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ミステリーのさらなる楽しみ方|森 英俊・Book Detective 【ディテクション75】

文=森 英俊

 筆者に限った話ではないが、長引くコロナ禍により、中止を余儀なくされたり、足が遠のいてしまっているイベントが数々ある。自身に関係のあるものでいえば、毎年、百人規模で開催されていた、大学サークルのOB会のパーティーは、2019年の春に開催されたのを最後に、一度も開かれていない。その一方で、「神田古本まつり」のように、2022年の10月末から11月初めにかけて、3年ぶりに秋開催されたものもある。

 古本つながりでもうひとつ、個人的に大きな影響をこうむったのが、都内各地の古書会館で毎週のように開かれている古書即売会。コロナ以前は、開場の一時間も前から会館の前に並び、同日開催のものがあれば、はしごもしていた。ところが、日々の新規陽性者数がかくも高水準に留まっていると、長時間並んだうえ、もっとも混雑している朝一番から会場入りする気になれず、おのずと来場者の最初の波がひいたあとに行くようになった。古本の強者たちがじっくり見たあととあって、その時間帯に自分の欲しいものがそうそう見つかるはずもないのだが、長年の習慣とはおそろしいもので、それでも即売会通いだけはやめる気になれない。

 家にいる時間が増えたことで、読書量が飛躍的に増したかというと、さにあらず。それまで一話も観ていなかったアニメ「名探偵コナン」にはまってしまったり、「科捜研の女」「名探偵モンク」「刑事フォイル」「ナンバーズ」「CSI:科学捜査班」などの、内外の推理ドラマをチェックしたりと、かえって読書時間が減ってしまう羽目になった。大ヒットドラマ「CSI:科学捜査班」にいたっては、スピンオフ作品を加えると、八百話近くの膨大な数になるから、録画したものを消化していくだけでも、ひと苦労。とはいえ、映像という新たなミステリーの楽しみ方を見出せたことは、ささやかな収穫だった。

 いささか前置きが長くなってしまったが、そんなことをつらつら考えたのは、『健さんのミステリアス・イベント体験記』(盛林堂ミステリアス文庫)という、すばらしく刺激的な本が出版されたから。そこには、「ミステリーの楽しみは読書だけに非ず」というコンセプトのもと、2010年から2021年にかけて著者みずからが体験した、ミステリーにまつわるさまざまなイベントが綴られている。健さんというのは、出版社の編集者を経て、複数の大学でホスピタリティ論を講ずるようになり、〈ミステリコンセルジュ〉とも称された、松坂健氏のこと。2021年になくなった松坂氏が十年あまりの間に参加したイベントの数は、実に百近くにものぼり、日本各地のみならず、台湾やスイスやドイツやルーマニアなど、海外で開催されたものもある。

『健さんのミステリアス・イベント体験記』は《日本推理作家協会会報》への94回にわたる連載をまとめたもので、最初の回で取りあげられたのは、2010年の8月に都内のホテルで開催された『伯爵夫人の相続人』。早稲田にあるリーガロイヤルホテル東京のロビーから宴会場までのデザインが、フランス・ロココ調で統一されているのを活かしたもので、イベント参加者たちは、フランスの古城の晩餐会への招待客として、伯爵夫人が三人の候補者のなかから相続人を選ぶ場面に立ち会う。ホテルの大宴会場では、実際にフレンチのフルコースが振る舞われたというから、宴会場の稼働が低下する夏場のホテルにとっても、ありがたいイベントだったようだ。

 これを皮切りに、松坂氏はさまざまなミステリアス・イベントに足を運んでいる。もっとも多いのは、展覧会・展示会・写真展・絵画展といった展示企画で、全体の半分ほどを占めている。それに次ぐのが、ミュージカル・演劇・朗読劇で、これが全体の5分の1ほど。そのあとは、講演会・トークショー・講座、朗読会・読書会・研究発表会・プレゼンバトル、コンベンション・記念イベント・作家会議、パーティ・偲ぶ会・授賞式などが続く(ここでは便宜上、類似したイベントをひと括りにしておく)。

 時間を惜しむことなく、実際に現地におもむき、みずから体験するという、そのバイタリティにも感心させられるが、そうするためには、常日頃からアンテナを張りめぐらせておくことが必須。実際、自分自身は気づいてさえもいなかったものがめじろ押しで、なかでも以下のイベントは、かえすがえすも行かなかったのが悔やまれる。

 2011年の3月に東京の草月ホールで開催された、「柳家三三で北村薫」公演:北村薫の〈円紫さんと私〉シリーズの劇中人物である円紫師匠に落語家の柳家三三がなりきり、「砂糖合戦」で描かれているエピソードを演じる。その部分は朗読劇に近く、これに北村薫と柳家三三とのトークショーが続く。

 2013年の1月に岡山県のせとうち児島ホテルで二日間にわたって開催された、「巡・金田一耕助の小径」大学:入学式から始まり、大学の授業に見立てた、横溝正史関連のさまざまな講義や講演がくり広げられる。夜には懇親会があり、二日目にもさらなる授業があって、卒業式となる。

 2016年の4月に日比谷シアタークリエで上演された、東宝ミュージカル公演「エドウィン・ドルードの謎」:文豪チャールズ・ディケンズの未完に終わった探偵小説を、ミュージカル仕立てにしたもの。作者の手で書かれることのなかった結末については、観客参加型で決着をつける手法が採られており、一幕目の終わったあとの観客の投票結果に基づいて、二幕目が演じられる。舞台上では容疑者は八人おり、解決も八通りあったとか。

 2017年の4月に下北沢でわずか三日間だけ上演された、「グリーン・マーダー・ケース」。ヴァン・ダインの古典的名作『グリーン家殺人事件』に新解釈を施した推理劇で、なんと、グリーン家の惨劇の真犯人が逮捕され、自殺したあとで、幕があく。探偵役が、あの鼻持ちならないファイロ・ヴァンスではなく、小説では脇役に徹している、マーカム検事だというのも面白い。

 2019年の8月に池袋のサンシャイン劇場で上演された、「オリエント急行殺人事件」。アガサ・クリスティの代表作のひとつだが、物語がほぼ列車内で進行するうえ、容疑者の数もかなり多いので、舞台化には相当な困難がともなう。舞台版では、容疑者の数を八人にしぼり、食堂車の上に中二階的なものを設け、コンパートメント八室を配置するという、二階建ての処理をした舞台セットで対応したという。尋問などの場面は食堂車で展開し、殺人事件が起きるその前後は、コンパートメントに人が出入りするという仕組みになっていたらしい。

 これらを含め、どの回のイベントも魅力的だが、94回にもわたる連載のなかで、松坂氏の慧眼ぶりがもっとも発揮されているのが、2018年の5月に平和島の東京流通センター第二展示場で開催された、「第26回文学フリマ東京」にふれた回。小さな出版社(リトル・プレス)や私家版といったものにも、目配せをしていた氏は(それらを取りあげた回もある)、小さな出版社や個人の愛好家たちが思い思いに本を即売する「文学フリマ」に対し、「これがなかなかすごい媒体に成長しつつある実感がある」と期待を寄せている。「だれもが版元になれる」時代のイベントだからこそで、実際、コロナで休止した期間はあるものの、回を重ねるごとに規模を拡大してきている。

 思えば、著者の松坂健氏とお会いしたのは、2019年秋の「神田古本まつり」の出店の前で短い会話を交わしたのが最後になってしまった。ご健在であれば、いまでもさまざまなミステリアス・イベントに意欲的に参加されていたはず。『健さんのミステリアス・イベント体験記』に収められている体験記は、氏の六十代から七十代にかけてのもので、自身の体験を通じて、ミステリーのさらなる楽しみ方を伝えたいという思いは、コロナ禍の現在だからこそ、いっそう心に響く。臨場感たっぷりの文章を通じて、松坂氏の体験を追体験することで、だれもがその場にいるような気になってくる。いまだかつて経験したことのない、この疫病が収束すれば、休止や中止を余儀なくされてきたイベントも次々と復活してくることだろう。そういった希望を与えてくれるという点でも、『健さんのミステリアス・イベント体験記』は、ぜひとも多くの方々に読んでもらいたい。

《ジャーロ No.86 2023 JANUARY 掲載》



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