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花村萬月|御神木が哭いていた。  【エッセイ】新刊『姫』に寄せて

花村萬月|御神木が哭いていた。

 御神木がいていた―某小説家の某作品の冒頭部分だ。自分が小説家になるなどとは思ってもいなかったころだった。御神木とそれに附随するあれこれがどうなっていくのかを念頭に頁を繰った。けれど冒頭以降、御神木なんて一切無関係で、四分の三ほど読んでカンフーの達人である主人公が万全の設備を誇る最新のキャンピングカーの中でクリストファー・クロス(昭和ですね)の曲を聴きながら服を着替えるという御神木云々うんぬんとはあまりにかけ離れた場違いな場面で、ついに耐えきれなくなって本を閉じた。

 御神木が哭いていた―という冒頭が、小説家を生業なりわいとするようになっても脳裏にこびりついていた。いつしか冒頭に『御神木が哭いていた』という一文をおいて一作書いてやるという野望? を抱くようになった。

 御神木が哭いていた―という導入部が数十年を経ても頭にこびりついて離れなかったのは、それが私にある鮮やかなヴィジョンを見せていたからだ。私の頭のなかでは、ずっと御神木が哭いていた。いつしか御神木をぎ倒すほどの途轍もない嵐と、それに附随するたおやかな姫の姿が自在に動きだした。人智を超越し、御神木=神を禍々まがまがしきものに変えるほどの力を持つ存在である姫と、最底辺で足掻あがく男たちの物語が、吸血鬼伝説に絡めて鮮やかに立ち昇ってきたのだ。

 御神木が哭いていた―せいで、担当編集者のTが青森は戸来村へらいむら、雨中の迷ヶ平まよがたいまで取材に行かされ、土産みやげに戸来村のTシャツまで買わされた。もちろん私自身が契利斯督キリストの墓にまで出向いて取材を重ねたかったのだが、私はある病で免疫を喪失していたので旅行はおろか自室から出ることさえ許されず、幽閉身分のままベッドに横たわり、この宇宙の始原からを描き出す壮大なる虚構に専念した(させられた)。

 御神木が哭いていた―のではない。泣いていたのは外界と遮断されていたこの私だった。そのおかげで、この無窮むきゅうの時を描く作品ができあがったのだが―。

《小説宝石 2022年7月号掲載》


▽『姫』あらすじ

信長絶頂期。離島に巨大南蛮船が漂着。中には無数の棺、そして一人の赤子が。島の網元・利兵衞によって「姫」と名付けられたその赤子は人外の存在で、たちまち美しく育つ。彼女はいったい何者なのか? 史実と伝説が織りなす狂瀾の戦国活劇、開幕!

▽著者プロフィール

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年、東京都生まれ。’89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。’98年「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞を受賞するなど、話題作多数。


▽『小説宝石』新刊エッセイとは


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