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特殊設定ミステリを語りつつ、倒叙ミステリに立ち返る|新保博久⇔法月綸太郎・死体置場で待ち合わせ【第3回】

▼前回はこちら

〈人気のジャンルに少し寄り道〉
いま最も勢いのある特殊設定ミステリを二人はどう見るのか……?

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【第七信】
新保博久 →法月綸太郎
/特殊設定ミステリなんか怖くない


法月のりづき綸太郎りんたろうさま

 出版社の各賞のパーティが自粛されるようになってまだ三年足らずですが、往年の活況を思い出すと、ずいぶん久しい気がします。一昨年は関係者のみの贈賞式に縮小された日本推理作家協会賞・江戸川えどがわ乱歩らんぽ賞ながら昨年は、従来は協会員や出版関係者しか参加できなかったのに一般読者にも一部開放される形で行われたのに続いて、今年も十一月七日、同様の形で開催されるらしい。乱歩賞の最新受賞作、荒木あらきあかね著『此の世の果ての殺人』(講談社)も発売されたので、さっそく一読しました。こういうタイトルを見ると、オールディーズ・ソングの名作、スキータ・デイヴィスの「この世の果てまで」(一九六二年)を連想してしまうのはロートルのあかしでしょうか。私もさすがにヒットした当時は知るわけもなく、スタンダードとして認識してきましたが、平成生まれの作者(乱歩賞では初めてでしょう)はおよそ意識していなかったに違いありません。

『此の世の果ての殺人』は、やがて二〇二三年に小惑星が地球を直撃し人類滅亡がほぼ確実と予想される直近未来を背景に、衝突予測地点である熊本県阿蘇あそ郡からわずかでも遠ざかりたいと住民の大半が日本脱出したあとの福岡で、連続殺人犯が跋扈ばっこしているようだという設定です。残り三か月余で誰も彼もが死に絶えそうな状況で、何者が何のために殺戮さつりくを続けているのか――流行の〝特殊設定ミステリ〟の一種といえるでしょう。実は私、この風潮には批判的なのですが、本書には好感を抱きました。ライフラインなどおおかた停まっていながら、淡々と自動車教習所に通う仮免OLと、妙に事件慣れしている指導教官のコンビが、死体を発見して当然のように犯人さがしにいそしむ、異常な世界でも日常を貫こうという意思のしなやかさが心地よかったのです。設定の異常さをことさら強調することなく、わずかに機能している警察や病院を頼りながら、推理と捜査をオーソドックスに展開する。ヒロインが普通のOLのくせに、一一〇番通報を受けたさいの警察の一般的対応に精通している(51ページ)のが、仮に刑事ドラマのファンだったとしても、ありえないような気はするのですが。

 アガサ・クリスティー賞の最新受賞作だという西式にししきゆたか『そして、よみがえる世界。』はまだ刊行されておらず、選考委員である法月さんと違って私には読むすべもないのですが、これも特殊設定ミステリみたいですね。新しい謎やトリックの創造が手詰まりになりがちである以上、特殊設定に活路が見出されてきたというところなんでしょうけれども、私がなぜ特殊設定ミステリを嫌うのか、ここらで説明しておきたいと思います。

 人間に危害を加えられないようプログラムされているはずのロボットが殺人を犯したとしか考えられないというアイザック・アシモフの『はだかの太陽』(ハヤカワ文庫SF)、魔法が普通に通用するパラレルワールドで魔術によって施錠せじょうされた密室殺人を描くランドル・ギャレットの『魔術師が多すぎる』(ハヤカワ・ミステリ→同文庫)はじめ、従来SFミステリと呼ばれてきた一群の作品には私も親しんできました。しかしそれらは、希少価値を認めて愛惜あいせきしたのだという気がします。作者が特殊設定を用いる必然性を編み出したときにのみ書かれるべきもので、昨年は「ミステリマガジン」「小説現代」などが特殊設定ミステリ特集を組みましたが、ことさら作家にそういう短編を求めるのは筋違いではないでしょうか。個々の作者の創意工夫にもかかわらず、まとめて読まされていささか食傷しました。書き下ろし長編でも、とにかく密室を、列車を、エロを、バイオレンスを、売れるからと編集者が要求していたのと変わらないように思われます(私がTVのミステリ・クイズ的な番組の原案をわれていたころ、何かというと密室をねだられたものです)。

 長編や、同じ特殊設定を使っての連作ならまだしも、単発短編で試みられるとルールの説明に紙数を奪われ、背景がいかにも書割っぽくなってしまう。この世のお話である限りでは、作中人物をめぐる特異な状況だけを書き込めば済むところ、特殊設定の短編ミステリは概して世界が薄っぺらく見えるのですね。背景が描けていない!……って、新本格の人たちが擡頭たいとうしてきたころ、人間が描けていないと批判していたのを再演しているみたいですが。『此の世の果ての殺人』の場合、もともと語り手に見える世界しか描きようがない制約を設けたことが奏効しているようです。

 いや今回は、今までの流れから倒叙ミステリについて話さなければならないのでした。

 第四信で、ポー「天邪鬼」と江戸川乱歩「心理試験」を補助線に引くと、ポーの「黒猫」や「告げ口心臓」を倒叙の祖と見なせなくもないとおっしゃったとき、よく分からなかったのですが、第六信を拝読してに落ちたものです。第一信でも引用しましたが、一八四一年にポーが推理小説を発明する以前から、「いまから見れば推理小説だといえないこともない作品はいくつかある」(たつみ孝之たかゆき『NHK 100分 de 名著「エドガー・アラン・ポー スペシャル」』二〇二二年三月)――たとえばE・T・A・ホフマンの「マドモワゼル・ド・スキュデリ」(一八一八年。光文社古典新訳文庫など)――のが確かなように、R・オースティン・フリーマンが発明するより先に倒叙推理が存在していても不思議はありません。

 二年余り前、刑事コロンボの権威・町田まちだ暁雄あけお氏より「個人的には、〈存在する倒叙(あるいは潜在する倒叙)〉と〈発明された倒叙〉があると思っております」と、Twitter上で承りました。フリーマンのソーンダイク博士シリーズのうちの倒叙物以降が〈発明された倒叙〉で、それ以前から〈存在する倒叙〉があり、それが「黒猫」や『罪と罰』であったというわけですね(第五信で私が、『カラマーゾフの兄弟』は探偵小説ではないと江戸川乱歩が言ったと書いたのは『罪と罰』の誤りでした)。

 これについて町田氏のご教示を仰いだのは、その前に白樺しらかば香澄かすみ氏(二〇二〇年、二見書房刊『刑事コロンボの帰還』の構成を担当した菊池きくちあつし氏の別名)のツイートで「刑事コロンボ」式のドラマを指す言葉としてhowcatchem(emはthemの短縮形)というのを教えられ、その発生と来歴を町田氏にたずねたのが発端でした。whodunit(誰がやったか=犯人さがし)やhowdunit(如何にやったか=トリック当て)のような、特性を一語に要約した面白い表現だと思ったものです。どうやら文芸よりも、コロンボの流れをむTVドラマのほうに用いられているようですが、howcatchemは倒叙探偵小説inverted detective storyと同義というよりも、inverted detective storyの一変型だと白樺氏は見なしていると思われます(私がツイートを読み誤っていなければ)。

 実際、コロンボや古畑任三郎ふるはたにんざぶろう以降、刑事vs.犯人の対決型が倒叙の主流のように見られがちですが、〈発明された倒叙〉の第一作、フリーマンの「オスカー・ブロドスキー事件」(一九一〇年。国書刊行会刊『ソーンダイク博士短篇全集Ⅰ』/創元推理文庫『世界(推理)短編傑作集2』)でソーンダイクと犯人とは駅で一瞬すれ違うだけですし、日本では三大倒叙の一つに数えられているクロフツ『クロイドン発12時30分』にしてもフレンチ警部と犯人が直接相まみえるのは中盤の一章だけでした。コロンボ~古畑系統は、〈存在する倒叙〉〈発明された倒叙〉をひっくるめた倒叙の中興の祖を飛び越して、『罪と罰』の予審判事vs.ラスコーリニコフに直結しているようです。面白いのは、ポルフィーリイ判事よりも犯人ラスコーリニコフの名前のほうが人口に膾炙かいしゃしていることで、犯罪小説でなく倒叙推理であるためには探偵のほうが主人公でなければならないという私の仮説を補強できそうなところ(ちなみにオスカー・ブロドスキーは被害者の名前でした)。

 しかし自分でとなえておきながら何ですが、乱歩の「心理試験」や「屋根裏の散歩者」は明智あけち小五郎こごろうの初期事件簿として倒叙物だということを怪しまなかったものの、それぞれ単品としては蕗屋ふきや清一郎せいいちろう郷田ごうだ三郎さぶろうのほうこそ主人公ではないのか。「先天的の悪人だったのかもしれない」蕗屋のほうはともかく、郷田三郎は簡単に犯罪者側に転落しかねない退屈病患者だと明智なら洞察できそうなものを、わざわざ犯罪の恐ろしさ(というか楽しさ)を訓育して、実行に移すかどうか見きわめようと実験した、『ドグラ・マグラ』夢野ゆめの久作きゅうさく)の正木まさき博士よりタチの悪い冷血漢だと明智のことを考えることも可能でしょう。とうに指摘されていそうなことですけれども。

 普通の小説が時系列を追って、こうだからこうなったと原因から結果を述べてゆくのに対して、推理小説が結果(事件)から原因(犯人/動機)へと遡行そこうしてゆく、いわば倒叙文学なのだという私のかねての持論も、意識しているかどうか別にして、たいていの人が気づいていることでしょう。町田暁雄氏も、「普通の犯罪小説、加えて『罪と罰』をはじめとする多くの文学作品も、形式上は〈倒叙〉であるということで、これを要するに、実は〝倒れていた〟のは実は〈本格〉の方で、それを倒してみたら、普通のドラマの流れに戻ってしまった、ということなのではないか」として、「その文学やサスペンスを、個人的に〈存在する(あるいは潜在する)倒叙〉と呼んでおります。そして、これがさらに難しいのは、その中には、まったく〈倒叙〉や〈ミステリ〉など意識していないもの(当然ですが『罪と罰』)から、狭義の〈倒叙〉を豊かな文学性をもって表現した意図的な作品までが含まれる、ということです。この範囲は、ミステリとして意図したかどうか、ミステリとして読めるかどうか等々、楽しく議論や解釈が行なえるところなので、一緒くたにしておいた方が豊かかなあ、とも思います」(カッコ内は町田氏)とのご意見です。

 また白樺香澄氏によれば、乱歩がフランシス・アイルズ『殺意』に感激して評論「倒叙探偵小説」を書いたとき、その概念は「犯人視点の(殺人を扱った)犯罪小説の中で、謎解きや決定的証拠など推理小説的興味があるもの」(カッコ内は白樺氏)くらいのゆるいもので、倒叙とは自立したジャンルというより「『ホラーミステリ』などに近い、越境的サブジャンルなのではないかと」いう。『クロイドン発12時30分』新訳版(創元推理文庫)の解説で神命しんめいあきら氏も、「倒叙ミステリをひとつのジャンルとするよりは、単なる叙述の手法として捉えるべきではないかと考えている」と述べています。

 このあたりが、最大公約数的な見方といえるでしょう。ただ、ハードボイルドにしても、ジャンルではない、文体だ、とか作家の姿勢だという意見もありながら、大方がハードボイルドだと認める(あるいは認めないと、ことさら言う)作品が相当数あって、とりあえず倒叙もジャンルに準ずるものと考えていいでしょう。という、あるようなないような曖昧なものなので、ジェームズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は倒叙物か否かと、むきになって問いかけるのも野暮なのかもしれません。ただ、探偵と犯人が等分に存在感を主張したフリーマンの『ポッターマック氏の失策』(論創社)が、長編倒叙の一つの理想型だったという法月さんのご意見に私も同調するものの、フリーマン自身を含めて、この形式を長期的に追究できなかったという歴史に原理的な問題があるようにも思われます。

 二〇二二年九月五日


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【第八信】
法月綸太郎 →新保博久
/山中峯太郎は倒叙ミステリの夢をみるか?


新保しんぽ博久ひろひささま

 コロナ禍の二〇二〇年から日本推理作家協会賞、二一年からはアガサ・クリスティー賞の選考委員を務めておりますが、すっかりリモート選考会に慣れてしまって、今となっては対面のほうがやりにくいかもしれません。リアルの授賞式もずっとご無沙汰ですね。出不精に拍車がかかって、だんだん世捨て人みたいになっている気がします。

 第12回アガサ・クリスティー賞に輝いた西式豊『そして、よみがえる世界。』は、そんなテレワーク時代にふさわしいVR(仮想現実)ミステリです。このタイトルからイタリアン・プログレッシヴ・ロックを代表するPFMの傑作アルバム「甦る世界」(一九七四年)を連想してしまうのは、プログレ・オタクの性でしょうか――という便乗ネタはさておき、この作品を特殊設定ミステリと号してもいいのか、実は少し迷いがありました。「ミステリマガジン」十一月号の選評でも「仮想空間と先端医療がテーマの近未来SF」という表現にとどめていますし、ハイテク医療スリラーとか、バーチャルSFミステリと呼んだほうが無難ではないかと。

 第七信の特殊設定ミステリ批判は傾聴に値するもので、私もどちらかというと、今どきの猫も杓子しゃくしも特殊設定、みたいな風潮にはついていきかねるところがあります。ただしこれには世代的なギャップもあるようで、たとえば円居まどいばんのミステリ塾』(星海社新書)の第2回、斜線堂しゃせんどう有紀ゆうき氏のゲスト回で「特殊設定を使うと、強いあらすじで読者を殴れるんだ」という発言を軸に、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)の執筆過程が語られているのを読むと、あらためて「昭和(のエンタメ作法)は遠くなりにけり」と痛感せずにはいられません。

 その一方で、ホストの円居挽氏が「『あらすじで殴る感じの特殊設定ミステリ』の傾向が過熱すると、出オチで勝負する感じになってくる」「あらすじですべてが決まる大喜利になってしまう」、だから「このインフレ合戦に乗るとしんどそうだな」と一歩引いた感想をらしているのが印象的でした。そういう意味では新保さんだけでなく、実作者の間でも特殊設定ミステリの「供給過剰」(ダンピング&デフレ化)への警戒感が共有されているのではないでしょうか。このテーマについてはいろいろと思うところがあり、特殊設定の変遷は「ジャンルミックス→メディアミックス」の問題なのではないかという気もするのですが、もう少し自分の考えを煮詰めてからお返事するつもりです。

 話をクリスティー賞に戻しますと、『そして、よみがえる世界。』は「強力なネタを実現するために、コツコツと設定(技術的環境)を積み上げていく」タイプの物語で、新保さんが敬遠する特殊設定ミステリとは正反対の作風だと思います。まだ出ていない本ですし、だいぶ改稿されるようなので、具体的な内容には触れられませんが、選考委員の立場からちょっとだけ「匂わせ」をしておくと、かつて瀬戸川せとがわ猛資たけし氏が『夢想の研究――活字と映像の想像力』(創元ライブラリ)で絶賛した某作の破天荒なトリックを近未来のハイテクを使って具現化した奇想ミステリ、といえるでしょう。

 そういう作風ですからミステリと最新科学の関係、特に専門的・理論的なディテールをどのように物語るかという問題について、あらためて考えさせられる小説でした。いや、これは必ずしも現代の最先端技術に限った問題ではありません。倒叙探偵小説の祖であるオースティン・フリーマンのソーンダイク博士シリーズも、また江戸川乱歩「心理試験」のインスパイア元ではないか、と目されているアーサー・B・リーヴ『無音の弾丸』(論創社)のクレイグ・ケネディ教授シリーズも、当時の最新科学を駆使したミステリだったからです。

 リーヴと乱歩の影響関係について補足しておきましょう。ケネディ教授シリーズ(Kindle版)の訳者でもある平山雄一ひらやまゆういち氏は「明智小五郎年代記クロニクル 1」(集英社文庫『明智小五郎事件簿 Ⅰ』に収録)において、『無音の弾丸』収録の短編「科学的金庫破り」(別題「金庫破りの技法」)が「心理試験の連想診断を用いて、犯人を見破って」いることに注目。さらに「黒手組」という同題の短編があることから、「この時期の乱歩は、『無音の弾丸』にインスパイアされたのではないかと思われる作品を二作も書いているので、この本を読んでいたのではないでしょうか」と推測しています。

 平山説の当否はともかく、第一短編集『無音の弾丸』(一九一二年)は〈クイーンの定員〉の第49席に選ばれ、ケネディ教授も一時は「アメリカのシャーロック・ホームズ」ともてはやされたそうですね。しかし、実験や検査のプロセスを重んじたソーンダイク博士に対して、当時の発明品や新奇な科学トリビアをネタ消費しただけのリーヴの小説は、あっという間に古びてしまったらしい。理系ミステリを書く難しさを、身をもって示したシリーズといえるでしょう。

 ところが、実際に『無音の弾丸』を読んでみると、新保さんが第五信で言及された「探偵はみんな集めてさてといい」を地で行くような〝名指し式〟の解決編がけっこう出てくるのです。たとえば「探偵、細菌の謎に挑む」という短編には、「先ほど挙げた重要参考人を所定の時間内に見つけてくれれば、今夜種明かしができると思う――九時ってところだな。やり方はいつもの通り。全員を夜九時に私の研究室に連れてきてくれ」(福井ふくい久美子くみこ訳)という台詞があります。十二編ある短編集の中で、半分の六編がこのパターンを使っているので、シリーズのお約束みたいなものでしょう。

『無音の弾丸』に収録された短編は、一九一一年に雑誌に発表されたものがほとんどなので、さすがに〝名指し式〟の草分けではないものの、この時代のアメリカで一種の定型になっていたことがうかがえます。後出しの証拠が多く、お世辞にもフェアプレイとは言えませんが、複数の条件を重ねて実行犯を一人に絞り込む手続きを意識した作品もある。筋運びとか幕の引き方とか、エラリー・クイーンの『フランス白粉の謎』や後年のラジオドラマ「エラリー・クイーンの冒険」に通じるものがあって、読み物としてはそこまで腐したものでもない。ただ表題作に「モルグ街の殺人」のネタバレとリンクした差別表現(優生思想)があって、そこらへんはいま読むとキツいですね(先輩格のフリーマンも熱心な優生学論者だったそうですが)。

〝名指し式〟のルーツ探しは引き続き宿題ということにして、本題に入りましょう。第五信に続いて、第七信でも倒叙ミステリに関する私のリクエストに答えていただき、重ね重ねありがとうございます。町田暁雄氏、白樺香澄氏との興味深いやりとりが整理されてキーワードも出揃った感があり、これから折に触れて参照することになりそうです。

 推理小説そのものが結果から原因へ遡行してゆく、「いわば倒叙文学」であるという新保さんの持論は、若島わかしまただし氏もフランシス・アイルズ論「風俗小説家としてのバークリー」(『乱視読者の帰還』所収/みすず書房)で指摘していましたね。「通常の探偵小説が正規の形態であり、『倒叙』物がそれに対して規範を逸脱する形態である」という前提は、「普通小説の側から見ればけっしてそうではなく、むしろ『通常』の探偵小説の方こそ小説として特異な形態を持つのではないのか」というくだりです。

 その流れでふと思い出したのが、山中やまなか峯太郎みねたろう訳(翻案)の児童向けシャーロック・ホームズの長編『深夜の謎(緋色の研究)』『恐怖の谷』でした。第五信のラストでちらっと名前の出た、ポプラ社版〈名探偵ホームズ全集〉に収録されているやつですね。ずっと昔に学校の図書室で借りて読んだので、だいぶ記憶があやふやになっていますが、両方ともドイルの原作とは逆に「第一部・アメリカ(過去)編/第二部・ホームズ(事件)編」の順番になっていたはずです。「児童向けだから時系列順に書いたほうが理解しやすいだろう」と考えて、原作の構成をひっくり返したのでしょうか。理由はどうあれ、そのせいで山中版ホームズは文字通りInverted Detective Storyになってしまった。犯行そのものは描かれなくても、犯人の視点と「犯行以前」の要件は満たしているので、広義の倒叙形式といっても許されるでしょう。『恐怖の谷』の「犯人」の立ち位置とか、倒叙ミステリとして読んだらものすごく面白いことになっているのですが……、さてその場合、山中版ホームズは〈発明された倒叙〉なのか、それとも〈存在する倒叙〉なのか?

 でも、こういう問いの立て方はそれ自体、本末転倒(inverted)ですね。あるいは人物相互の役割に注目して、主客転倒と言い換えてもいいでしょう。たとえば刑事vs.犯人の対決型のルーツとされる『罪と罰』にしても、評者によって注目するポイントが違う。旗振り役の乱歩からしてそうで、第六信では書き漏らしましたが、「スリルの説」では「裁判所の書記官であったか、ザミヨートフという、彼を下手人と疑っているその筋の係官」とのシーン(第二部六章、ポルフィーリイはまだ出てこない)を重視している。「探偵小説に現われた犯罪心理」でも「ラスコーリニコフが犯行後カフェーで出会った検察官に札たばを見せびらかすあの心理」と書いていますが、これも警察署の事務官ザミョートフのことで、コロンボのモデルになった予審判事ではありません。ザミョートフはあくまでも脇役で、真打のポルフィーリイを引き立てる前座にすぎないのです。

 ということは、乱歩は殺人犯の一人相撲的な自白衝動に強いスリルを感じても、予審判事対ラスコーリニコフの対決にはそれほど興奮していない。新保さんの言う通り、乱歩にとっては探偵より犯人が第一で、「それぞれ単品としては蕗屋清一郎や郷田三郎のほうこそ主人公ではないのか」というのが当たっている気がします。


 ところで、この手紙の最初のほうで「もう少し自分の考えを煮詰めてからお返事するつもりです」と書いたばかりですが、前言を撤回して、もういちど特殊設定ミステリに関する議論を蒸し返しましょう。

 もちろん、ここまでの倒叙ミステリの話題、特にコロンボ~古畑系統の刑事vs.犯人の対決型と関係があります。新保さんは第七信のラストで、「フリーマン自身を含めて、この形式を長期的に追究できなかったという歴史に原理的な問題があるようにも思われます」と記されましたが、私の見るところ、第二次世界大戦後のアメリカで倒叙ミステリという形式が再発見され、〈手法としての倒叙〉を刷新する目立った動きがありました。

 具体的には一九五〇年代前半、特に五三年に「倒叙の復活」を印象づけるトピックが相次いでいます。枚数の都合で、詳細は次回の第十信に繰り越しますが、この年にはSF界でもシンクロするような出来事が起きている。アルフレッド・ベスターの長編『破壊された男』が発表され、第一回ヒューゴー賞に輝いたことです。

『破壊された男』(伊藤いとう典夫のりお訳、ハヤカワ文庫SF)――またの名を『分解された男』(沼沢ぬまさわ洽治こうじ訳、創元SF文庫)――はテレパシー能力を持つエスパーの存在によって、あらゆる計画殺人が不可能になった二十四世紀の未来社会を舞台に、ライバル会社の社長を殺し完全犯罪をなし遂げようとする普通人ノーマルのセレブ実業家ベン・ライクと、一級エスパーでニューヨーク市警察心理捜査局総監を務めるリンカーン・パウエルが虚々実々の攻防を繰り広げるSFミステリの名作です。後半、センス・オブ・ワンダーの極みのようなめくるめく展開に目を奪われる一方、消えた弾丸のトリックや動機の扱いなど、明かされていない謎がいくつも仕込んである。ところが……。

 特殊設定+倒叙ミステリ、しかも刑事vs.犯人の対決型という、まさに鴨がネギ背負ってきたような小説なのに、翌年に刊行されたアイザック・アシモフ『鋼鉄都市』(ハヤカワ文庫SF)――第七信に登場した『はだかの太陽』に先立つシリーズ第一作ですね――に比べると、ミステリ畑からの言及は少ない気がするのです。というより、今まで私たちがSFミステリを論じる際、ベスターの破天荒な作風を見過ごしてきたことが、特殊設定ミステリを窮屈なものにしてしまった原因の一つかもしれません。

 とはいえ、第七信で新保さんがこの話題に触れなければ、たぶん私も『破壊された男』を思い出すことはなかったでしょう。こういう発見こそ、往復書簡の醍醐味だいごみといってもいいと思います。

 最後のほうは駆け足になってしまいましたが、そろそろ年末ベストの投票シーズンで、気持ちまで慌ただしくなりがちです。秋の夜長、寒暖差の激しい季節になりますので、お風邪など召しませぬように。

 二〇二二年九月二十六日


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【第九信】
新保博久 →法月綸太郎
/すべてのミステリは特殊設定である


法月綸太郎さま

 ご心配ありがとうございます。私は視力気力とも減退して、年度内新刊があまり読めなくなったので、ベストテン投票など、ついぞご無沙汰しているのですよ。今や改訳版を含めて再読のほうが多いでしょう。

「心理試験」も、別な必要もあって乱歩の初期短編を何度目か(十何度目かもしれない)に再読していて行き会い、蕗屋清一郎が殺す金貸しの老婆が何歳だったか忘れていて今さら驚きました。法月さんは記銘しておられますか?

「もう六十に近い老婆」!

 ということは五十八、九歳。その「老婆」より十歳も馬齢を重ねてしまった私は、かつて読んだ書物の内容をいくら忘却しきっていても不思議ではありません。

 倒叙ミステリの話をするつもりが、かびの生えた話柄ばかりでなく少しはホットニュースにも触れようと、流行の特殊設定ミステリに寄り道したところ、まさに特殊設定倒叙ミステリともいうべきアルフレッド・ベスター『破壊された男』(あるいは『分解された男』)があったことを貴信で思い出させてもらい、ミッシングリンクがつながった奇瑞を喜んだものです。SF界の『Yの悲劇』ともいうべきオールタイム・ベストの常勝将軍であるA・C・クラーク『(地球)幼年期の終わり』(光文社古典新訳・創元・ハヤカワの各文庫)や、S・スタージョン『人間以上』(ハヤカワ文庫SF)を抑えて第一回ヒューゴー賞を射止めた『破壊された男』、伊藤典夫訳が二〇一七年に文庫化されて読んだはずなのに綺麗さっぱり脳内メモリから失われており、まるで初読のようでした(主人公が殺人計画をエスパー警官に読心されないように、脳内を満たしておくれ歌の一節、沼沢洽治訳のほうによる「《もっと引っぱる、》いわくテンソル」というのだけは憶えていた)。

 確かに、アシモフ『鋼鉄都市』『はだかの太陽』や、地球外生命体の探偵と犯人がそれぞれ地球人に憑依ひょういして追跡劇を展開するハル・クレメント『20億の針』(創元SF文庫)などに比べて、ベスターのはSFミステリの好例として挙げられることが多くはありません。ランドル・ギャレット『魔術師が多すぎる』に都筑つづき道夫みちお氏が一九七一年に書いた解説は「SF本格推理小説」と題されていますが、「長篇SFで、しかも本格推理小説」の先行例として前掲のアシモフの二作(第三作『夜明けのロボット』はまだ刊行されていなかった)のほかに、宇宙から帰還して母星が壊滅しているのを発見したロケットが地球殺しの「犯星さがしに乗りだす」、「ポール・アンダースンの『審判の日』(ハヤカワ・SF・シリーズ)ぐらいしか、頭に浮かんでこない」そうです。この解説はハヤカワ・ミステリ文庫版『魔術師が多すぎる』にも加筆して再録されていますが、おそろしくプレミア価格がついているので、解説だけを読むなら『都筑道夫ポケミス全解説』(フリースタイル)が簡便でしょう。それはともかく都筑氏が『破壊された男』に触れなかったのは、倒叙だから本格物ではないという判断からでしょうか。

 そもそも『破壊された男』が一九六五年に初訳された当時、これを倒叙ミステリだと認識した読者がどれほどいたでしょう。ハヤカワ版の裏表紙には確かに「卓抜な着想と叩きつけるような文体を駆使して描いた異色SFミステリ!」とうたわれていたものの、「倒叙」という言葉は見あたりません。SFファンには「倒叙」が通じそうになかったこともあるのでしょう。創元版『分解された男』はフロントページの内容紹介でも厚木あつぎじゅん氏の巻末ノートでも、倒叙どころかミステリであることにすら言及していません。

 原書の刊行は、法月さんの第八信にもあるように一九五三年。七〇年以前の海外作品は刊行後十年間、邦訳されなかった場合、翻訳権フリーとなる「十年留保」という日本独自の優遇措置があったので、特典にあずかれる時期まで待った結果、刊行時期が重なったのか、ハヤカワ版も創元版も同じ六五年五月に出版されました。

 こういうバッティングは、事情は違いますが、最近H・H・ホームズ(アントニイ・バウチャー)のNine Times Nineで、六十二年前の初訳版が『密室の魔術師』(扶桑社ミステリー)として初めて文庫刊行されたのと、国書刊行会が満を持して叢書そうしょ〈奇想天外の本棚〉第一回配本に送り出した新訳版『九人の偽聖者の密室』とほとんど同時刊行という例に出くわしました。これは商業的にどちらに凱歌がいかがあがるか分かりませんけれど、ベスターの場合はハヤカワ版二百九十円、創元版百九十円、小遣いの乏しい若年層がまず中心になってファンダムを形成した本邦SF界において、どちらがよく読まれたか想像するまでもありません。やがて名匠の名をほしいままにする伊藤典夫氏もこれが最初の訳書なので、まだシンパはいなかったはずです。

 というせいでもなく、倒叙ミステリはアイルズ『殺意』がフリーマンのソーンダイク博士流とは異なって名探偵物語でなく、犯罪心理小説ふうに復活させ、リチャード・ハル『伯母殺人事件』(創元推理文庫)などそのフォロワー時代を経て、ロイ・ヴィカーズの〈迷宮課シリーズ〉(代表作「百万に一つの偶然」)のような、犯行発覚の手がかりの意外性を〝売り〟にした短編連作に受け継がれていたものの、「刑事コロンボ」の日本での放送は七〇年代からで、『破壊された男』のような犯人vs.探偵の対決型倒叙の魅力が日本のミステリファンに浸透するには一九六五年は時期尚早だったようです。

 敗戦後すぐのころ江戸川乱歩が『殺意』を読みかけ、「冒頭の感じでは、ただ殺人のある普通小説のように思われたから」中断していたのを、一年半を閲して英米のミステリ評論家が高く評価しているのを知って最後まで読みきったところ、「普通小説とも云えないことはないが、同時にまた探偵小説心を可なり満足させる名作であることが分った」(光文社文庫『幻影城』所収の評論「倒叙探偵小説」)という。倒叙文学であるミステリをさらに倒叙化した結果、物語展開の時間的推移においてミステリでない一般文学と見かけ上、変わらなくなったのが犯罪小説ふう倒叙推理なのですから、『破壊された男』の読者もSFガジェットの奔流に圧倒されて、SFミステリというより普通のSFを読んだ印象が強かったのではないでしょうか。

 ところで『破壊された男』のことを特殊設定倒叙ミステリと呼んだりしましたが、特殊設定を使っていないSFなんてものは存在するのでしょうか? このジャンルには門外漢であるせいか、非特殊設定SFの例は思い浮かびません。逆に、特殊設定を使っていればすべてSF、ないしその類縁の作品(いわゆる特殊設定ミステリを含めて)になるかというと、それは違うと思うのです。

 たった一つしか例を出せないものの、特殊設定を使っていてSFでない、しかしミステリではあるというものがありますでしょう。はい、三谷みたに幸喜こうき氏の戯曲/映画「12人の優しい日本人」(一九九〇年初演、翌年に映画化)ですね。東京サンシャインボーイズの舞台を私は観ていなくて、映画だけからの感想しか言えないのですが、レジナルド・ローズ原作のドラマ/戯曲で、映画版(一九五七年)をシドニー・ルメットが監督した陪審裁判劇「十二人の怒れる男」のパロディないしリスペクト作品には違いないでしょう。陪審員のうち十一人が有罪判決を出してさっさと終わらせようというのに一人が無罪を主張して、少しずつ覆していくオリジナルの設定を裏返して、十一人の無罪主張に一人が有罪で抗してゆく。この趣向を成立させるために、陪審制度のない現代日本にそれが存在するという〝特殊設定〟が導入されます。それ以外に現実と異なる設定はなく、SF的要素はまったくありません。パラレルワールドなのだから既にSFだと強弁されるかもしれませんが、「12人の優しい日本人」はコメディで、ミステリと考える人は多くとも、SFだと見なす人はまず、いないでしょう。特殊設定ミステリについて語っている発言をかなり読んだつもりなのに、この作品に言及したものはほとんど目に留まっていないのですが。

 もっとも、特殊設定ミステリに積極的な作家のひとり阿津川あつかわ辰海たつみ氏には、「六人の熱狂する日本人」(二〇一八年。光文社文庫『透明人間は密室に潜む』所収)と題名からして三谷戯曲を意識したような(エピグラフに言葉が引かれているレジナルド・ローズのオリジナルよりも)短篇があります。しかし、若林わかばやしふみ氏がホストを務めたトークイベント記録集『新世代ミステリ作家探訪』(二〇二一年、光文社)によると、「『十二人の怒れる男』と三谷幸喜さんの戯曲『12人の優しい日本人』はもちろん参考にしていますが、実は本当にやりたかったのは(筒井つつい康隆やすたかさんの)『12人の浮かれる男』(一九七八年初演。新潮文庫)」だったという。三谷戯曲は背景が現代なので一種の特殊設定ですが、筒井作品のほうは陪審制が復活した近未来だからSFかな(大して違わないか)。「六人の熱狂する日本人」は、裁判員制度ができた(二〇〇九年)現実を取り入れた作品なので特殊設定ではないともいえますが、チェスタトンの『木曜日だった男』(一九〇八年。光文社古典新訳文庫)ばりにリアリティを蹴とばしてゆく痛快さがありました。

 阿津川氏は同じ若林氏との対話で、「特殊設定ミステリとSFミステリは違う!」とも主張していて、「簡単に言うと、特殊設定ミステリは現実社会がベースで、そこに一つだけ特殊な設定がある。逆にいえば特殊設定以外は、現実の社会と全く変わらないわけです」、「SFミステリになると、今度は特殊設定が社会全体に影響を及ぼすような形で描かれます」という。そういう考え方なら、私も特殊設定ミステリを忌避きひしなくてよいかなと思う反面、一つでも特殊設定を入れるとバタフライ効果どころでない影響を世界に与えるのではないかとも懸念します。与えない、と割り切ってしまうのは、むしろ空々しくないでしょうか。

 いや、本当のところ、SFがすべて特殊設定かどうかは知識がないので保留するとして、ミステリこそすべて特殊設定小説といえるのではないかという気がしています。明察神のごとき名探偵など『破壊された男』のリンカーン(・ライムではない)総監ならずともエスパーのように見えますし、犯人も目撃されないうちに逃げるべきなのに密室をせっせとこしらええたり、作為まるだしのアリバイを主張して崩してくれと言わんばかりの容疑者なども、すべて特殊設定世界の住人かもしれません。ことは本格ミステリに限らず、まいど後頭部を気絶するほど殴られながら脳障害も起こさないハードボイルド探偵も同じ眷属けんぞくのような……

 このあたり、法月さんのお考えとあまり乖離かいりしていないようで、どうも議論になりませんね。倒叙のほうの話を少ししましょうか。

 山中峯太郎翻案の名探偵ホームズ『深夜の謎』『恐怖の谷』(ともに一九五四年)=倒叙ミステリ説は、ミネタロッキアンである私の脳裏にもチラと横切っていたのですが、江戸川乱歩や都筑道夫の名前を頻出させるのはまだしも、山中氏の話題では当今の若いミステリ読者にそっぽを向かれる(死語?)かと控えておりました。原作発表の順序にはこだわらず、山中翻案の三冊目に選ばれた『怪盗の宝(四つの署名)』は犯人の回想部分が短いためか、構成を転倒させずに倒叙形式にのっとりませんでした。最初の二冊が、町田暁雄氏のいう〈発明された倒叙〉なのか〈存在する倒叙〉かは、私がかれたわけでもなさそうですが、〈偶然に生成した倒叙〉というところでしょうか。

『緋色の研究』の二部構成の前後を入れ替えて時系列どおりにするのは峯太郎が最初ではなく、コナン・ドイルが発表したのが元号でいえば明治二十年(一八八七)、それから十年余のタイムラグを経て、原抱一庵はらほういつあん「新陰陽博士」(一九〇〇年。論創海外ミステリ『シャーロック・ホームズの古典事件帖』に再録)などとして紹介されたあと、明治三十四年(一九〇一年)、森皚峰もりがいほう「モルモン奇譚」(大空社〈明治翻訳文学全集〉『森皚峰・佐藤紅緑集』に再録)が邦題からうかがわれるように倒叙構成……を意図したかどうか時系列に直して世に問うたそうです。峯太郎がこれに影響されたと断定はできないのですが。

 峯太郎は『深夜の謎』はしがきで、「日本の少年少女に、もっともおもしろいように、すっかり、書きなおした」と述べながら、具体的な方針には触れていません。あるいは、自身にとって探偵物語は初挑戦だっただけに、『恐怖の谷』ともども西部劇的な後半部を先に書いて筆慣らしをしたかったのでしょうか。かつての全二十巻を大部の三冊に集成した『名探偵ホームズ全集』(二〇一七年、作品社)の第三巻解説で、平山雄一氏は往年のポプラ社の担当編集者(秋山あきやま憲司けんじ氏)の言を引いて、ホームズは〈世界探偵小説文庫〉叢書の最初の三点で打ち切る予定で峯太郎にもコナン・ドイル以外の作品を訳してもらったが、「ホームズの売れ行きが圧倒的だったので」続刊させて、やがて全集に発展していった経緯を明らかにしています。峯太郎本人も、書くほどに調子が出てきたのでしょう。

 ソーンダイク博士(と一部はホームズ)を呉田くれた博士として翻案した三津木みつぎ春影しゅんえいは逆に、原短編集『歌う骨』では例外的に倒叙物でない「前科者」にまず手を着け、「反抗のこだま(別邦題「歌う白骨」/「船上犯罪の因果」)」や「パーシヴァル・ブランドの替玉」を普通の犯人探しに改作したものです。「当時の少年読者にとって、探偵小説の醍醐味は〝犯人当てフーダニット〟だったため、春影も翻案にあたって倒叙ミステリーを犯人が最後に明かされる普通のミステリーに再構成したと思われる」という末國すえくに善己よしみ氏は、フリーマンの原作「計画殺人事件(練り上げた事前計画)」の倒叙形式を春影も踏襲した「破獄の紳士」(一九一二=大正元年)を「日本で初めて紹介された倒叙ミステリかもしれない」(作品社『探偵奇譚 呉田博士【完全版】』編者解説)と措定しています。倒叙物の代表とされる「オスカー・ブロドスキー事件」をスルーした春影も、「消えた金融業者」や中編「死者の手」は倒叙形式を崩していません。後者に基づく『浮出た血染の手形』(盛林堂ミステリアス文庫より復刊)では探偵役を田暮たぐれ博士と呉田を倒置させたのは中興館書店以外では呉田の名前を使わない約束をしていたのでしょうか。原作の倒叙を再倒叙して犯人を秘めたり、そのまま活かしたり、翻案姿勢にゆらぎが見られるのは、江戸川乱歩も横溝よこみぞ正史せいしも登場する以前(両氏とも呉田博士の愛読者でした)、読者も何を求めているのか曖昧な黎明れいめい期特有の現象なのかもしれません。

  二〇二〇年十月六日
 松坂健氏の一周忌を目前に


(次号、第十信につづく)

《ジャーロ No.85 2022 DECEMBER 掲載》


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