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「モルグ街の殺人」|新保博久⇔法月綸太郎【新連載 第1回】死体置場で待ち合わせ

SNSが社会に浸透し情報の広がり方が激変した現代、ミステリーの読まれ方もまた、大きく変化している。
そこでは評価が定着している名作も最新作もあくまでフラットに横並び。
新たな読者が日々、古典と言われる作品を「新発見」しているのだ。
そんな時代だからこそ、手練てだれの本読みが彼らに語るべきことがあるはず。
ご登場いただくのは、博覧強記のミステリー評論家「シンポ教授」こと新保博久氏と、ミステリーの実作者でありつつ幅広い評論活動も行う法月綸太郎氏のお二人。
なんと公開往復書簡で縦横無尽に語り合う新企画です。
ただそこは手紙形式のこと、話が脱線し元に戻れないことがあってもお許しください。

エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」

「モルグ街の殺人」は古典とも言える翻訳だけでなく、新訳も刊行され続けている。

* * *

【読者への公開状】
(エラリー・クイーンふうに)
新保博久

 よく言われるようにドストエフスキーはすぐれた探偵小説家でもあるとして、水村みずむら美苗みなえ氏は「ふつうの探偵小説とちがって、なぜ『カラマーゾフの兄弟』は再読再々読が可能なのか」と自問自答し、自分なりの回答へと話を進めたことがある。

 あ、『カラマーゾフの兄弟』の話をいま私はしたいわけではない。水村氏の意見がどういうものかは、つじ邦生くにお氏との往復書簡形式の文学談義エッセイ『手紙、栞を添えて』(一九九八年。現・ちくま文庫)を見ていただこう。

 探偵小説――推理小説やミステリあるいはミステリーといった呼称の使い分けにも、話者や時代によって微妙な(あるいは大きな)差異があるのだが、全部ほぼ同義語であるとして、とりあえず当面は推理小説に統一しておくことにしたい。その推理小説は、犯人の正体やトリックの種明かしを知ったら、再読してもつまらないという〝俗信〟がある。運悪く、読む前にそれを教えてしまわれる場合もあり、だから、いわゆるネタバレ(ネタバラシとかネタ割りというべきだが、これも普及してしまった言い方をしておく)行為が袋だたきにうのだろう。

 再読に耐えないとかネタバレ御法度ごはっととか、それもこれも、推理小説は最初にだまされた快感が大きすぎるからにほかならない。確かに、ファースト・サプライズをしのぐほどの快感は再読では得にくかろう。だが意外性は推理小説の大きな魅力の一つとはいえ、すべてではない。作者がどううまく(あるいは、うまくなく)手がかりを隠し込んでいるか検証するといった技術的興味、また初読のさい犯人は誰か、どうやって密室を脱出したかなどに気を取られて読み過ごしていた細部を発見するのも再読ならではの楽しみである。

 たとえばガストン・ルルー『黄色い部屋の謎』で深夜、犯人を待ち伏せするのにルレタビーユ探偵と相棒とがそれぞれ持ち場につく前に別れのキスをするのは、そこをカットしている訳本が多かったせいもあるが、私も何度目かに読み返すまで気がつかなかった。フランスでは同性同士〝特別な関係〟でなくともキスするのは普通のことらしいが、日本の読者が変に気を回さないよう、ぼかして訳す場合も多いようだ。

 再読してもたいがい面白く読めるのにあずかって最も力があるのは、読み手の忘却力だろう。せんだってもレイモンド・チャンドラーの『長い(お)別れ』を再読したが(たぶん二度目。三度四度と読み返すのが珍しくない私には二度は少ないほうに属する)、覚えていたのは冒頭と結末だけで、中盤で誰が誰を殺すのか、きれいさっぱり忘れていた。とくに三十歳を過ぎてから初めて読んだ作品は忘れやすい。

 推理小説に限らなくとも、ウェブスターの『あしながおじさん』の正体など軽い意外性が仕掛けられている(丸わかりと言えば言える)が、正体を知ったうえで繰り返し愛読しているファンも少なくないだろう。要は、ジャンルを問わず再読に耐えない本は初読にも耐えないし、推理小説に限っては、ジャンル読者には初読時が面白すぎるというにすぎない。

 最初に引いた水村美苗氏のような意見が出てくるのは、氏が推理小説をあまりお好きでない、むしろ嫌いだからではないか(別に構わないのだが)。辻邦生氏との往復読書エッセイは朝日新聞に毎週、交互に執筆されたとき読んでいたが、今回参考にしたくて改めて通読したところ先の一節が目にとまった次第。辻邦生氏のほうは推理小説にも関心があったようだが、この連載では言及されなかった。それもあって私は、『手紙、栞を添えて』のような往復書簡形式のスタイルでのミステリ談義も欲しい、ないなら自分で作ってしまおうかと思ってきた。私自身は格不足としても、実作者であると同時に、卓越した読書家で評論書も多い法月のりづき綸太郎りんたろう氏にお相手をお願いできれば、けっこう実のあるものになりそうだ。思い立ったとき法月さんにはご快諾いただけたものの、発表媒体の手配がつかず頓挫とんざして早、二十年がつ。

 だが今、SNSなどが普及してきたこともあって、シャーロック・ホームズや、クリスティの『オリエント急行の殺人』だの『そして誰もいなくなった』だの、江戸川えどがわ乱歩らんぽ横溝よこみぞ正史せいしに関心をいだいて誰かと話をしたいという若者(に限らないが)も増えてきたと実感している。読書会のような企画があちこちで催されているらしいのも、新たな読者が常に育ってくると同時に、お互いに呼びかけやすくなった昨今、不思議はない。ロートル読者としては、こんな読み方をしてきたんだとお話しするのも、新しい読者に何かしら参考になるかもしれないという想いは日増しに強くなっている。

 機が熟してきたようなので始めましょうか、あくび指南でも。ネタバレは極力やらないつもりなので、皆さんもよろしくお付き合いください。

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【第一信】
新保博久 →法月綸太郎
「モルグ街の殺人」誕生の謎


拝啓 法月綸太郎さま

 一両日中にも、今年度の本格ミステリ大賞が決まるでしょうが、結果の速報はまだ耳に届いていません。評論・研究部門に『法月綸太郎ミステリー塾 怒濤編 フェアプレイの向こう側』(二〇二一年、講談社)がノミネートされていて、その当落を知ってからお手紙しようとも考えたのですが、テンプレート式に「おめでとうございます」とか「残念でした」とか申し上げるのは、物書きのはしくれだけにこっぱずかしい。テンプレでない気のいた言い回しを生むのもひと苦労なので、結果を聞かないうちに第一信を差し上げることにしました。

 しかし、この連載を思いつくヒントになった『手紙、栞を添えて』の毎回の書き出しを猿真似したかのようですね。一行目を思案せずに済むので、これは日本モノグサ協会から推奨されそうな書き出しですが、今回限りにします。だいたい猿真似といえば「モル……いえ、何でもありません。これは、法月さん以外にも読んでいただきたい公開書簡オープンレターでした。

 さて、世界最初の推理小説が「モルグ街の殺人」(一八四一年)だと私が教えられたのは小学五年のとき、子供向きのリライト本によってでした。教科書に書かれていることは素直に信じ込むよう訓練されていた(でなければテストで良い点が取れないので。そういえばたまたま、同じエドガー・アラン・ポーの「こがね虫」が五年の国語教科書に載っていたものです)せいか、「モルグ街」が起源だということを疑いもしなかったのです。むしろ、長じて江戸川乱歩らの評論を読むにつれ、それが定説だと、ますます強固に刷り込まれてきました。

 たとえば、都筑つづき道夫みちおミステリー論集『死体を無事に消すまで』(一九七三年、晶文社)には、都筑氏が百科事典に書いた「推理小説」の項目が再録されていて、「それ(「モルグ街の殺人」)より古く起源をもとめる論者もいるし、犯罪を主題にした小説がそれ以前にあったことも事実だが、意識的に犯罪事件の論理による分析的解決をあつかったのは、ポーが最初だから、この定説はみとめてよいだろう」と述べられています。

 しかしそれから多少知恵がつくと、先人の意見を鵜呑うのみにしているばかりでいいのか、などと考えはじめるわけですね。「ポーが最初だから」と、どうして断定できるのか、まず気になります。推理小説の母胎ぼたいは、十八世紀からのゴシック・ロマンスである(らしい)のですが、「(ホレス・ウォルポールの)『オトラントの城』がゴシック・ロマンスの元祖と称されるのは(一つには)、この奇想天外な怪奇たんを、作者が第二版の序文で『ゴシック物語ストーリー』と呼んでいるから」(風間かざま賢二けんじ『怪異猟奇ミステリー全史』、二〇二二年、新潮選書)なんだそうです(また鵜呑みにしている)。このように著者が宣言してくれていれば話が早いのですが、ポーが「モルグ街の殺人」を自身の編集する「グレイアムズ・マガジン」に発表したとき、「いまここに推理小説という新たなジャンルが誕生した」と主張するはずはない。デュパン登場の第三作「盗まれた手紙」(一八四五年)の掲載に先立って知人にあてた手紙で「私の推論物語(the tales of ratiocination)としておそらくいちばんの出来」と称していたのは、もちろん探偵小説とも推理小説とも用語のない時代だったからでしょう。

 さらに、こんな意見もあります。「ポーは『モルグ街の殺人』に始まる一連の推理小説に名探偵デュパンを登場させ、シリーズ化することによってジャンルとして確立し、一種のスター・システムを作りました。」「ポー以前にも、いまから見れば推理小説だといえないこともない作品はいくつかあるのですが、やはりデュパンという名探偵の創造こそが、推理小説誕生の瞬間でしょう」(たつみ孝之たかゆき『NHK 100分de名著「エドガー・アラン・ポー スペシャル」』二〇二二年三月)

 とくに異を立てる必要もないのですが、これを文字どおりに受け取ると、デュパン再登場の「マリー・ロジェの謎」(一八四二~四三年)が発表されて、遡行そこう的に「モルグ街の殺人」は世界最初の推理小説の地位を固めたということになります。私が考えるに、むしろ「マリー・ロジェの謎」こそ真にポーが世に問いたかった作品で、「モルグ街」はそのための捨て石にすぎなかったのではないでしょうか。

 作者が自分で考えだした謎を自作で探偵に解かせても、そういう小説に初めて接する読者が感銘してくれるとは限りません。そんな絵空事よりも、現実に起こっている未解決事件の真相を作家が言い当てたほうが、はるかに感心してもらえたでしょう。現実に存在する謎よりも、作者が頭でねあげた謎が解かれるほうが面白いと読者が認識してくれるには、推理小説というジャンル(名称は何にせよ)が成熟するまで待たねばなりませんでした。

 はっきりした根拠があるわけでなく、まあ私の妄想としてお聞きください。ポーは新たな文芸ジャンルを創造しようという抱負があったわけではなく、ジャーナリストでもあっただけに、自作の登場人物に現実事件を解決させれば話題となり、売り上げにも貢献すると考えた。もちろんポー自身が探偵役を務めてもいいのですが、まだ有罪を宣告されてもいない実在人物を真犯人だと名指しするのはまずい。またポー自身、何か現実事件の真相を言い当てた実績があるわけでもありません。チャールズ・ディケンズの大長編『バーナビー・ラッジ』(一八四一年。邦訳は集英社刊愛蔵版世界文学全集第十五巻)において、挿話的な推理小説的部分について連載中に種明かしされるのに先んじてポーが推理を発表し、オレはこんなに鋭いんだぞとプロパガンダしたことはありましたが。

 そこで、分析能力にけた人物をまず小説中に創造し、架空の事件を鮮やかに解かせて、彼が名探偵であると読者に認知させておく。モルグ街をパリに設定しておいたのも、自国アメリカの事件をそのまま扱うのでなく、酷似こくじした事件がの地で起こったことにする便法だったのではないでしょうか。モルグ街の犯人には身を隠していなければならない意識はなかったはずなのに、デュパンが正体をあばくまで、まったく目撃情報が寄せられていないのも、考えてみればいい加減な話です。

「モルグ街の殺人」という一編は、語り手が心の中で考えていただけの話題にデュパンがいきなり合いの手を入れ、友人の沈思を読む分析能力の持ち主だと証明する前半と、殺人事件の報道とその解明をつづる後半とに分かれていますが、前半と後半はこの組み合わせなければいけない理由はとくにない。デュパンが分析の達人であると読者に得心させる理論編が前半、それを応用した実践編が後半だと見ることもできるでしょう。そしてこの関係は、前半後半を合わせた「モルグ街の殺人」全体と、「マリー・ロジェの謎」との関係にも比定されると思うのです。モルグ街事件を解きえたデュパンだから、マリー・ロジェ事件――というか、そのモデルになったメアリー・ロジャーズ事件にも真相を看破できたのだ、と主張するかのように。

 デュパン(すなわちポー)の推理の誤謬ごびゅう糊塗ことするために、「マリー・ロジェの謎」連載中や単行本化に際して、ポーがどれほど姑息こそくに筆を入れていったか、ジョン・ウォルシュの『名探偵ポオ氏』(一九六八年原刊、邦訳は草思社)は容赦なく明らかにしていて、これも面白い本でした。私が「マリー・ロジェ」を本命とする説で困るのは、メアリー・ロジャーズの遺体が発見された一八四一年七月より早く、同年四月号に「モルグ街」が発表されていることです。そのときポーは、メアリー・ロジャーズ事件でない何か別な迷宮入り事件をデュパンに解かせるつもりでいた(それがどういう事件だったのか、当時の米紙でも精査しなければ見当もつきませんが)ものの、メアリー・ロジャーズのほうがホットだし、うまく解けそうな自信があったので乗り替えた(結果的に失敗したものの)、と考えることで辻褄つじつまを合わせています。

 要点のみにて舌足らずになった気もしますが、どんなものでしょう。ご意見を伺えれば幸いです。

二〇二二年五月十二日

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【第二信】
法月綸太郎→新保博久
誰がメアリー・ロジャーズを殺そうとかまうものか


拝復 新保しんぽ博久ひろひささま

 第22回本格ミステリ大賞の開票式は十三日の金曜日で、評論・研究部門は小森こもりおさむ編『短編ミステリの二百年1~6』(創元推理文庫)が受賞しました。自分のことはさておいて、納得の行く結果だったと思います。というか、四月に行われた第75回日本推理作家協会賞の選考会で、私も選考委員として同書を称揚しょうようし、満場一致で評論・研究部門の受賞作に決まったわけですから、「自分の本が落選して残念です」というのはお門違かどちがいでしょう。

 ディテクションの小説とクライムストーリイの主導権争いを軸に、倒叙とうじょミステリやシリーズキャラクターの問題を掘り下げていく小森氏の労作については、いずれこの連載でも話題にのぼりそうな予感がします。ちなみに「小森史観」を読み解くポイントは「都市の治安」にあるのではないか、と私はにらんでいるのですが……。

 いや、のっけから話が脱線しました。本題に入りましょう。

 新保さんからの問いかけを受けて、さっそくポーの再読を始めました。時節柄、こういうふうに書くと冷やし中華みたいですね。ピンポイントの拾い読みではなく、じっくり腰をえて頭から精読するのは久しぶりで、「モルグ街」の犯人が凶器の剃刀かみそりを所持していた理由(××似)とか、誤認逮捕される銀行員の名前がル・ボン(Le Bon:フランス語で「善人」の意)だったことなど、すっかり忘れていました。

「善人」といえば、「おまえが犯人だ」のグッドフェロウ氏もその仲間です。三月に出たばかりの『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』(河合かわい祥一郎しょういちろう訳、角川文庫)に収録された同作の新訳は、ミステリファンなら必読(再読必至)ですね。今まで謎だった語り手の正体には、目からうろこが落ちました。なるほど、そういう解釈もありかと膝を打ったのですが、これ、英米では定説なんでしょうか?

 おっと、また話がそれてしまった。あらためて本題に戻りましょう。

 新保さんの〈本命は「マリー・ロジェの謎」で、「モルグ街の殺人」は捨て石にすぎなかった〉説は、往年の連城れんじょう三紀彦みきひこさながらのどんでん返しでした。「モルグ街」が前半の理論編で「マリー・ロジェ」が後半の実践編、という入れ子の見立てもスリリングで、こういう俯瞰ふかんした視点が出てくるのが古典再読の醍醐味だいごみでしょう。

 とはいえ、新保さんも認めるように、現実のメアリー・ロジャーズ事件が「モルグ街」の発表より後だった、という史実はいかんともしがたい。迷宮入り事件の乗り替え説をらなければ、ポー自身が自作自演でメアリー・ロジャーズを殺したと考えるほかありません(それだと本当に、連城ミステリになってしまいますが)。

 乗り替え説を採用しても、疑問は残ります。仮にポーがメアリー・ロジャーズ事件を正しく解決していたとしたら、その後どうなっていたか? 読者はさらなるデュパンの名推理=現実の難事件の解決を望んだでしょう。「もはや絵空事の謎では、読者の要求は満たせまい。もっと難解で、耳目じもくを集める未解決事件を解き明かさなければ!」。目ざとい雑誌編集者で、読者の関心をきつけるコツをつかんでいたポーなら、きっとそう考えたはず。ところが「現実の謎」路線には、一つ大きな障害があるのです。

 少し話を戻しますが、今回「マリー・ロジェの謎」を再読して一番引っかかったのは、パリ在住のデュパンにニューヨークの事件を解決させるため、ポーがものすごく変な設定をこしらえている、ということでした。デュパンの友人である語り手は、数学の確率論に関する回りくどい前置きをしたうえで、次のように話を切り出します。

「今ぼくがここに公けにしようとしている異常な事件の詳細が、ほとんど理解を絶した一連の偶然の一致の、時間的順序から言えば第一の部分をなすものであり、その第二の部分、ないし最後の部分が、最近の、ニュー・ヨークにおけるメアリ・シシリア・ロジャーズ殺しであることは、あらゆる読者が認めるところであろう」(丸谷まるや才一さいいち訳)

 かいつまんで言うと、パリとニューヨークで酷似した二つの殺人事件が別々に起こり、デュパンがパリの事件を解決したけれど、その推理はニューヨークの事件にもほぼ当てはまるだろう。ただし両者がそっくりな経緯をたどるのは、「ほとんど理解を絶した一連の偶然の一致」にすぎない――無名の語り手(=ポー)は読者に向けてこう強弁し、それでも足りないというように「偶然の一致(暗合)」について滔々とうとうと自説を語るわけです。読んでいくうちに、こういう不自然な設定は気にならなくなりますが、新保さんの脳裏に「マリー・ロジェ」本命説が浮かんだのは、この「時間的順序」の転倒が呼び水になったからではないか、と推察します。

 もちろん「偶然の一致」云々うんぬんは、ポー一流の煙幕で、作者も読者もこの建前をに受けてはいなかったでしょう。後に単行本に収める際、冒頭に当時の経緯を説明する「ちゅう」が加えられたのも、あらぬ誤解を避けるためだったと考えられます。それにしても、単にニューヨークで起こった事件をパリに移し替えるだけなら、こんな面倒な手続きをるまでもない。現在の小説に慣れた私たちの目には、無用なノイズを増やしているようにしか見えません。しかし十九世紀半ばの雑誌編集者だったポーには、現実の事件をノベライズするため、そういう本末転倒したエクスキューズが必要だったようです。

 今はその問題に深入りしないことにして、話を先に進めましょう。「マリー・ロジェ」の推理が的をはずしていたせいで、ポーは「現実の謎」路線を放棄せざるをえなくなりましたが、仮にデュパンの推理が正しくてもやはり行き詰まっていた可能性が高い。「柳の下のドジョウ」を狙って、「マリー・ロジェ」方式でデュパンにアメリカの現実事件を解かせるとして、米仏でそっくりな事件が起こるという「偶然の一致」が繰り返されるだけでは、あまりにも不自然かつご都合主義的で、読者は冷めてしまうでしょうから。

 つまり「現実の謎」を相手にする限り、デュパンの推理が当たるかはずれるかは問題ではない。「マリー・ロジェ」方式だと、どっちに転んでもデュパンをシリーズ探偵として再起用することが困難になってしまうのです。新保さんの説では、作者がわざわざ自分の首を絞める設定をこしらえた理由がわからない。ポーほどの策士ならそれぐらいの予想はできたと思うのですが。

 路線変更の結果が「盗まれた手紙」だったのは、「現実に存在する謎よりも、作者が頭で捏ねあげた謎が解かれるほうが面白いと読者が認識してくれる」ためにはよかったのでしょう。「怪我けがの功名」というやつですね。ただし、その次の段落の「またポー自身、何か現実事件の真相を言い当てた実績があるわけでもありません」という一文には、異議を申し立てさせてください。

 いや、正確には「事件」ではないし「真相を言い当てた」わけでもありません。こう書けばもちろん、新保さんもおわかりでしょう。『バーナビー・ラッジ』の真相を看破したエッセイと同様に、ポーの「分析的知性」が発揮された「メルツェルの将棋指し」(一八三六年)のことです。推理のターゲットは、十八世紀のハンガリー貴族が発明したチェスを指す自動人形。ポーは先行資料を詳しく読み解いて、それが純粋な機械ではなく、チェス人形の中に人間が隠れていることを証明しました。「モルグ街」発表の五年前、ポー自身が探偵役を務め、「現実の謎」を解き明かした実例ですが、実際の人形の仕掛けはポーの推理通りではなかったことが後に判明――箇条書きの文体やポーの推理がまちがっていたことまで含めて、「マリー・ロジェ」の祖型というべき作品です。

 さて、早い時期から『バーナビー・ラッジ』評と「メルツェルの将棋指し」に注目していた評論家に、レジス・メサックがいます。原書刊行から九十年あまりを経て、昨年ついに完訳の出た伝説的大著『「探偵小説デイテクテイヴ・ノヴエル」の考古学』(一九二九年原刊、邦訳は国書刊行会)の著者ですね。恥ずかしながら、索引を含めて八百ページ・二段組というボリュームに恐れをなし、ずっと積ん読状態だったのですが、今回、往復書簡の参考になるかもと一念発起して、「第四部 モルグ街の謎」だけフライングで読んでみたという次第。

 メサックはフランス人なので、英米の論者とは異なった視点からポーの探偵小説を論じていて、いろいろ面白いところがある。プレ「モルグ街」として世評の高い「群集の人」にはほとんど関心を示さず、『バーナビー・ラッジ』評と「メルツェルの将棋指し」の分析に多くの筆をきながら、その論証の過程から見えてくるポーの技法の特徴について、メサックはこんなコメントを付しているのです。

「そこには、この種の物語の構成にほぼ付きものの不自然さや、ぺてんとすら言える部分まで見出される。ポーは、自分が持ち出すつもりの質問すべてに答えようとする。そうするために、彼は自分が答えられる質問しか用意しないように注意を払う」(「第三章 自然魔術ナチユラル・マジツク」、槙野まきの佳奈子かなこ訳)

 最後の文章は、「作者が自分で考えだした謎を自作で探偵に解かせても、[中略]読者が感銘してくれるとは限りません」というツッコミより、もっと痛いところをついている気がします。モルグ街の犯人の目撃情報がまったく寄せられないといういい加減さも、ポーがその質問に答えるつもりがなかったことの証拠ですし、こうした手口は分析的推理というより、詐欺師の用いるぺてんに近い。先述の『ポー傑作選2』には、ちょうどいい具合に「詐欺デイドリング――精密科学としての考察」というエッセイとも創作ともつかない短編が収録されていて、「マリー・ロジェ」と「盗まれた手紙」をつなぐミッシング・リンクのおもむきがあります。ですが、だいぶ話がとっちらかってきたうえに、紙数も尽きたようなので、いったんそちらにお返ししましょう。

二〇二二年五月二十五日

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【第三信】
新保博久→法月綸太郎
犯罪の女王のリアル

 
 ここで懺悔ざんげしなければなりません。

 二〇〇〇年代に入ったころ私は、「ミステリマガジン」に「ミステリ再入門」という連載を書いておりました。世界のミステリ全史を対象にするという、鯨を三枚に下ろすような真似は、もとより手に余ることなので、せめて対象期間だけでも二十世紀に限ったのですが、その一回を「モルグ街はなぜパリにあったのか」と題した記憶がありました。

 バックナンバーをあらためてみると、それは二〇〇二年十一月号、全五十回まで続くことになる第三十一回です。だいたい編年体で進めてきたのに、対象外だったはずの十九世紀の話題にいきなり戻ったのは、第二次世界大戦後のフランス・ミステリについて語る前振りでした。完結後に書籍化を打診されて、読み返したところその部分が唐突に思われ、そこをプロローグにして全体を組み立て直そうとか、身のほど知らずが考えるべきことではありませんね。眼高手低がんこうしゅていを痛感させられ企画そのものをうやむやにしてしまいました。観念して、ほとんど連載のまままとめてもらえばよかったと今さら感じます。未練らしく、連載のほかの回をごく一部『シンポ教授の生活とミステリー』(二〇二〇年、光文社文庫)に取り込んだりはしましたが。

「マリー・ロジェ」本命説も、書籍化に向けての改稿過程で考えついたことで未発表だと思い込んでいたのですが、「ミステリマガジン」掲載時すでに開陳していたのに気づきました。素人探偵が警察を出し抜く物語であるためには、まず警察制度そのものが整備されていなければならない。それが最も先進的だったのがフランスなので、ポーはよく知りもしないくせに舞台をパリに求めたのだという説がまかり通っていたものの、本当にそれだけが理由だったのか。この珍説もドヤ顔で連載時に提示したのに誰からも問題にされず、公表したという記憶を封印してきたのかもしれません。

 いただいたお返事のなかで、「ポー自身が自作自演でメアリー・ロジャーズを殺した」可能性を冗談まじりに示唆しさしておられますが、私も当時ちらと考えたことではありました。それは思考の遊びでしかないのですが、ご指摘を受けて、別な推理作家自身が実際に手を染めたかもしれない現実犯罪を、その旧連載で妄想したことを思い出したのです。その妄論を披瀝ひれきしたのは「ミステリ再入門」第十回「『ねずみとり』その他の推理劇」(二〇〇一年二月号)で、前号の「クリスティー失踪はミステリ史上の重大事件か」を受けたものでした。この原稿を書いたのは、アガサの失踪に手を貸した姉婿あねむこの妹ナン・ワッツの、娘の(ややこしい)ジュディス・ガードナーとその夫に取材したジャレッド・ケイド『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?』(早川書房)の邦訳から一年ほど経ってのことです。ケイド著に描き出されていたのは、若いゴルフ友だちのナンシー・ニールとねんごろになったアーチボルド・クリスティーに離婚を切り出されたアガサが精神的に追いつめられ、夫への面当つらあてに失踪の茶番を演じた姿にほかなりません。その〝真相〟が本当だとすれば、事実とは概して凡庸な、つまらないものだという私の持論にまた一つ裏づけを得られたぐらいです。

 評論家の身上はなるべく面白い誤解を提示することで、正解を言い当てるかどうかは二の次だと考えています。そこでもっと面白い〝真相〟を創ってみたくなったのですが、「ミステリマガジン」ではなさすぎたので、もう少し詳しく語り直してみますね。実在した故人の名誉をけがすわけにもいきませんから、今はメアリー・ロジャーズをマリー・ロジェに替えたポーにならって、ヒロインは井草いぐさクリスティーヌ(笑)という日系女性作家とでもしておきましょうか。

 夫を愛人の手から取り戻すには、愛人当人の息の根を止めてしまえばいい。ですが普通に殺したのでは自分が真っ先に疑われてしまうから、アリバイを用意したい。そのあいだ失踪したと見せかけてホテルに逼塞ひっそくしていたというのはどうか。行方ゆくえをくらますためと見せかけて、ホテルに閉じこもっていたとしてアリバイを成立させるのが目的でした。その前にクリスティーヌは、殺人者の手記でありながら、殺人行為だけは伏せておくという小説を発表して評判になっていましたが、それまで探偵側から描いてきた作品より、書いている作者自身、犯罪を犯しているような背徳的な快楽を覚えていたのかもしれません。

 もちろん殺人をしに出かけているあいだホテルには居られないので、陳腐な手ながら替え玉を用意する必要があります。これには失踪の茶番に協力を得た義姉妹が便利なのですが、うり二つでなくとも(失踪した身を隠すためという触れ込みなので、顔はあまり見せない)背格好さえ似ていればよい。とはいえ、失踪研究書の口絵第一ページにツーショットで載っている失踪当事者と義姉妹とでは入れ替わりは難しそうです。あとの人間関係は考えてないので、話を進めるために、ともかくアリバイ作りに誰か替え玉を立てたことにしましょう。事情を打ち明けないでも、偽りの口実で第三者を雇うのも無理ではないのですから。夫の愛人をこっそり呼び出したクリスティーヌは(夫をゆずるための相談をしたいと言えば、これは可能ですよね)、ここで愛人を殺害しても自分にはアリバイがあるから安全だと考えます。もちろん本当に殺すつもりはなく、話し合いは物別れに終わらせて愛人は帰しました。殺そうと思えば殺せたがゆるしてやった、という想いで我慢することにしたのです。

 こういう疑似殺人行為でおのが殺意を昇華させようとしたのが発端ほったんとなる小説が再文庫化されたのに、最近法月さんは解説をお書きになりましたよね。そうです、都筑道夫『猫の舌に釘をうて』(徳間文庫)にほかなりません。都筑作品では恋敵こいがたきへの殺意をなだめるために、なじみの喫茶店でよくう、顔の似た男を恋敵に見立て、自分が処方されていた風邪薬を毒薬のつもりで、そやつのコーヒー茶碗にこっそり入れたら、飲んだ相手が本当に死んでしまったというものでした。

 ところでその都筑氏は、すべてのミステリのルーツはほとんどポーに見いだされるというのが持論で、一九七一年七月の昔、東京都港区の港区民会館で開かれた三回連続の現代ミステリ講座の第二回講師(第一回は中島なかじま河太郎かわたろう、第三回は佐野さのようの両氏。日本編、海外編、実践編というようなテーマだったのでしょう)を務めたときの講演からも一端がうかがわれます。この講演は録音もなければ筆録が活字化されることもなく、まったく幻となっていたのが、これを学生時代、実際に聴いた松坂健まつざかけん氏が克明なメモをとっていて、たまたま発掘した五十年前のメモと記憶を合わせて原稿に再現した。松坂氏が昨二〇二一年十月に急逝する前にのこした仕事の一つとして、三門みかど優祐ゆうすけ氏の個人誌「Re-ClaM」六号(二〇二一年五月)に発表したものです。それによると――

「モルグ街」「マリー・ロジェ」「盗まれた手紙」のデュパン三部作はもとより、イアン・フレミングの007号シリーズの、主人公が敵の攻撃をかわしては反撃するパターンの連鎖も、原型はポーの「落とし穴と振り子」に求め得る。その説は、三一書房版の選集〈都筑道夫異色シリーズ〉(一九六八年)第二巻『なめくじに聞いてみろ』のあとがき(扶桑社文庫版にも再録)でも開陳されていましたが、エッセイ「メルツェルの将棋指し」も「文献から推理してゆくある種のアームチェア探偵もの」であり、さらに「『黒猫』や『裏切り心臓』は倒叙探偵小説の原型といえないこともない」と、つい最近まで考えたこともないことまで講演では指摘されていて新鮮でした(「黒猫」「裏切り心臓」を倒叙物と扱うのは私には異論があるのですが、これは後日の宿題としましょう)。

 なんだかお返事からどんどんれてしまいましたが、「『マリー・ロジェ』の推理が的をはずしていたせいで、ポーは『現実の謎』路線を放棄せざるをえなくなりましたが、仮にデュパンの推理が正しくてもやはり行き詰まっていた可能性が高い」というご指摘はそのとおりで、まさしく意表を突かれました。でもどうでしょう。無限軌道を走りつづけるシリーズ探偵というのは、おそらくシャーロック・ホームズが世界最初の成功例ですよね。そのホームズとても、当初コナン・ドイルは六編の読み切り連載ぐらいに考えていたところ人気爆発して、作者がやめるにやめられなくなったほどですが、そうした前例を知らないポーがデュパンを看板スターにして書きつづけようとしていたとは考えにくい。

 ポーは推理小説だけでなく、怪奇小説、冒険小説、SF、ブラックユーモア小説などでも元祖的存在と見なされているように、さまざまな作風に挑戦することを試みてきました。長期的な名探偵シリーズが莫大ばくだいな収入をもたらすとは予想できなかった時代、「マリー・ロジェ」で一発当てることだけが目的で、引き続きデュパンを活躍させるつもりはなかったのではないでしょうか。「盗まれた手紙」が、「マリー・ロジェ」のリベンジを果たす傑作を書こうとして、狙いたがわず生まれた傑作なのか、解決役が必要なアイデアを思いついて、デュパンがいるじゃないかと復活させたのか、今となっては分かりません。「盗まれた手紙」が書かれただろう一八四四年から、四九年に急死するまで、デュパン物の第四作を生み出さなかったのは、すでに見限っていたのか、それとも前作に匹敵する新機軸のアイデアが浮かぶのを待っていたのか……。どこまでも謎の多い作家で、ポーについてはまだまだお話ししたいものです。

二〇二二年六月八日

《ジャーロ No.83 2022 JULY 掲載》


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