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世紀の新発見のあとのさらなる発見|森 英俊・Book Detective 【ディテクション76】

文=森 英俊

 ミステリの熱心な愛好家であればだれしも、お気に入りの作家の未発表原稿がどこかに眠っているのではないかという想像を抱いたことが、一度や二度はあるに違いない。あり得ないような話ではなく、近年では、江戸川乱歩えどがわらんぽ横溝正史よこみぞせいしの未発表原稿が研究者たちの手によって発掘されている。

 江戸川乱歩や横溝正史ほどの知名度はないものの、〈不思議小説〉と呼ばれる幻想怪奇ファンタジー系の短編で知られる三橋一夫みつはしかずおにも、十編近くもの未発表原稿があることが昨年、明らかになった。事の起こりは、2022年の4月2日から5月22日にかけて、神奈川近代文学館で開催された、春の特別展「生誕110年 吉田健一よしだけんいち展 文學ぶんがくたのしみ」で、同館が吉田健一のご遺族から受贈した膨大な資料のなかに、三橋一夫がらみのものも含まれていた。特別展にあわせて発行された図録のなかに、三橋一夫関連の項目もあり、そこには「侯氏こうし」と題された未発表の草稿の冒頭部分も掲載されていた。

 終戦直後から総理大臣もつとめた大物政治家、吉田しげるの長男として生まれ、文芸評論家や翻訳家として名をはせた吉田健一は、三橋一夫のよき酒友であり、ミステリやSFにも目配りのきく吉田健一に、三橋は全幅の信頼を寄せていた。三橋が自身の草稿を吉田の手元に送ったのは、この信頼関係があればこそで、その数は十編にもおよんだ。そのうちの一編はのちに双葉社の大衆小説雑誌《大衆小説》に掲載され、さらにもう一編が全面改稿のうえ、同じく双葉社のミステリ雑誌《推理ストーリー》に発表されたものの、八編は未発表のまま残されていた。ほとんどだれもその存在を知らなかった、〈不思議小説〉系の未発表原稿がこれほど大量に出てきたのは、まさに世紀の新発見ともいうべき出来事で、神奈川近代文学館のご厚意で、それらすべてに目を通させてもらい、昨年末にその十編を『新ふしぎなふしぎな物語』(盛林堂ミステリアス文庫)として、一冊にまとめることができた。

 同書の解説を執筆した時点では把握できていなかったが、そのあと、三橋一夫の作品をめぐるさらなる発見があり、ここではそのことについて綴っていきたい。


 三橋一夫の数ある著書のなかで、吉田健一がその出版に尽力したものが一冊ある。森九又もりくまた名義で、1962年に垂水書房から刊行された『転々丸漂流記』なる自伝的ユーモア私小説で、《吉田健一著作集》を出していた自著の主力版元を紹介したばかりでなく、同書のカバーに短評を寄せ、讀賣新聞に連載していた大衆文学の時評に同書を取りあげるといったように、全面的にバックアップをしている。

 同書の表題は、三橋家が引っ越しをくり返していたことに由来しており、一家がその先々でさまざまな人々と出会い、いろいろな出来事(酒にからんだもの多し)に遭遇するさまが、面白おかしく描かれている。プロレスラーの力道山りきどうざんなど、実名で登場する人物もなくはないが、横溝正史が縦溝安史、吉田健一が吉浦義一といったぐあいに、著名人や文壇人の多くに変名が用いられており、いったいだれがだれのことを指しているのだろうかと、想像力や推理力を働かせながら読み進めていくのも楽しい。

 位置づけとしては、直木賞候補になった自伝的小説『天国は盃の中に』(1951)の系列につらなるもので、ヨーロッパ留学中の出来事を綴った『天国は盃の中に』のあとの、帰国して結婚し、長女が生まれてからの、貧しくも楽しい生活ぶりが活写されている。

 今回の新発見は、『新転々丸漂流記』と題された、この『転々丸漂流記』の続編にまつわるもので、よもやそのようなものが存在していようとは、想像だにしていなかった。というのも、掲載誌が〈学校管理職と中堅教師のための教育総合誌〉を謳った《総合教育技術》という、三橋一夫とはおよそ縁のなさそうな小学館の月刊誌だったからで、古書展で見かけたとしても、手にとってみることもなかったろう。1983年4月号から1984年3月号までの連載なので、執筆当時の作者の年齢は、七十代の半ば。森九又ではなく三橋一夫名義での連載で、〈ユカイ小説〉という角書つのがきがついてはいるものの、『転々丸漂流記』同様、三橋自身や家族の周辺で起きた出来事を記している。必ずしも『転々丸漂流記』以降にあったことが描かれているわけではなく、それ以前の出来事もあり、内容的に重複している部分もある。

 もっとも興味深いのは、「腕をたよりの巻」と題された、連載の十回目に当たる回。1950年代の半ばから1960年代の初めにかけての三橋一夫は、貸本小説の通称で呼ばれる貸本屋向けの通俗大衆小説を量産していたが、それらの仕事はあくまでも生活のための手段で、本人としては、誇れるような仕事ではなかった。そのため、まだ貸本小説を書き続けていた年に刊行された『転々丸漂流記』では、貸本という言葉すら使われず、「わたしの書いている冒険活劇小説が少しは売れるようになった」と、微妙な言い回しがなされている。

 それから二十年あまりの年月が流れ、ようやく気持ちのふんぎりがついたのか、はたまた自作をふりかえる余裕ができたのか、「腕をたよりの巻」では『転々丸漂流記』とは対照的に、自身の手がけた貸本小説に関わる、以下のようなエピソードが披露されている。

 貸本屋が流行しはじめたのは、三橋一家がちょうど自由が丘の借家に引っ越してきてからで、そこは駅から徒歩三十分ほどの、玄関の三畳と奥の六畳間だけの、畑のなかの三軒長屋の一軒だった。貸本屋の全国的増大にともなって、貸本屋向けの娯楽小説の需要も高まっており、三橋一夫のところにも、娯楽雑誌に執筆した短編を集めて一冊にしたいという話や、書き下ろし小説を書いてほしいという注文が持ちこまれるようになった。一冊の長編を一気に書き上げるのは骨が折れるものの、まとまった印税が入るという点では、ありがたい仕事だった。さっそく玄関の三畳間に机を置いて、張り切って書き下ろしの仕事に取りかかったところ、想定もしていなかった事態が起きる。冬の間は凍結し、上にゴミが積もっていたため気づかなかったが、三畳間の窓の下に肥溜こえだめがあり、春が近づくにつれ、それが異臭を放つようになったのだ。そのため、わずか三、四ヶ月で、三橋一家はまたもや引っ越すはめになった。運よく、未亡人の持ち家である田園調布の大邸宅の二階全部を貸してもらえることになり、引っ越しと同時に貸本屋向けの書き下ろし長編小説の注文が殺到したこともあり、三橋一夫は七年間にわたって、この貸間で執筆に明け暮れた。

 朝から晩まで書いているので、健康に悪いと考え、立って書く机をあつらえさせ、腰掛けて書く机、日本式に坐って書く机と、机を三つ並べて、それらを交互に使い分け、多いときには、一日に六十枚もの原稿を仕上げたという。

 連載の初回と第二回(いずれも表題なし)、「綱を切るの巻」と題された第四回に綴られている、小説家になる以前のエピソードもなかなかに興味深い。幼少時には、武道をたしなんでいた父親の聞かせてくれる鬼や化け物退治の話に夢中になり、小学生になってからは、叔父の家にあった立川文庫で、猿飛佐助さるとびさすけ霧隠才蔵きりがくれさいぞうの活躍に胸をときめかせた。それらの原体験はのちに、『坂田金時/土蜘蛛の巻』(山ノ手書房/1955)『猿飛江戸に現わる』(桃源社/1956)という、二冊の奇想天外な物語に結実する。探偵小説に初めてふれたのは、小学六年生のときで、H書店(博文館のことを指していると思われる)から続々と刊行される外国の探偵小説を読みふけったという。中学一年時には、クラスの友人たち四、五人で、同人雑誌を作ることになったが、そのなかのひとり、カットを描くのがとても上手だった少年が、のちに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の語り口で人気を集めた、映画評論家の淀川長治よどがわながはるだった。

 最初の小説とされる《三田文学》の1940年12月号掲載の「島底」を執筆したきっかけも本連載で初めて明かされるもので、詩集を出して評判になっていた慶應義塾大学ボート部時代の先輩の、「小説を書いてみせてくれ」というリクエストに応えてのものだったとか。ともあれ、〈不思議小説〉の範疇に入る、この「島底」が志賀直哉しがなおやの印象に残っていたことで、戦後その志賀直哉から執筆を勧められ、小説家として再出発することになるのだから、人生の転機をもたらすことになるエピソードといえるだろう。

 ふたたび話を「腕をたよりの巻」に戻すと、(東京オリンピックのあった年か、そのあとに)「地方の新聞社から、連載の注文がきた」という気になる記述がある。だとすると、これまでまったく存在の知られてこなかった長編小説が存在する可能性が高く、その探求を、今後の三橋一夫研究の課題としていきたい。

《ジャーロ No.87 2023 MARCH 掲載》



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