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最新長編を二号連続全編掲載!【小説】澤村伊智|斬首の森(後編)

ジャーロ11月号(No.85)より、澤村伊智さんの最新長編をご紹介します。
前編はジャーロ9月号(No.84)に掲載しました。
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マルチセミナーから脱出したわたしたちを襲う首斬り死体。
身の毛もよだつ驚愕の真相!

イラストレーション 山田 緑

 二(承前)

 皆の顔を見たけれど、誰もそれ以上は口を開かなかった。

 わたしは再び太刀川たちかわさんの日記に目を向けた。チラッと様子をうかがうと、皆も同じことをしていた。

 〇月×日
 午後九時入店。午前零時退店。
 モモカと話が弾む。

 〇月×日
 午後六時入店。午前零時退店。
 マミと話が弾む。

 〇月×日
 午後七時入店。午前零時退店。
 モモカと話が弾む。つい気が大きくなってダイジローに説教めいたことを言ってしまう。死ね。死ね死ね死んでしまえ。

 〇月×日
 午後五時入店。午前零時退店。
「今日はずっといてくれてありがとうございます」とモモカから礼を言われる。

 〇月×日
 午後五時入店。
 カズハという子が入ってきた。新人だという。陰のあるところが店の雰囲気と合っていないようで逆にいい。
 午前零時退店。

 〇月×日
 午後五時入店。
 カズハと話が弾む。スレておらずとても素直でいい娘。
 午前零時退店。

 〇月×日
 午後五時三十分入店。カズハ、モモカに入浴剤のプレゼント。ミナの分も渡す。「前から欲しかった」「最近疲れていたから丁度いい」と、とても喜ばれる。
 午前零時退店。

 〇月×日
 午後七時入店。谷田部やたべを連れて行く。顔を知られたくないとずっと拒否していたがこちらの説得に折れた形。店の前まで文句を垂れていたが、入店したらしたでごくごく自然に振る舞う。おまけにマミと盛り上がって俺をイジリ始める。

 谷田部の提案で午後十時退店。ある程度離れたところで

「太刀川さん、楽しそうでしたね」と赤ら顔で言いやがった。

「普通に遊んでません?」

「遊んでない。仕事だ」

「いやいや、あいつらに会うの、結構楽しみにしてますよね? そりゃ近付くためには足繁く通わなきゃいけませんし、怪しまれるよりは全然マシですけど」

「だから?」

「店の娘に入れ上げたりしてませんよね? プレゼントあげたりとか」

「あげてるさ」

「ちょっとちょっと太刀川さん」

「作戦に決まってるだろ」

 そうだ。作戦に決まっている。作戦だ。あいつらからうまい話を持ちかけられ、セミナーに誘われるための。それ以外の何でもない。店員どもと話すのが楽しい、ちやほやされてうれしいなどとは微塵みじんも思っていない。思っているわけがない。

 その場で谷田部と口論になり、通行人に引き剥がされる。最終的に向こうが謝って終わったが、そう思っているのは俺だけかもしれない。そもそも口論にすらなっていない可能性もある。最初から独り相撲で、谷田部には適当にあしらわれただけだった気がする。駄目だ。どうしてこんな苦しくなるだけのことを書いてしまうのだろう。自分がまだ正気であるということのあかしか、自分の人生に言い訳しているのか。死ね。死んでしまえ。

 〇月×日
 店休日なのに間違えて店に行ってしまう。
 もちろん作戦。作戦だ。

 〇月×日
 午後六時半入店。
 ちょくちょく店で見かける客の一人が話しかけてくる。名前は皆月みなづき、肩書きは実業家。「この店のオーナーとも懇意」だという。仕事の話、プライベートの話。もちろんTが食い付くような作り話だが、事実もそう変わらない。俺は負け犬だ。ゴミだ。死ね。

 〇月×日
 かがのみ教について倉淵くらぶちさんより。

 この新興宗教は一九四八年春頃、T町にて興ったが、そもそもは水房みずふさキヨという女の活動に端を発するものであった。

 キヨは当時六十歳から七十歳。T町の外れの小屋に一人で住んでいた。かつては家族がいたらしいが夫を戦争で失い、一粒種の子供を病気で亡くしたらしい。特に後者による心痛でキヨは世をはかなみ、近隣との関わりを避けるようになったという。言わば彼女は町はずれ村はずれの「変なばあさん」であると同時に「可哀想かわいそうな婆さん」だった。

 一九四六年夏にT町で原因不明の熱病が流行し、何人も死んだ。子供が罹患りかんし困り果てた母親の一人が、子供を背負ってキヨの家に向かった。キヨは自給自足の生活を送っており、山の植物における薬効の知識もあったと聞いたことがあった。また彼女の両親(既に故人)はキヨと比較的交流があり、キヨが決して危険でないことを両親から聞かされていた。

 事情を聞いたキヨは母子に留守番を任せ、家を出た。そして二日後に帰ってきて、手にした小さな木の実をり潰して与えた。そして訳の分からない事を唱え始めた。

 翌日から、子供はれ紙を剥がすように回復した。

 キヨによると与えたのは「かがのみ」だそうだが、彼女はそれ以上の説明を避けた。そしてこれについて口外しないよう母子に命じた。

 だが熱病にかかる者は一向に減らず、子供がうっかり周囲に「かがのみ」のことを漏らしてしまう。人々はキヨのもとに殺到したが、彼女は山奥に引っ込んでしまい、誰も会うことはできなかった。

 T町は混乱に陥った。相談、交渉という名の山狩りも辞さない。町長も含む町民、特に男性間でそんな空気が出来上がった。そこに続木宣雄つづきのぶおという男が「自分一人で行く、説得に当たる」と提案した。宣雄は大戦前、遠縁の親戚を頼ってT町に移り住んだ。農作業の手伝いをしていたが、三十歳で独り身だったこともあり、当時の地方社会では「プラプラしている余所よそ者」という扱いだった。だから彼の提案を真に受けるものは一人もいなかったが、彼はこれを説得。「自分は東京で心霊科学を学んでおり、人の放つ霊性、神性を見ることができる。それを使えばキヨを捜し出すことができる」「これは他の人間がいると雑念が入ってうまく探り出すことが難しくなるので、単独でやらせてほしい」……

 人々は彼の熱意に心打たれ、任せてみることにした。宣雄は翌日一人で山に向かい、そして四日後にキヨを連れて戻ってきた。二人とも木の実や葉、根を抱えていた。

 キヨの家はそれから病院、あるいは薬局のようになった。人々は列に並び、彼女が植物から処方した薬を飲み、彼女の祈りの言葉を聞いた。時間にして十五分。そして家に帰され、もらった薬を飲み続けた。簡単な祈りの言葉もキヨから教わった。

 一連の流れはキヨの発案だとされるが、実際に町民に伝え、キヨの家で取り仕切ったのは宣雄である。キヨは神の声を聞き、神の住む山に分け入り、神の力を宿した植物「かがのみ」を探り当て、神の言葉とともに人々を救う力を持つ。だがそれゆえ、彼女は人の世から距離を置いてしまった。宣雄は自らを「キヨと人との仲介役」とし、立ち回った。キヨはもちろんのこと、列に並ぶ人々に飲食を振る舞ったりもしたという。

 薬を飲んだ者はみな全快した。隣の町、村からも「かがのみ」を求めて訪れる者が現れた。人々は自発的にキヨにお礼の物品や金銭を渡した。キヨは極貧とも言える生活を脱したが多くを求めること、着飾ることは決してせず、彼女の家は新たに待合室とひさしが設けられた程度だった。つまり病が去っても人々は事あるごとにキヨを頼ったわけだ。病気や怪我けがのみならず吉凶や、せ物の在処ありかを占ってもらったりもしたという。キヨはそれらに答えはしたが、人々との必要以上の対話をせず、いわゆる窓口は全て宣雄が担った。

「かがのみ教」の誕生である。



この続きは有料版「ジャーロ 11月号(No.85)」でお楽しみください


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