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ミステリとポストヒューマン|海老原 豊・謎のリアリティ【第50回】

多様性の加速度を増すいっぽうの社会状況に晒され、ミステリが直面する前面化した問題と潜在化した問題。重層化した「謎」を複数の視座から論ずることで、真の「リアリティ」に迫りたい

文=海老原 豊

『そして、よみがえる世界。』
西式にししきゆたか(早川書房)

NEO HUMANネオ・ヒューマン 究極の自由を得る未来』
ピーター・スコット― モーガン(東洋経済新報社)

 西式豊『そして、よみがえる世界。』、方丈貴恵ほうじょうきえ『名探偵に甘美なる死を』の結末にふれています。

 第十二回アガサ・クリスティー賞を受賞した西式豊『そして、よみがえる世界。』(早川書房)は、VR(仮想現実)、BMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)、遠隔操作ロボットなどSFガジェットに溢れている。「特殊設定ミステリー」(北上次郎の選評)とも「仮想空間と先端医療がテーマの近未来SF」(法月綸太郎の選評)とも言える。本論では、ミステリかSFかというジャンル区分より、ジャンルを横断しながら本作が肉薄したものに注意を向け、作品を考察していく。キーワードは、鴻巣友季子の選評「ポストヒューマニズムものとしても迫力満点」にあるポストヒューマンだ。

 あらすじとSF設定を紹介したい。時は二〇三六年。探偵役の視点人物は、脳神経外科医の牧野大。一流の外科医としてアメリカに滞在中、強盗に襲われ脊髄を損傷する。以来、首から下を動かせず、知覚も失う。脳内にインプラントを埋め込み信号を読み取る〈テレパスシステム〉を利用することで、遠隔操作型ロボット〈パボット〉を操作し、牧野は半身不随の自分を自分で介助する。さらに〈Vバース〉という仮想現実でアバターとなり自由自在に動き回れる。

 テレパスシステムとVバースは日本の新興企業SME社によって開発された。篠原義肢装具製作所を前身とするSME社は、障害者の失われた身体機能の回復を目指し、人間の脳を外部装置に直に接続するBMI技術を開発。BMIで外部装置を動かすトレーニング場としてVRを構築した。二〇二九年にVバースとしてこの仮想空間が一般リリースされ、国内外でシェアを拡大し、今では障害者のみならず健常者も親しむものとなった。テレパスシステムを通過し、物理空間ではパボットに、仮想現実ではアバターになることで、障害のために課されていた制限が解消されるようになった。

 牧野はVRで手術のトレーニングを重ねる。手術支援ロボットをテレパスで操作することで、以前と同じ水準での手術が可能だと信じている。病院への就職活動に苦戦している時、恩師の森園から連絡が舞い込む。病魔に冒された森園の代わりに、牧野はSME社のラボで人工視覚=バーチャライトの埋設手術をエリカという少女に施す。手術は成功しエリカは視覚を取り戻すが、牧野にはエリカが「見え過ぎている」ように見える。ラボのメンバーが何か隠しているのではと疑念を抱く牧野に、森園は不可解な言葉を残し転落死する。状況から森園の死は自殺と処理されたが、納得のいかない牧野。エリカと自分にだけ見える「黒い影」の存在を調べるうちに、牧野はラボメンバーたちから衝撃の真実を告げられる。

 障害者の補助/強化として遠隔操作ロボットやアバター、VRを設計するSF作品は多い。古くはアン・マキャフリー『歌う船』(一九六一年)や二〇二二年に続編が公開されたジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター』(二〇〇九年)がすぐに思い浮かぶ。ジョン・スコルジー『ロックイン ―統合捜査―』(二〇一四年)は、パンデミック後の世界を舞台に感染症の後遺症のために身体を動かせない人たちと、社会参加のために開発・利用されている個人移送機〈スリープ〉が登場する。生物としての人間がもつ限界をテクノロジーによって超越し、人間以後の存在=ポストヒューマンを想像/創造することがSFのビジョンの一つであることは、拙著『ポストヒューマン宣言 SFの中の新しい人間』(小鳥遊書房、二〇二一年)で詳述したとおりだ。

 本作がアガサ・クリスティー賞を受賞したのはミステリとして評価されたからだ。ただ、ミステリ的な要素よりSF的な要素のほうが印象的なこの作品を最初に読んだ時、SFとカテゴライズしたほうが高く評価できると私は思った。しかし、今はミステリ/SFというジャンル区分ではとらえきれないところに、本作の(不)可能性があるのだと考えている。これはミステリの人間像と関係している。

 ミステリにおいて人間は物理的な存在であると同時に精神的な存在だ。物理的な存在とは、つまるところ身体=死体。物理トリックという言葉があるように死体は物質として存在し、それをどうこうするには物理的な仕掛けを必要とする。森園の「転落死」が「殺人」なら物理トリックが必要とされる。私が本作に期待していたのは、人間身体に物理的な影響を及ぼすトリックそれ自体にテクノロジーが関わることだった。BMI/VR/ロボット工学が接続され物理的現実は解体・拡張されているが、他方でミステリ的身体=死体は手付かずのまま。このチグハグ感、テクノロジーの不徹底さは、ミステリの本質を逆照射している。どんなにテクノロジーが進んでも、物理的身体=死体は解体しえないのだ。

 しかし、ミステリにおいて人間は単に物理的な存在ではない。意識、もっといえば動機をもった精神的な存在でもある。物理的トリック同様に、ホワイダニット(動機の解明)が謎として提示されることもある。死体が物理的実体として存在しているのに対して、動機は論理的関係として表現される。犯人の動機は言動や状況、残された証拠から論理的に推定するほかなく、死体がそこに存在しているようには動機は存在していない。動機に焦点を合わせるなら、本作で注目するべきは森園殺しの動機ではない。森園を殺した瀧本がVRに解き放った連続殺人鬼・霧谷の再現人格だ。

 瀧本はSMEのラボとは別に政府から支援を受けた〈脳科学研究統合推進プログラム〉(通称:脳プロ)で意識のアップロードを研究していた。死ぬ直前の走馬灯に注目し、死の瞬間の脳の神経活動をデータ化してコンピューターにアップロードすれば、デジタルな不死を達成できると瀧本は確信する。政府から提供を受けた被験者は死刑囚で、その中に、現実世界の恵理花を監禁・拷問し、さらには他の多くの人を殺した〈ヤドカリ連続殺人犯〉霧谷がいた。牧野が手術をしたエリカは、霧谷に回復不可能なまでに傷つけられかろうじて一命を取り留めている恵理花をもとにVRに作られた人格であった。失敗続きの意識のアップロード計画は、なぜか霧谷の意識だけ成功する。VRを自由に生きる霧谷が最終的な標的にしたのは、VRで痛みも感じる再現人格のエリカではなく、「あの時の少女そのもの」(=恵理花)だ。「あの少女は本当に霧谷の暴力に屈していたのか。今度こそ、その真実を確かめる」のが霧谷の動機だ。BMI/VR/ロボット工学が組み合わさった結果、ミステリにおける人間の精神性、すなわち動機はリアルとバーチャルを往来する。もはや動機はヒューマンな身体にのみ宿るわけではない。

 霧谷がコンピューターに人格を再形成されたとき「いったいどうして霧谷の意識だけがアップロードに成功したんだろうか?」と牧野は問う。医師・本荘は「多分あれは、脳プロのスタッフがそう思い込んでいただけで、霧谷そのものの再生された意識ではなかったんだと思います。(……)もともと霧谷の行動は人間とは思えぬ酷いものでした。だから私たちが戦ったあれも、人間の意識とは呼べないレベルの代物だったのに、ひとでなしという共通点だけで同一の存在だと勘違いされたんです」と答える。連続殺人を平気で行えるサイコパスは人間の人格的には「外れ値」だ。VRで再現されたときに、普通ならば人間らしくない振る舞いとして否定される振る舞いも、「元データがサイコパスのものだから」として許容されたのではないか、というのだ。

 問題となるのは「人間的な振る舞いとは何か」だ。「人間的な振る舞い」が定義できたとして、ミステリの登場人物は果たしてその人間たり得るのか。これは「ミステリは人間が描けていない」問題と似ているようで異なる。殺人事件は「人間Aが人間Bを殺す」と抽象化できる。人間Aの人格や動機、広い意味でのキャラクターが現実の社会の人間と比べ、ミステリ的な記号性を強く付与されている場合、「ミステリは人間が描けていない」と批判される。この批判に対して、ミステリは(社会通念として理解される)人間を描くことではなく、ミステリ(謎―論理的解決)を描くことを主眼とするという反論は成立する。だが本書が提起するのは「人間Bを殺すからAは人間である」といういささか倒錯した事態だ。A(霧谷)はサイコパスなので、「サイコパスは人間ではない」と反論できるが、サイコパスは人間の中で非人間的な振る舞いをする個体を指しているので、生物的なカテゴリとしては人間だ。ただし生物的な存在としての霧谷はすでに死刑が執行され、この世に存在していない。VR上でアバターを攻撃し、現実世界でパボットを駆使して破壊活動をする霧谷は、ただのバグかそれとも「本当の人間」か。

 私は先に、ミステリにおいて人間は物理的な存在であると同時に精神的な存在だと述べた。BMI/VR/ロボット工学が障害者のハンディキャップを解消しようとも、ミステリにおける物理的な身体(森園の死体)を消失させる物理トリックを生み出すには至らなかった。これは本作品の不可能性だと私は指摘した。他方、精神的な存在、すなわち動機については、リアルとバーチャルは攪乱されデジタル殺人鬼・霧谷が生まれた。これは本書の可能性である。しかし、デジタル殺人鬼・霧谷が「本当の人間」かどうかは、問いとして残る。これは、人間をテクノロジーで拡張した先に誕生した存在をヒューマンとするのか、それともヒューマン以降の存在=ポストヒューマンとするのか、というSF的な問いだ。本書はミステリにおける人間の二面性を、SF的なガジェットで解体/構築できたもの(可能性)・できなかったもの(不可能性)として示す。ポストヒューマンを描いているが、ポストとヒューマンのあいだに境界線「/」が存在している。これこそが本作品がミステリ/SFのジャンルを横断しつつ肉薄したものに他ならない。

 最後に。現実の世界でポストヒューマンは可能なのか。ピーター・スコット―モーガン『NEO HUMAN 究極の自由を得る未来』(二〇二一年)を紹介し、現時点で私たちがどこまでポストヒューマンに近づいているのか考えたい。そして来るべきポストヒューマンミステリでは、何が問われるのかを素描したい。

 ロボット工学の博士号を持ち、コンサルティング会社でエースだったピーター。四十代でアーリー・リタイアし、第二の人生を満喫しようと思っていた矢先、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断される。「病気」は受け止めるが「症状」は受け入れず、テクノロジーで自分を新しい人間へと進化させるのだと決意する。ALSが「人間らしい生活」を困難にするのであれば「人間」を再定義し、AIと融合することで自分は新しい人間として生きていくと宣言する。

「僕は人類史上初の完全なサイボーグになる」というピーターは、自身をコンピューター・ネットワークに接続し、様々な外部装置を通じインプット/アウトプットする未来の人間を夢見る。AIと連動させ眼球の移動だけで会話をする、アバターが自然な表情を作る、脳とコンピューターを直接つなぐ、電動車イスを現実世界の分身として利用する……。荒唐無稽に聞こえるピーターの野心はBMI/VR/ロボット工学がないまぜになったビジョンだ。「僕が実際にいるのが物理的現実の世界なのか、拡張現実の世界なのか、完全にバーチャルな世界なのか……なんてことは、そのうちどうでもよくなるだろう。(……)大事なのは、そこで経験していることがどれだけリアルなのかという一点だけだ」と言うピーターは、まるで『そして、よみがえる世界。』の登場人物のようだ。残念なことに二〇二二年にピーターは、「ピーター2・0」への道半ばにして亡くなってしまった。その軌跡はノンフィクションとして始まりながらフィクションとして終わる『NEO HUMAN』に記されている。

『そして、よみがえる世界。』を『NEO HUMAN』のあとに読むと、ポストヒューマンミステリのチャレンジ(挑戦/難問)が浮かび上がる。物理トリックによる「死体がない」、アリバイトリックによる「現場にいない」を、物質的存在の次元から根本的に書き換えられるか? 完全なVRで殺人は可能か? 可能だとしたら何を意味するのか? あらゆるトリックが可能であるVRで不可能なトリックはあるのか? 例えば、方丈貴恵『名探偵に甘美なる死を』(東京創元社、二〇二二年)は現実世界の館とVRの館を連動させた命がけの推理ゲームだ。VRならではの密室殺人、VR装置がなければ成立しない現実世界での密室殺人が描かれている点で革新的だ。ただし、作中のVRはミステリゲームのために構築されていて、人間存在を探求するポストヒューマンミステリとは焦点が異なる(そもそもポストヒューマンミステリを目指したわけでもないだろう)。西式や方丈に続き、この難問に真正面から挑戦するポストヒューマンミステリの登場を私は楽しみにしている。

《ジャーロ No.86 2023 JANUARY 掲載》



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