見出し画像

災害と犠牲――新海 誠『すずめの戸締まり』|笠井 潔・ポストコロナ文化論【第6回】

文=笠井 潔

 商業デビュー作『ほしのこえ』(二〇〇二年)から『ことの庭』(二〇一三年)まで、オタク系のマイナーなアニメ作家と見なされてきた新海誠しんかいまことだが、二〇一六年に劇場公開された『君の名は。』は、日本映画の国内興行収入で最高記録の『千と千尋の神隠し』に次いでの歴代二位(当時)という大ヒットを記録した。

『天気の子』(二〇一九年)は歴代十二位(当時)、『すずめの戸締まり』(二〇二二年)も公開後三ヵ月の時点で観客動員数一〇〇〇万人を達成している。また『君の名は。』と『天気の子』は国内外のアニメ賞、映画賞を多数受賞しているが、これに『すずめの戸締まり』が続くことは疑いない。
『すずめの戸締まり』の劇場公開直前には、土居伸彰どいのぶあき『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』藤田直哉ふじたなおや『新海誠論』と、二冊の評論書が刊行されている。新作の公開直前にファンブックとは区別される評論書が二冊も刊行されたのは異例だろう。

『すずめの戸締まり』公開直後からネットには、庵野秀明あんのひであき『シン・ゴジラ』の公開時を凌駕する勢いで、観客による感想や注釈や分析など各種の論が膨大にアップされた。そこには商業文芸誌などへの転載も望まれるような、高い水準の批評も少なからず含まれている。

 ところで土居は前掲の著書で、『君の名は。』と『天気の子』の大ヒットで新海は「国民作家として定着した」と主張している。この指摘に異論を唱える者は多くないだろう。本論では『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』の作者が「国民作家」であることの意味を検討したい。

 アニメでの国民作家といえば、第一に手塚治虫てづかおさむ、第二に宮崎駿みやざきはやおの名前が挙がるだろう。過度の図式化や単純化は慎まなければならないが、手塚の代表作『鉄腕アトム』に見られる科学技術と社会進歩への肯定的な視線は、第二次世界大戦後の国民精神と共鳴していた。あるいは丸山眞男まるやままさお湯川秀樹ゆかわひでき大岡昇平おおおかしょうへいがそうであるように、手塚治虫を戦後精神の不可欠の部分として捉えることも可能だ。

 手塚に次ぐ第二の国民作家、宮崎駿の場合はどうだろう。原子力平和利用への讃歌でもある『鉄腕アトム』とは違って、宮崎の『風の谷のナウシカ』は全面核戦争を思わせる「火の7日間」で焼き払われ、汚染された未来世界を舞台としている。敗戦国日本人の平和と復興への希望を作品に刻んだ手塚にたいし、手塚アニメの手厳しい批判者として登場してきた宮崎は、復興を遂げ戦後日本が到達した地平に立っての自省を、いわば再帰的戦後の意識として自作に込めた。

 一九四五年(敗戦)から八九年(昭和の終結)までの戦後期は前期と後期に分割される。前期は一九四〇年代後半、五〇年代、六〇年代、後期は七〇年代と八〇年代だ。マンガ/アニメ作家としての手塚(一九二八年生)は前期戦後を、宮崎(一九四一年生)は後期戦後を精神史的な背景として活動した。ただし手塚の活動期間は後期戦後まで、宮崎の場合一九八九年以降のポスト戦後まで続いている。

 戦後の代表的思想家として、物理学者で科学史や技術論の分野でも業績を残した武谷三男たけたにみつおがいる。アメリカの核実験を批判しながらも原子力研究には積極的だった前期戦後の武谷が手塚に、原子力発電の危険性に警鐘を鳴らした後期戦後の武谷は宮崎に対応するだろう。

 先行する国民作家の手塚治虫、宮崎駿と異なって新海誠(一九七三年生)には、前期戦後はむろんのこと後期戦後の世代的記憶さえもが希薄だ。この点は戦前生まれの手塚、戦中生まれの宮崎と比較して世代的には近い、押井守おしいまもるや庵野秀明とも異なるところだ。全共闘世代の押井や新人類世代の庵野が後期戦後の一九八〇年代に作家活動を開始したのにたいし、就職氷河期世代の新海はポスト戦後の一九九〇年代に二十代の青年期を過ごし、『ほしのこえ』で商業デビューするのは二〇〇二年のことだ。

 アニメ作家としての押井や庵野と新海の相違点は、生年に由来する時代経験には限らない。新海誠は「ゼロ年代という固有の時代、そしてアニメ以外のオタク系コンテンツという固有の領域とが交錯する地点で出現したイレギュラーの才能であり、だからこそ、たとえばジブリ(宮崎駿、高畑勲たかはたいさお)から押井守、庵野秀明を経て細田守ほそだまもるにいたるような、戦後日本アニメ史の正統的な文脈やレガシーをじつはほとんど共有していない、いわばアニメ界の『鬼っ子』的存在だ」(『明るい映画、暗い映画』)と渡邉大輔わたなべだいすけは述べている。

 渡邉のいわゆる「戦後日本アニメ史の正統的な文脈やレガシー」は、日本の戦後精神の産物に他ならない。こうした渡邉による指摘に藤田直哉は反論し、「宮崎駿、高畑勲、押井守らにある『アメリカ化し、科学技術立国化し、高度成長を経た』戦後日本への問いと、それ以前の社会への『回帰願望』の中核部分を受け継ぎつつ、アップデートした作家」(『新海誠論』)として新海を位置づける。新海誠に戦後精神との断絶を見る渡邉と、連続性を見る藤田のいずれが妥当なのか。

 一九八〇年代までの戦後期は「成長」の時代、「平和と繁栄」の時代だった。偏差をはらみながらも戦後精神を共有した「ジブリ(宮崎駿、高畑勲)から押井守、庵野秀明を経て細田守にいたる」作家たちとは違って、「衰退」の時代あるいは「災害と貧困」の時代が開幕する一九九〇年代に青年期を過ごした新海誠には、手塚治虫を出発点とする「戦後日本アニメ史の正統的な文脈やレガシー」の時代精神はすでに失われていた。この点で就職氷河期直前に東映動画に入社した細田守とは、わずか数年の差とはいえ世代経験が異なる。こうした点で、新海は「アニメ界の『鬼っ子』的存在だ」という渡邉の捉え方には根拠がある。

 他方で「戦後日本への問い(略)を受け継ぎつつ、アップデートした作家」という藤田解釈も無根拠とはいえない。『ほしのこえ』から『言の葉の庭』までは渡邉説が、『君の名は。』以降は藤田説が該当する。

「ゼロ年代という固有の時代、そしてアニメ以外のオタク系コンテンツという固有の領域とが交錯する地点で出現したイレギュラーの才能」を、コミケに集まるようなオタク層に鮮やかに印象づけたのは、「セカイ系」の代表作と評される『ほしのこえ』だった。この恋愛アニメの特異なところは、小説表現を中心とした近代的な恋愛ドラマの規範から意図して逸脱した点にある。「セカイ系」の代表作と評されたゆえんだ。

 無抵抗に成就する恋愛では物語的な興味が削がれてしまう。恋愛が物語化されるには、なんらかの障害が必要だ。障害は高ければ高いほど成就した瞬間の感動は深い。高すぎて恋愛が挫折に終わるなら、読者には悲劇的な感動が与えられる。

 恋愛小説の初期の傑作といわれるアベ・プレヴォー『マノン・レスコー』では、ヒロインの性的放縦や法意識の希薄性がデ・グリューにとって恋愛の障害になる。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』では二人それぞれの家族が仇敵関係にある。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』では主人公が思いを寄せるシャルロッテは貞淑な人妻である。このように恋愛の幸福な成就を妨げる社会の障壁や家族の障壁によって主人公たちの情熱は悲劇的なまでに高揚し、観客や読者の感動も高まる。

 しかし『ほしのこえ』でのぼる美加子みかこの恋の成就を妨げるのは、古典的な恋愛ドラマのような家族や社会や法秩序ではない。宣伝コピー「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」にも示されるように、ますます増大していく空間的/時間的な「距離」が二人には越えられない障壁となる。

「距離」を障壁とする恋愛ドラマが稀有というわけではない。ネオリアリスモの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカの映画『ひまわり』では、ジョバンナとアントニオのあいだに存在するイタリアとロシアの空間的距離、十年以上という時間的距離が二人を遠ざける。とはいえ、その絶望的な距離を生じさせた根拠として「戦争」が存在していることは、作中人物にも観客にも自明である。恋愛の障壁は「距離」それ自体ではなく、恋人や夫婦を呑みこんで挽き潰していく「戦争」なのだ。いうまでもなく戦争は社会領域の出来事である。

『ほしのこえ』の美加子は敵対的な異星人タルシアンとの戦争に備えるリシテア艦隊の搭乗員に抜擢されて飛び立ち、地上に残る昇との淡い恋愛感情は引き裂かれてしまう。美加子は独語する、「世界っていう言葉がある。私は中学のころまで、世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって、漠然と思っていた」。

 タルシアンを追って艦艇はシリウス星系に到達し、決戦を前にした一五歳の美加子は、八光年先の地球にいる二五歳の昇に向けて、届くかどうかわからない最後のメールを携帯で打つ。

 二人を引き裂いたのは異星人との戦争だし、少女を兵士として宇宙に駆り出した政府でもある。近代的な恋愛ドラマであれば『ひまわり』のように、空間的/時間的距離で恋人たちを引き裂いた戦争を、ひいては社会や法秩序を障壁として描くことで、成就しえない愛の悲劇性を際立たせたろう。

『ほしのこえ』では戦争の意味は問われない。人類の脅威であるタルシアンの正体も、それを迎え撃つ地球側の政治や社会のディテールもなにひとつとして。それは庵野秀明が得意とするような、物語の謎を際立たせ、観客の興味を煽りたてるためのドラマツルギーに由来するものではない。作者は、敵の正体や戦争の意味には端的に無関心なのだ。「ゼロ年代という固有の時代、そしてアニメ以外のオタク系コンテンツという固有の領域とが交錯する地点」で自主制作アニメ『ほしのこえ』が圧倒的に支持された理由がここにある。

 全共闘世代など前期戦後の若者の「反社会」性は、後期戦後には「新人類」世代やバブル世代の「非社会」性に変質していく。昭和の終焉や社会主義の崩壊を画期とするポスト戦後のゼロ年代を特徴づけたのは、「反」でも「非」でもない「無社会」性だった。社会が消失した『ほしのこえ』の恋愛ドラマは、社会性が綺麗に消去されたオタク世代の「無社会」的感覚と絶妙に共鳴していた。

 一九九〇年代という「衰退」の時代、「災害と貧困」の時代に精神形成した新海誠は、アニメ作家としてはポスト戦後の最初の世代でもある。バブル世代の細田守とは五歳しか違わないが、この二人のあいだには戦後とポスト戦後という断層が走っている。

 一九九五年には阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が連続し、バブル経済の余韻を吹き飛ばした。九七年には山一證券と北海道拓殖銀行の破綻、二〇〇一年には「自民党をぶっ壊す」のスローガンを連呼した小泉こいずみ政権が誕生する。小泉構造改革の進行は、新自由主義社会の規範を内面化した自己責任論の猖獗しょうけつを招いた。イラク人質事件をめぐる「自己責任」の大合唱と、人質被害者へのバッシングは二〇〇四年のことだ。

 イギリスで第二次世界大戦後に形成された福祉国家の強制的な解体と、新自由主義改革の先陣を切った保守党のサッチャー首相に、「社会は存在しない」という有名なフレーズがある。出典は一九八七年のWoman’s Own誌のインタビューだという。

彼ら(=政府に文句を言う人たち)は、自分たちの問題を社会のせいにするのです、誰が社会なのでしょうか? そんなものは存在しないのです!(略)個々の男たちと女たちがおり、家族がいます、そして人々を通してしか政府はなにも為しえないのです、人々はまず自分たち自身を省みなければなりません。

 ヘーゲルによれば、市民社会はもろもろの職業団体によって構成される。ヘーゲルが想定したのは中世以来の自治都市、ギルト、地区の教会などだが、近代社会では労働組合、職業団体、宗教団体、自治体と地域コミュニティ、NPOなどがそれに当たる。サッチャリズムやレーガノミクスは労働組合を解体し相互扶助的なコミュニティを弱体化して、社会を分断され孤立した個人の集積に変えようとした。

 ただしサッチャーは新自由主義的主体として、「個々の男たちと女たち」に加えて「家族」の存在を重視する。福祉国家の解体後、育児や家事や介護などのサービスを無償で引きうける装置としての家族は、依然として必要とされるからだ。ここからは新自由主義と新保守主義の補完関係が浮かんでくる。

 新海誠が国民作家になる以前の『ほしのこえ』から『言の葉の庭』までの時期は、日本の新自由主義的改革の一時代と並行している。二一世紀最初の十年に当たる期間は、オタク論壇では「ゼロ年代」と称されてきた。ゼロ年代の気分にかんして、新海誠はインタビュー「『君の名は。』新海誠監督が語る『2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきた』」で次のように語っている。

「2011年以前、僕たちは何となく『日本社会は、このまま続いていく』と思ってい」た。「さほど起伏のない『変わらない日常』がこの先ずっと続くんだという感覚があ」った。「そういう世界で生きるためには、変わらない日常から意味を引き出すことが必要」なのではないか。

そういった空気感の中では「初恋の相手を再び獲得して幸せになった」という起伏のある物語よりは「初恋の相手を失っても生きていく」という、喪失から意味を引き出す生き様を、映画で描くことが必要だと僕は感じていました。

 ポスト戦後という「衰退」の時代を生き延びるには、「喪失から意味を引き出」し「初恋の相手を失っても生きてい」かなければならない。失われた初恋に寓意されているのは、未来、希望、成長、豊かさ、その他もろもろの戦後的な価値だろう。こうした新海のモチーフは、二〇〇七年の『秒速5センチメートル』の結末に見ることができる。

 この作品は三部構成で、小学生、高校生、社会人と主人公の三つの時期を、それぞれ「桜花抄おうかしょう」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」として描いている。第三部「秒速5センチメートル」では、第一部「桜花抄」で描かれた明里あかりとの初恋の記憶から逃れられない貴樹たかきが、社会的に孤立し恋人とも破局し自己閉塞していく姿が描かれる。

 物語の最後に貴樹は、成長した明里らしい若い女と踏切ですれ違う。踏切が閉じられ電車が通過したあと、若い女は貴樹を待つことなく立ち去っていた。誰もいない踏切を前にして、貴樹は透明な微笑を浮かべる。戻らない過去への固執からようやく解放されたように。「初恋の相手を失っても生きていく」青年の運命を描くことで、このように新海は「変わらない日常から意味を引き出」そうとしている。

 貴樹が「変わらない日常」の閉塞感に圧し潰されていたゼロ年代にも、新自由主義的改革は進行していた。主人公を疲労させ心を摩滅させた苛酷な労働も、就職氷河期世代には一般的な体験だったに違いない。

 初恋の記憶にとらわれていた貴樹が、それを断念して新たな生を模索すること。こうした貴樹個人の恋愛ドラマ的な設定には社会的背景がある。二〇〇七年の「秒速5センチメートル」の貴樹が二十代後半とすれば、小学六年生だった「桜花抄」の時代設定は一九九〇年代の前半になる。バブルは崩壊しても不況は景気循環の一局面にすぎない、じきに景気は回復するだろうと日本人のほとんどが漠然と信じていた、いわば「平和と繁栄」の余韻にまどろんでいた時代だ。

 明里と過ごした日々の思い出とは、戦後日本の「平和と繁栄」の残照の記憶でもある。「災害と貧困」の暗澹とした日常がはじまる一九九五年以降にも、かつての「平和と繁栄」の記憶から逃れられない日本社会を、貴樹というキャラクターは象徴しているようだ。

 じりじりと事態は悪化してきたし、これからも悪化していくだろう。しかし、それが一挙に反転する劇的な変化は想像することもできない。ポスト戦後の日本社会は、貴樹のように閉塞感を抱えながら失われた夢を追うことしかできない。これがゼロ年代の新海誠が実感していた「変わらない日常」だった。だから貴樹は無人の踏切で、もう明里はいないという現実を受け入れ、「初恋の相手を失っても生きていく」決意をしなければならない。

 テーマソングとして使われた山崎やまざきまさよし「One more time, One more chance」の歌詞には「新しい朝 これからの僕」というフレーズがある。しかし作者が貴樹に託した「新しい朝 これからの僕」は『星を追う子ども』や『言の葉の庭』など、その後の作品で主題的に描かれたろうか。

「初恋の相手を失っても生きていく」決意は、戦後日本の「平和と繁栄」の夢から醒めて、「災害と貧困」の荒涼としたポスト戦後を生きることでもある。荒廃した社会、閉塞した日常を「生きるためには、(略)コンビニでもいいし、遅れてしまう電車でもいい。些細なところから、生きていくために必要な慈しみや、豊かな意味を引き出していくことが重要だった」と新海はインタビューで語っていた。

 そうした新海に東日本大震災の衝撃が襲う。「僕にとっては三十八歳の時に、東日本で震災が起きた。自分が直接被災したわけではなく、しかしそれは四十代を通じての通奏低音となった」(新海誠『小説 すずめの戸締まり』あとがき)。

なぜ。どうして。なぜあの人が、なぜ自分でなく。このままですむのか。このまま逃げ切れるのか。知らないふりをし続けていたのか。どうすれば。どうしていれば。――そんなことを際限なく考え続けてしまうことと、アニメーション映画を作ることが、いつの間にかほとんど同じ作業になっていた。あの後も世界が書き換わってしまうような瞬間を何度か目にしてきたけれど、自分の底に流れる音は、二〇一一年に固着してしまったような気がしている。

 バブルの余韻に浸っていた日本社会に、一九九五年の阪神・淡路大震災は冷水を浴びせた。そして東日本大震災の圧倒的な衝撃は、冷めていく風呂に身を浸しているほうが、風呂から出て冷たい外気に晒されるよりは快適だという、ゼロ年代の過渡的な意識を叩き潰した。

 ゼロ年代に瀰漫びまんしていた「変わらない日常」の意識は幻想だった。とすれば、それを異化するものとしての「『初恋の相手を失っても生きていく』という、喪失から意味を引き出す」物語にしても同じことだろう。3・11の衝撃を正面からこうむった体験が、オタク層から熱心に支持されていたマイナー作家を、一気に国民作家へと飛躍させる。しかし、そのためには3・11の意味を考えぬく時間が必要だった。この点で、震災の二年後に公開された『言の葉の庭』は、繊細な光と新鮮な緑や雨や水が織りなす光景は、新海の映像世界そのものだが、主題的には過渡的な作品といえる。

『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』の三作は、いずれも大規模な自然災害を背景とした物語だ。『君の名は。』では彗星すいせいの落下、『天気の子』では異常な長雨と洪水だが、これらの設定は東日本大震災と福島原発事故に触発されたものだ。新作『すずめの戸締まり』では、震災被害そのものが正面から描かれている。

 この三作は震災三部作とも評されるが、作品と作品の関係は並列的ではない。第一作への観客の反応を見定め、それに応答するものとして第二、そして第三の作品が制作されていく。ようするに作品と作品の関係は継起的、あるいは過程的なのだ。三部作には三〇〇〇万人を超える観客との、ひいては震災後の日本社会との対話が込められている。この対話の深度こそ、新海誠を国民作家としているのではないか。

 震災三部作の起点となる『君の名は。』では、たがいの記憶まで奪われ引き裂かれた恋人たちが、ようやく物語の最後に街の階段ですれ違う。ようするに『秒速5センチメートル』の踏切の場面の反復である。すれ違ったあと二人はたがいに振り返り、同時に「君の名は」と問いかける。

『秒速5センチメートル』の結末とは対照的といえる『君の名は。』のハッピーエンディングは、新海誠による震災体験への主体的な応答に他ならない。もはや「喪失から意味を引き出す」ような曖昧で微温的な態度は許されないという覚悟が、作者を『君の名は。』に向かわせた。「初恋の相手を失っても生きていく」のではなく、失われたものはなんとしても取り返さなければならない。いや、失われることを全力で阻止しなければならない。

『ほしのこえ』を作品として特徴づけていた無社会性は、『秒速5センチメートル』を経由して『言の葉の庭』にいたるまで基本的に変わらない。しかし『君の名は。』では、それが一変している。主人公のたき三葉みつはは到来する大災害と大量死の運命から町を護ろうとして奔走する。

 ここで新海が再発見したのは「成長」の時代、「平和と繁栄」の時代としての戦後と、それを支えたシステムだった。田中角栄たなかかくえい首相による日本列島改造論の一九七〇年代に完成された社会システムは、政治の保守本流と土建業などの産業の複合体だった。彗星の落下から住民を救うために呼び出されるのは、三葉の父親である保守政治家の町長と、父親が土建屋の友人なのだ。

『君の名は。』と同年に公開された庵野秀明の『シン・ゴジラ』では、3・11の大災害のアイコンとしてゴジラが登場する。しかも主人公たちを助けて東京を壊滅の危機から救うのは、ネオリベ以前的な保守政治家と高度技術を持つ土建業者である。この一致には偶然という以上のものがある。

 本連載に先行する「ポスト3・11文化論」の初回で『君の名は。』を論じた際にも指摘したが、新海と庵野に共通する処方箋の有効性、現実性は疑わしい。そこでは結論的に「改憲・再軍備派に圧倒され、すでに自民党の保守本流は消滅している。果てなく伸び続ける新幹線網と高速道路網、林立する高層ビルと巨大住宅団地に体現された高度成長期の土建業も、『衰退の二〇年』を経過して空洞化した。福島海岸に聳える原子炉建屋の廃墟こそ、日本の土建業の現在を象徴している」と書いた。

 記録的な興行成績と諸方面からの高い評価を得て、新海誠を国民作家の地位に押し上げた『君の名は。』だが、次のような批判には無視できないものがある。彗星の落下地点から町民を避難させることで、主人公たちは大量死の運命を回避することに成功するが、これは過去に干渉して世界線を分岐させたにすぎない。本来の世界線では依然として災害による大量死は起きたままではないか。とすれば、この事態を手放しで肯定するわけにはいかない。

「これは「代償なく人を生き返らせて、歴史を変えて幸せになる話だ」(「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」文・取材/藤津亮太ふじつりょうた)という批判にたいし、新海は「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」と思って『天気の子』に着手したという。

 震災三部作の第二作『天気の子』で新海は、見出された社会的主題の深みに踏みこんでいる。この物語の枠組みをなしている災害は、地球規模で進行している異常気象だ。人類の産業活動による温室効果ガスの大量放出と地球温暖化。その帰結としての異常気象が社会にもたらすものを、『天気の子』で作者は正面から描こうとしている。

 二〇〇五年のハリケーン・カトリーナによるアメリカ南部の被害、二〇二二年のバングラデシュの洪水被害など、一国的にも世界的にも異常気象の甚大な被害は貧困階層や貧困地域に集中する。こうした事実は異常気象と国内的、世界的な貧困問題が一体であることを示している。

 だから異常気象をめぐる物語は、必然的に格差と貧困をめぐる物語になる。『天気の子』で描かれるのは家出少年、ネットカフェ難民、ブラックバイト、両親を失って孤立した姉弟、少年が拾う拳銃、少女が足を取られかける性売買など、陽の当たらない陰の世界だ。

『天気の子』の物語の背景をなしているもろもろは、「衰退」する日本が不可避に抱えこんでいる難問でもある。無社会的なゼロ年代の夢想とは異なるものとして、『君の名は。』では共同性と連帯の新たな夢が模索された。しかしそこには3・11後に流行した、「絆」の空疎な大合唱に呑みこまれかねない皮相性も認められた。

「失われた三〇年」の負の側面は、貧困層や母子家庭や非正規/不安定労働者に一方的にしわ寄せされてきた。この現実を見ようとしない共同性や連帯の夢など信じるに値しない。平板な「絆」の合唱では覆い隠されてしまう、災害によって加速される「衰退」の時代の社会病理が、『天気の子』ではさまざまな角度から描かれていく。

 気象を局地的にコントロールできる能力を与えられた「晴れ女」の陽菜ひなは、異常気象と水没の危機から東京を救うための人柱となる運命の少女だ。世界か少女か、この究極の選択を前に、家出少年の帆高ほだかは陽菜を選ぼうと決意する。結果として雨はやむことなく降り続き、東京は半ば水没する。

 世界よりも一人の少女を選ぶという帆高の決意は、経済成長の枠組みを疑うことのないSDGs的な環境保護の欺瞞性を撃つ。そこでは、たとえばアーシュラ・K・ル=グィンの短篇「オメラスから歩み去る人々」での問いが引き継がれている。人類の理想である豊かで平和で幸福なユートピア都市オメラスは、地下牢に閉じこめられ、痩せこけ、自分の排泄物にまみれている一人の幼児の存在に支えられている。このような逆説に、ユートピアの住人はどのように応えるのか。ある者は犠牲者の存在に眼を閉じて忘れようとする。ある者は幸福の都オメラスを立ち去って、苛酷な荒野で暮らすことを選ぶ。

 ル=グィンが参照したのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で描かれるイワンの問いだろう。イワンは弟のアレクセイに問いかける。たった一人の子供を犠牲にしなければ人類は救われないとして、おまえはそのような救いを容認するのかと。

 帆高の行動は、イワンの問いへの二〇世紀的な回答といえる。幼児が虐待される世界を創造した神など認めることはできないと、一九世紀青年のイワンはいう。しかし帆高は一歩進んで、たとえ世界や人類の破滅と引き換えであろうと、虐待される子供を救うというだろう。それは『ほしのこえ』の昇の無社会性とは異なる。むしろ戦後期の、あるいは行動的ニヒリズムに駆動された二〇世紀青年の反社会性を思想的に再現するものだ。

 もう一点、『ほしのこえ』以来の「戦う少女」と「無力な少年」というキャラクター配置が、『天気の子』では鋭角的に反転している点も見逃せない。このキャラクター図式を支持したのは、ゼロ年代の無社会的、従って無行動的なオタクたちだった。しかし、ここでは少年が決断し行動する。

 陽菜を救うためなら東京が水没してもかまわないという「帆高の選択に対して『共感できない』『嫌悪しかない』という意見は、決して少なくはなかった。僕はそれで『もっと考え尽くさないと』と思ったんですね」(「今、映画『すずめの戸締まり』を作る理由 監督・新海誠インタビュー①」)と、新海は語っている。

 しかし思い出そう。彗星の落下による犠牲者を別の世界線に放置したままのハッピーエンドは認めがたい、「代償なく人を生き返らせて、歴史を変えて幸せになる話だ」という『君の名は。』への批判に応答するものとして、『天気の子』が構想されたことを。

 誰かを救うためには誰かを犠牲にしなければならない。この事実を引き受けて行動するか、なにもしないで傍観するか。

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」と思った新海の回答が『天気の子』だった。「誰かを救うためには誰かを犠牲にしなければならない」を物語的にイメージ化した者として帆高の行動が描かれている。それを典型化すれば「一人を救うために世界が滅びてもかまわない」になる。

『ほしのこえ』以来の無社会性と訣別した新海誠は、『君の名は。』で社会性を求めて限界性に逢着ほうちゃくした。「代償なく人を生き返らせて」はならないという批判を蒙った新海は、「人を生き返らせるには代償が必要だ」と『天気の子』で応じたことになる。その『天気の子』にかんしては、「帆高の選択に対して『共感できない』『嫌悪しかない』という意見」が多く寄せられた。

 このような批判に応えるものとして、『すずめの戸締まり』は構想されたに違いない。3・11以降の日本で、ゼロ年代のように無社会性の閉域に閉じ籠もることは許されない。しかし空疎な共同性や連帯の理念を無社会性に対置してみても、社会性は回復されえないだろう。「社会は存在する」としても、社会のために個人を犠牲にするような共同性の専制は拒否しなければならない。とはいえ「一人を救うために世界が滅びてもかまわない」もまた、最終的な回答ではない。

『君の名は。』では、本来の世界線で大量死を遂げた町民を「犠牲」として放置することで、それと引き換えに分岐した世界線で人々の命が救われる。その是非を問われた新海は、『天気の子』で人柱、生贄いけにえ、犠牲をめぐるドストエフスキー的、ル=グィン的な倫理問題に直面する。3・11以降の新海による長篇アニメ二作は災害と犠牲をめぐる物語だったが、同じ問いは『すずめの戸締まり』でも執拗に反復されながら、新たな水準に達している。

『すずめの戸締まり』の物語的な枠組みをなしている災害は地震であり、現実の東日本大震災そのものだ。3・11体験の衝撃でゼロ年代の無社会的な夢から醒めた新海誠は、震災を彗星の落下や異常気象という災害に置き換えることで二つの作品を創造した。『君の名は。』と『天気の子』という準備作業を終えて、いよいよ3・11そのものを描きうる境地に達したのだろう。

 災害から人々を救うとしながら、本当には救っていないと批判された『君の名は。』。たとえ東京が水没しようとも一人を犠牲になる運命から救う『天気の子』。そして『すずめの戸締まり』もまた、巨大災害から人々を救う物語として構想された。とはいえ『君の名は。』の地平への、単純な後退は許されない。

 震災三部作の第三作では、前作にも増してポスト戦後の「災害と衰退」の主題は深められている。ヒロインの岩戸鈴芽いわとすずめが登校途中で偶然に出逢う「閉じ師」の青年、宗像草太むなかたそうたは地震の予兆であるミミズを「後ろ戸」の向こう側の世界「常世」に封じこめるため日本各地を旅している。

 後ろ戸と呼ばれる超自然的な扉が出現するのは、両親をなくした鈴芽の保護者の叔母、たまきの宮崎の家に近いリゾート地や、廃校になった愛媛の中学校、神戸の遊園地の廃墟など「失われた三〇年」と衰退する日本の現在が凝縮されたような場所だ。

 作者が語るところでは、開かれた扉は成長を、閉じられた扉は衰退を、扉を閉じることは衰退の必然性の主体的な引き受けを寓意する。衰退の引き受けとはまた、震災を過去のものとすることなく、その記憶とともに生きることを意味するだろう。

 災害を封じる要石のダイジンを、それとは知らない鈴芽はたまたま抜いてしまう。白猫に変身したダイジンを元に戻そうとした草太は、脚が一本欠けた子供用の椅子に姿を変えられる。鈴芽は三本脚の椅子になった草太と二人、ダイジンの白猫を追って宮崎から愛媛、神戸、東京と、後ろ戸を閉じてミミズを封じこめながら旅し、3・11の津波で流された実家の跡がある宮城まで辿りつく。

 鈴芽の旅には要石を追うこと以外にも動機があった。幼い鈴芽が母を捜して荒涼とした廃墟を彷徨い、草原で疲れて蹲ったときに、行方不明の母親かもしれない白い服の女と出遇う夢を見たことがあるからだ。リゾート地の廃墟にあらわれた後ろ戸の向こう側の常世は、夢で見た廃墟の草原の光景とよく似ていた。

 宮崎の港町から宮城の津波跡にいたる鈴芽の旅は、新たな震災を防止するためになされるが、それだけが理由ではない。後ろ戸の向こうに広がる常世の光景が、3・11の津波に流された母の記憶と重なったからでもある。鈴芽の旅は、常世に消えたらしい母を捜す旅でもあるだろう。

「犠牲」という言葉には三重の意味がある。「事故や災害などで生命を失うこと」が第一、第二は「目的のために大切なものを捧げること、捧げられるもの」だ。第二から生贄や人身御供ひとみごくう、人柱など第三の意味が派生する。ここでは第一の意味を「犠牲」、第二を『犠牲』、第三を〈犠牲〉としよう。

『君の名は。』で彗星落下の災害のため大量死を遂げた人々は、いうまでもなく「犠牲」者だ。『天気の子』の陽菜は東京を水没から救うため、〈犠牲〉になる運命の少女だった。しかし観点を変えてみよう。〈犠牲〉としての陽菜が自分の意思で、神への捧げ物になることを選んだのなら、〈犠牲〉は同時に『犠牲』である。もしも〈犠牲〉としての運命を肯定するなら、消えていく少女を見送る帆高からしても陽菜は『犠牲』だろう。

『君の名は。』の「犠牲」者たちの意味も同様に変容しうる。新たな世界線での三葉たちは、本来の世界線での「犠牲」を前提としている。とすれば「犠牲」者たちは町民を救うための『犠牲』としての役割を果たしたのではないか。もしもそれを自覚して過去に干渉したとすれば、新たな世界線を生じさせるための生贄として、瀧は「犠牲」者たちを神に捧げたことにもなる。ここでも「犠牲」は『犠牲』へ、そして〈犠牲〉へと意味変容しうる。ヒロインの三葉に即していえば、新三葉は旧三葉の『犠牲』の上で、災害「犠牲」者となる運命を免れたことになる。

『すずめの戸締まり』ではどうだろう。津波に流された鈴芽の母親は、東日本大震災の「犠牲」者に他ならない。「犠牲」者とは難死者、意味のない死を死んだ者だ。幼い娘は「犠牲」者としての母を、不条理にも不意に失われたものと了解するしかない。失われたこと、自分の前から消えた事実は、母が理不尽な力によって奪い去られたとも、理由もなく自分を棄てたとも捉えられる。

 無意味な難死者としての母、「犠牲」者としての母の死を意味づけることができれば、母は救われ、ひいては鈴芽自身も救われる。「犠牲」者を『犠牲』者に変えること、目的のために捧げられた大切な存在として新たに意味づけること、あるいは無根拠に意味を捏造すること。もしも幼い娘の命を救うために母がおのれを犠牲にしたのであれば、この変換は容易だ。しかし、それは四歳の記憶としても事実に反する。

 では、戻らない母を求めて彷徨う幼女の前にあらわれたのが、他界に連れ出された母であればどうだろう。自分のために一瞬でも死の世界から戻ってきた母。あの夢は「犠牲」を『犠牲』に変換するものではないか。もしも夢のなかの白い服の女が本当に母であれば、鈴芽の精神的外傷は癒やされるだろう。

 たとえ肉親が死んでも、残された者は生きていかなければならない。葬儀とは死者の存在を過去のものとするための儀式だ。津波に流されて屍体したいが発見されていない母親を、鈴芽は葬ることができない。母親が生の世界とも死の世界ともつかない曖昧な中間領域を漂流しているように、母親を葬りきれない娘もまた生と死が未分離の世界に半身を浸している。後ろ戸から漂い出して空を覆う異形のもの、ミミズは普通人には不可視の存在だ。閉じ師という特殊な職能人と同じようにミミズが見えてしまうのは、行方不明者の母親を通じて鈴芽が死の世界に片足を掛けているからだ。

 このように十二年前の苛酷な体験は、鈴芽の心に癒えない傷を残している。宮崎から宮城にいたる旅は、夢にあらわれた白い服の女が誰であるのかを突きとめ、母を奪われた、あるいは母に棄てられたという精神的外傷を癒やすための心の旅でもあるだろう。

 東京から宮城へは草太の友人、芹澤せりざわが運転する中古コンバーチブルで行くことになる。芹澤がスマホを操作すると、「大きなスピーカーから陽気なドラムとギターのイントロが流れ出し、続いてからりとした女性ボーカルが歌い始めた。『あーのーひーとの、ママに会うためにー、いーまーひーとり、列車に乗ったのー』/何十年も前の、日本の古いポップスだった」(新海誠『小説 すずめの戸締まり』)。

 荒井由実あらいゆみ「ルージュの伝言」の歌詞「ママに会うために」は、津波に押し流された故郷を再訪するヒロインの心境を物語っている。旅の終わりに、鈴芽は「ママに会う」ことができたろうか。

 岩戸鈴芽の名前はアメノウズメを連想させる。また鈴は神社の本坪鈴ほんつぼすず、芽は芽吹く力を寓意する。鈴芽という名前には神を呼ぶ生命の力の意が託されている。現世と常世、生と死の世界を往還できる巫女みこ的な存在として鈴芽のキャラクターが設定されていることはたしかだ。

 巨大化したミミズを草太や二つの要石と必死で封じこめた鈴芽は、震災直後の四歳のときに通った扉を見つけ出し、常世に入る。そこで見つけたのは戻らない母を呼んで泣きじゃくる四歳の自分だった。ようやく鈴芽はさとる、夢のなかで母かもしれないと思った若い女は十二年後の自分だったことを。

 戻らない母を捜し求める幼女に、しかし鈴芽は自分が母だとはいわない。代わりに母が手作りしてくれた椅子を手渡して語りかける。

「あのね、すずめ。今はどんなに悲しくてもね――」
 私に言えることは、本当のことだけだった。とても簡単な、真実だけだった。
「すずめはこの先、ちゃんと大きくなるの」
 強く風が吹き、私たちの涙を頬から空に吹き上げた。空が暗さを増し、星たちが輝きを増した。
「だから心配しないで。未来なんて怖くない!」

 泣き疲れた幼女の前で母を演じたなら、一瞬だとしても求めに応じて戻ってくれた奇跡に励まされ、四歳の鈴芽は、ひいては成長してからの鈴芽も、「犠牲」者でしかない母という苦痛から解放されたろう。しかし「犠牲」者を『犠牲』者に変換する作為には罠がある。

 物語のクライマックスに置かれた、鈴芽が十二年前の自分に出遇うという場面には既視感がある。過去への介入という点で、落下する彗星の破滅的な被害から町民を救う『君の名は。』と設定が同型的だからだ。もしも現在の鈴芽が恣意しい的に過去を改変して過去の自分を救ったなら、『君の名は。』と同じ問題が生じかねない。地震や津波という理由のない暴力によって奪われた「犠牲」者としての母を、過去に介入して『犠牲』者とすることは、母を『君の名は。』で別の世界線に遺棄された難死者や『天気の子』の陽菜が辿りかけたのと同じ〈犠牲〉者に変えることになりかねない。

 誰かを〈犠牲〉にすることを拒むなら、「私は私にしか救えない」ことを引き受けるしかない。鈴芽が十二年前の自分に手渡す椅子は、災害の過程で失われたものか脚が三本しかない。あらわれた白い服の女が母親かもしれないことを示す椅子は、坐ると不安定に傾いてしまう。不安定なアイデンティティを抱えて生きなければならない鈴芽の運命を、三本脚の椅子は象徴している。母親は戻らなくても母親からのプレゼントだった椅子は戻ってきた。「だから心配しないで。未来なんて怖くない!」

 生贄には相反する二重の意味がある。第一は神にいたる無償の消尽しょうじん、第二は神との合理的な交換だ。旱魃かんばつのとき生贄を捧げるのは、その見返りに雨が降ることを計算しての行為で、これが生贄の第二の例となる。生贄が人間であるとき、単純化すれば多数者の生と一人の死が交換される。『天気の子』で、陽菜と水没を免れる東京が交換されるように。

 多数者に有利な交換の材料として殺害される者は、たんなる「犠牲」だろう。これを『犠牲』に読み替えるためには、その一人を〈生贄〉として意味づけなければならない。「犠牲」を欺瞞的に『犠牲』に変えるため〈犠牲〉を作り出す作為の典型的な産物として、靖国神社の「英霊」が存在する。
 結果として〈犠牲〉を生じさせた『君の名は。』、たとえ世界が水没しようと〈犠牲〉の存在は許さない『天気の子』のあと、新海誠が模索したのは、世界と一人をともに救済しうる論理だった。

 すでに多数の指摘があるように、『すずめの戸締まり』には天皇をめぐるメタファーが頻出する。岩戸鈴芽の名前にかんしては、すでに述べた。それに加えて、閉じ師の宗像草太の姓は宗像神社を連想させる。宮崎から近畿地方の神戸にいたる鈴芽の旅は神武じんむ東征の行程を、鈴芽に同行する三本脚の椅子は八咫烏やたがらすを思わせる。近畿から武蔵むさし(東京)を経由して陸奥むつ(宮城)にいたる行程は、日本書紀にあるヤマトタケルの東征の経路と一致する。西の要石はダイジンだが、東のそれはサダイジンと称される。サダイジンすなわち左大臣だ。

 以上は神話や神道や古代天皇制にまつわるメタファーだが、東京の後ろ戸は皇居の地下にあることが暗示的に描かれている。江戸城が皇居になるのは維新後のことだから、このアニメには近代天皇制のメタファーも埋められているわけだ。ただし新海誠がイメージしているのは大元帥としての昭和天皇ではなく、「事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」)と語った明仁あきひと天皇だろう。「事にあたって」の最大の「事」として東日本大震災があった。

 世界と一人をともに救済する構想の手掛かりとして新海は、天皇的なるものと不即不離ふそくふりの日本的スピリチュアリティを呼び出している。しかも『君の名は。』では、山間やまあいの地の土俗的信仰として描かれたそれが、『すずめの戸締まり』では国家神道の要である天皇の存在に自覚的に接続されている。王政復古による神社神道の国家神道化が、あたかも新海誠のうちで反復されたかのようだ。

 興味深いことに、杉田俊介すぎたしゅんすけは「猫のダイジンが産まれ損ねた水子のように見える」(藤田直哉との対談「二〇二二年のサブカル作品に政治・社会を読み込む」/「情況」二〇二三年冬号)と指摘している。「産まれ損ねた水子」からはイザナギとイザナミの子で、船に乗せて流されたヒルコのことが連想される。日本書紀では、アマテラスとツクヨミの次に生まれたのがヒルコだ。蛭児ひることも表記されるヒルコのイメージは、痩せた白い仔猫に重ねることができる。

 海に流されたヒルコだが、実は双子でそれぞれが常世に封じられたのではないか。とするなら大八洲おおやしま/日本列島は、神話の時代からヒルコを〈犠牲〉とすることで地震から守られてきたことになる。

 草太を手伝って後ろ戸を閉じたあと、帰宅した鈴芽の前にあらわれた白猫は、「ね、うちの子になる?」という鈴芽に「すずめ、やさしい、すき」と答える。そんな白猫を追って日本列島を縦断した果てに、ふたたびミミズが蠢動しゅんどうしはじめる。常世では巨大な神獣に変身したサダイジンがミミズと死闘を演じ、三本脚の椅子に変身させられた草太は自分から要石の役を果たそうとする。ここで、またしても〈犠牲〉をめぐる主題が浮かんでくる。

 草太を〈犠牲〉にすることで地震は阻止できるとしても、それでは『君の名は。』を反復することにしかならない。鈴芽は全力で、半ば石像に変わりはじめた椅子を常世の大地から引き抜こうとする。そのときぐったりした白い仔猫が、かすれ声でいう。「だいじんはね――すずめの子には、なれなかった」「すずめのてで、もとにもどして」と。

 石像に戻ったダイジンを埋めることで、かろうじて後ろ戸は閉じられ、新しい大地震は阻止される。鈴芽が要石を引き抜いたことを起点とする物語は、ダイジンが要石に戻ることで終わる。

 太古から日本列島の西と東でミミズの蠢動を押さえてきた要石が、元通りに二つ揃うことで、草太は人身御供となる運命をまぬがれた。これで、あの難問は解決されたろうか。前出の対談で、杉田俊介は次のようにも述べている。

鈴芽から拒絶されて、ダイジンはショックで、急速に痩せ衰えて、皺くちゃになってしまう。明らかに児童虐待や動物虐待のメタファーですよね。鈴芽という巫女/女帝は、人身御供にされた現人神――草太のことは救出するけれど、ダイジンという存在――動物なのか妖怪なのか水子たちの霊の集合体なのか――は結局、物語の世界から曖昧に排除されてしまう。

 鈴芽のキャラクターには「巫女/女帝」ばかりか「女神」までが象徴的に織りこまれている。鈴芽は天岩戸の前で踊るアメノウズメであると同時に、ウズメの策略で岩戸から引き出されるアマテラスでもある。しかし鈴芽が、アマテラスの母イザナミの分身でもあるとしたら。

 母であるイザナミに棄てられ〈犠牲〉として地中に埋められたヒルコが、イザナミの化身としての鈴芽から「うちの子になる?」と問われて歓喜する。捨てられた子が、あらためて母の子として迎えられるのだから。

 しかし拒絶されて「すずめのこには、なれな」いことを覚ったダイジンは、鈴芽からもう一度捨てられる運命を受け入れざるをえない。これが「すずめのてで、もとにもどして」の意味だ。杉田は「人間主義的な解決ではあるけれど、非人間に対してはわりと残酷です」と結論的に語る。しかし鈴芽/イザナミ、ダイジン/ヒルコの対比から導かれるのは、アマテラスを始祖とする天皇家の秩序それ自体が、ヒルコという〈犠牲〉を前提にしていることだ。

 世界は守るが、そのために一人の人間も〈犠牲〉にしない。その可能性を日本的スピリチュアリティに求めた末に新海誠が到達したのは、神話的な〈犠牲〉の排除に基礎づけられた天皇家の秩序だった。その役割をダイジンのような非人間の存在に押しつけてしまえば、一人の人間も〈犠牲〉にすることなく世界を救うことができる……。

 しかし、これが最終的な回答でありえないことは作者自身が自覚しているだろう。「ダイジンが可哀そう」という観客の声に向きあうなら、3・11を出発点とした新海誠の旅は終わりそうにない。

《ジャーロ No.87 2023 MARCH 掲載》



 ■ ■ ■


▼ジャーロ公式noteでは、皆さんの「ミステリーの楽しみ」がさらに深まる記事を配信しています。お気軽にフォローしてみてください。


この記事が参加している募集

アニメ感想文

いただいたサポートは、新しい記事作りのために使用させていただきます!