「媚態」にしても「意気地」にしても「諦め」にしても、九鬼がそ
こで伝えようとしていた「いき」のエッセンスとは、相互に無関係な「独
立なる二元」が生きずりの関係を結ぶ、という緊張感をともなった邂逅に
こそあった。従前の言葉づかいを踏襲しつつこれを敷衍すれば、「媚態」
は我と汝を「完全なる合同」から遠ざけ、まずはその「二元的可能性」を
確保する。次いで「意気地」は我と汝のあいだにささやかな抵抗の契機を
加味し、同じくこれが「完全なる合同」に至ることを阻止するだろう。さ
らに最後の「諦め」は、ほとんど「無関心」と同義であり、これが「媚態」
と「意気地」に「すっきりとした垢抜けした心」を付与する。そうして、
「いき」は「安価なる現実の提立を無視し、実生活に大胆なる括弧を施し、
超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯を
している」。
 九鬼は、この最後の「諦め」について語るとき、しばしば「運命」なる
ものに話題をむける。その論じかたはおおむね一様で、そこではほぼ例外
なく、おのれの「運命」に対する諦めの境地が考えられていると言ってよ
い。『「いき」の構造』における「諦め」とは、ほかでもなくおのれの
「運命」に対する諦めなのだ。
 この「運命」という主題は、ここまでわれわれが論じてきた一連の偶然
論にも、当然のことながら姿をのぞかせる。そこで九鬼が掲示する「運命」
観に、じつはそこまで特殊なところはない。われわれはみな、大なり小な
り、おのれの運命を左右するような出来事に遭遇することがある。それは、
みずからの意志によってはどうすることもできなかった出来事である。で
あれば、それを前にしてわれわれがなし得ることは、それをあたかもおの
れが意志したものとみなすこと、これである。

『食客論』星野太

ESくん
 なるほど、『もう半分』のおじいさんは運命を「諦め」られなかったか
ら、この世の未練から成仏できず、夫婦の赤ちゃんに同化してしまったん
だろうね。なんか、いろいろ考えさせられるな。

EMちゃん
 それもまた運命って感じね。

網口渓太
 ふたりが食べてるの観てたらすごく腹が減ってきた。デザートもあるしハンバーガー屋いかない?

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