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心の中に住む孤独な誰か|杉江松恋・日本の犯罪小説 Persona Non Grata【第4回】

文=杉江松恋

 推理小説から入って犯罪小説へと突き抜けた。

 そういう印象を私は水上みずかみつとむという作家に対して抱いている。

 ミステリー作家としての代表作は大作『飢餓海峡』いて他にはない。逃亡した殺人犯と真相究明を諦めない警察官の長きにわたる追跡劇を描いた小説であり、後続の警察小説には大きな影響を与えた。たとえば二〇一九年に刊行された奥田おくだ英朗ひでおつみわだち(新潮社)は、小説の構造から印象的なラストシーンに至るまで『飢餓海峡』への尊崇の念を感じずにはいられない作品だった。または小池こいけ真理子まりこ渾身こんしんの大作『神よ憐れみたまえ』(二〇二一年。新潮社)への影響も無視できない。昭和・平成・令和という三つの時代を生きた黒沢くろさわ百々子ももこという女性を描いた肖像小説である。同作には、百々子の家族を惨殺しながら、卑劣な素顔を暴かれることなく彼女の人生に伴走した人物がもう一人の主人公として登場する。この光と影の双方を描いた構造は、『飢餓海峡』を意識したものではないかと思うのだ。

『罪の轍』は一九六三年、東京五輪の前年に起きた吉展よしのぶちゃん誘拐事件が下敷きになっている。『神よ憐れみたまえ』は三井三池みついみいけ炭鉱爆発と横須賀よこすか鶴見つるみ二重衝突という二つの事故が同時に起きた一九六三年十一月九日が起点になる物語だ。よく知られているように『飢餓海峡』は一九五四年九月二十六日に起きた洞爺丸とうやまる転覆事故から着想を得て書かれた作品であり、実在の事件を元にして、関係者たちのその後を描く年代記になっているという点が共通している。水上が海難事故に取材して『飢餓海峡』を書いたのは、そうした大きな出来事でもなければ生じなかった偶然を小説内に取り入れるためであったと思われる。それによって人生を狂わされてしまった者が小説の主人公なのである。人生は偶然に左右される。それが水上小説を支配する論理である。

『飢餓海峡(上)』新潮文庫

 やや先走りすぎた。『飢餓海峡』については本稿の最後でもう一度触れることにする。まずはミステリー作家としての水上勉について概説しておきたい。

 簡略に年表的な事実だけを述べれば、こういうことになる。

 一九一九年三月八日、福井県大飯おおい郡にて生まれた水上は、一九二九年八月に京都臨済宗りんざいしゅう相国寺しょうこくじ塔頭瑞春院たっちゅうずいしゅんいんの徒弟となるため上京し、以降十七歳で還俗げんぞくするまで僧籍で暮らした。以降はさまざまな職を転々としながら働き、二十一歳で文学を志す。戦後は自身で出版社を起こすなど意欲的に動いており、宇野うの浩二うのこうじに師事して一九四八年には最初の小説著作『フライパンの歌』(文潮社→現・角川文庫他)を刊行している。しかし戦前からの持病であった結核が再発したことや、妻との離婚などもあって挫折し、三十三歳にして学齢に達した長女を実家に預け、自身は業界紙の編集者として働き始めた。しばらく文学からは遠ざかっていたが、一九五八年に刊行された松本まつもと清張せいちょう『点と線』(現・新潮文庫他)に触発され、自らも推理小説執筆を開始する。その結果書き上げたのが一九五九年八月に刊行された再起作『霧と影』(新潮文庫)であった。同作は第四十二回直木賞候補にもなっている。

 ここから進撃が続く。一九六〇年の『海の牙』(双葉文庫他)は水俣病に取材した作品で、一九六八年の厚生省認定よりもはるかに早く企業に病気の責任があると指弾した意欲作であり、第十四回日本探偵作家クラブ賞を獲得している。やや余談めくが、文芸評論家の荒正人あらまさひとが本作を同年刊行の『巣の絵』(現・角川文庫)と共に「社会派推理小説」の実作例として称賛したのが用語の定着した始まり、というのが定説である。

『海の牙』はしかし発表当時の反応は薄く、ひそかに水上は社会派推理作家としての自分に見切りをつけていた。しかし同作は『耳』(一九六〇年。現・角川文庫)と共に第四十三回直木賞の候補になる。本人が思うよりも社会派推理作家・水上勉には需要があったのだ。数年間は、出版社からその方向での注文が絶えなかった。量産期である。注文をこなしながら一九六一年三月、『別冊文藝春秋』七十五号に『雁の寺』(現・新潮文庫)を発表、これが第四十五回直木賞に輝いた。一九六二年には一年をかけて『週刊朝日』に『飢餓海峡』を連載するが誌面上では完結せず、加筆して一九六三年九月に単行本化した。一九六二年九月、やはり『別冊文藝春秋』に『五番町夕霧楼』(新潮文庫他)を発表、同作が実質的に推理小説との訣別けつべつ作となった。このあとの一九六三年、『文芸朝日』に三回にわたって掲載された『越前竹人形』(『雁の寺』と合本で現・新潮文庫)には、すでに推理小説へのこだわりはない。

 犯罪小説作家として水上勉を見た場合に重要なのは『雁の寺』『五番町夕霧楼』と連なる流れである。他の人間には理解しがたい事件関係者の心理を描く、という主題はこの二作にむしろ明確化されている。『飢餓海峡』は、両作の間に配置すると実に収まりがいい。

 大木おおき志門しもん掛野かけの剛史たけし高橋たかはし孝次こうじ『水上勉の時代』(二〇一九年。田畑書店)は、作家の生誕百周年記念で刊行された研究書だ。編者の一人である高橋は「水上勉の社会派推理小説――同時代評と応答から」を寄稿しており、当時水上作品がどのように受け止められていたかを知る手がかりになる。たとえば第一作『霧の影』に対しては「大きな欠陥としては、作者の提示する条件だけでは推理ができないこと」(中田なかだ耕治こうじ)といった声に代表されるように、謎解き小説としての形式不備を指摘する声が多かった。ただし、小説としての構成には誰もが高い評価をつけている。これに対し水上は「私の立場」(『文学』一九六一年四月号)において、「要するに私は登場人物たちの生活を書いているにすぎない」と、推理過程よりも題材とする事件に寄り添うことを重視する姿勢であることを認め、後にはインタビューに対して「私の小説は、犯人を推理する推理小説ではなく、犯人が育ってきた過去を推理する推理小説です」(大伴おおとも秀司しゅうじ「水上勉の周囲」『別冊宝石』一九六二年十二月号)と謎解きの作家であることを否定する発言を行っている。

 初期作品を読んでいて気づかされるのは、作者本人の反映としか思えない要素が色濃いことである。たとえば『霧の影』は故郷である福井県若狭わかさ海岸近辺で起きた変死事件を扱ったもので、そこに一時水上が生活のために行っていた紳士服行商に関する話題が絡む。第二作『巣の絵』で殺人事件の犠牲となる芸術家の、妻と離婚し、生活のために娘を実家に預けて一人で住んでいる、という暮らしぶりはまさに再デビュー前の水上そのものだ。こうした具合に、作中に分身を置くことで水上は小説を書いていたのである。俯瞰ふかん的に対象を観察することは得意ではなく、小説のアクチュアリティ、現実との接続を常に重視した。

 もう一つ顕著なのは、偶然要素の使い方が非常に上手うまいことである。水上がどういう作家であるか当時最も理解していたのは、『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』で時評を担当していた大井おおい廣介ひろすけではないかと思う。たとえば『巣の絵』に対して大井は「被害者を偶然災難に捲込んだ設定が、すこぶるユニークなんだ。一体どうしてああいう設定を思いついたか、本人にきいてみたくなる」と書いている。まさに『巣の絵』の魅力はそこにあり、日常空間が一つの偶然によって殺意を催させる非日常のそれに変化する瞬間が物語最大の山場なのである。こうした場面が各作品にある。主婦と生活社内の労働争議を題材として書かれた『耳』でも、犠牲者がある偶然に遭遇していたことが決め手となって事件が解決する。こうした要素は初めから手がかりとして置かれているわけではなく、謎を解こうとする者が事件の中に分け入って、その奥をのぞき込んだときに初めて判明する事実として読者に示されるのである。謎解き小説として確かにフェアとは言い難いが、犯罪者、あるいは被害者心理の不思議を追求する小説としては絶好の手法である。他人からは理解できない不思議、その人だけに見える予兆が事件を生みだすのだ。

 前出の『雁の寺』は、水上が推理小説的約束事に拘らずに書いた作品で、現在ではそういう視点から読まれることも少ないが、まさしく犯罪小説である。この小説の中心人物は三人いる。友人の絵師から情人を引き取って内縁の妻とする住職・北見きたみ慈海じかい、彼に面倒を見られることになる里子さとこ、寺の小坊主である慈念じねんだ。描写は主として里子の側から行われる。慈海の性欲は強く、日課としてその相手をしなければならない。そのような日々が続く中で、里子は慈念が自分を見る視線に不安を覚えるようになる。だが、慈念が身寄りのない捨て子であるということを知ったとき、負の感情が一気に逆方向に変わり、「なんでもあげる。うちのものなんでもあげる」と彼に対して衝動的に体を開いてしまうのである。

 ここから一つの事件が起きる。ごく限られた人間関係を提示して、その中で何が起きるかという展開で読者を引き込んでいく小説で、フランスの心理スリラーを思わせる。ここには『海の牙』のような社会告発の要素は皆無であり、逆に濃いのが水上自身の個人体験に起因する怨念だ。寺で修行をした少年時代、和尚に受けた仕打ちが納得のいかないものだったからである。仏教寺院を始めとする宗教者の俗物性を描いたものとみることもできるが、どう考えても先行するのは個人的体験だろう。

 前述したように『雁の寺』は第四十五回直木賞作品となった。この回から選考委員に松本清張が加わっている。水上に大きな影響を与えた松本は、木々きぎ高太郎たかたろうのように推理小説かつ文学という形で評価を与えた選考委員がいるのに対し、推理小説的展開になった瞬間に迫力が落ちる、作者自身の少年時代の体験に根ざした濃密な作風こそが魅力、と断じている。水上を理解した評だ。松本・水上を社会派推理小説作家の両雄として並置する向きが当時は多かったはずだが、作家当人は互いの資質に違いがあることをよくわかっていた。

『雁の寺』は単独で存在するわけではなく、『霧の影』で水上が若狭海岸の情景を書いたとき、すでに書かれることが決まっていたのだと言える。そうした形で水上作品は連鎖していくのである。『雁の寺』の一年未来には『五番町夕霧楼』が待っていた。

 だが、この作品について触れるためには他作家の別の作品に言及しなければならない。三島みしま由紀夫ゆきお『金閣寺』である。『五番町夕霧楼』と同作は共に、一九五〇年七月二日に起きた金閣寺放火全焼事件に題材を採っている。発表は三島のほうが早い。『新潮』一九五六年一月号~十月号が初出で、同年十月に単行本化された(現・新潮文庫)。焼け落ちた金閣寺は一九五五年に再建されている。焼失時は金箔が剥げ落ちて質素な姿になっていたが、創建当時の荘厳な姿として再び蘇った。三島作品は再建された金閣寺の光り輝くビジョンなしには成立しなかったはずである。

『金閣寺』 新潮文庫

 金閣寺を焼いたのは同寺見習い僧侶のXという青年だった。放火後に自殺を図るも一命を取り止め、ために談話が残っている。彼が重度の吃音症きつおんしょうであることが人格形成に強く影響したと見られ、また寺内での人間関係から相当の心理的圧迫を受けていたことが判明している。逮捕され、服役した後に統合失調症が進行したという証言もあり、そうした精神的疾患に起因する犯行であったという可能性も大きい。

 三島の『金閣寺』は妄執、オブセッションの小説である。Xにあたる人物〈私〉は、僧であった父の影響もあって金閣寺に畏怖を抱きながら成長する。彼と現実の間には常に金閣寺が立ちはだかる。たとえば生身の女性と性交渉を持とうとすると、金閣寺が出現して〈私〉の欲望を縮退させようとするのである。金閣寺が絶対美の象徴として存在することの意味を彼は考え続ける。三島が秀逸なのはこの小説を戦争小説として書いたことで、戦火によって焼失するはずだった金閣寺がなぜか残ったことで、〈私〉が考える世界の秩序は崩壊する。そして金閣寺は焼かれなければならない、焼け落ちることで逆に、実体の有り無しとは別次元の永遠に存続する美を獲得すると考えるようになるのだ。〈私〉の後押しをするのが一九五〇年六月の朝鮮戦争勃発である点も平仄ひょうそくが合っている。戦火が再び迫りくる前に自らの手で金閣寺を焼かねばならないと彼は考えるようになるのだ。

 妄執を描いた犯罪小説として『金閣寺』は完成度が高い。特に犯行を決意してから後の犯人の行動には、自家中毒に陥ったような迷妄がありありと描かれており、哄笑こうしょうを誘う。だが、水上は『金閣寺』に対して異和を覚え、親しい編集者にもその意見を表明していた。水上にとっては犯人Xが寺院の修行において受けた苦痛は他人事ひとごととは思えないものであり、仏教寺院の体制に対する怒りもあった。『五番町夕霧楼』を書かなければならなかったのである。

『五番町夕霧楼』の視点人物はXにあたる若い僧侶ではない。五番町ごばんちょうとは京都・西陣にしじん遊郭の通称である。老舗・夕霧楼ゆうぎりろうの主・酒前さかまえ伊作いさくが死に、内縁の妻であるかつが経営を引き継ぐ。伊作の郷里である与謝よさ半島で葬儀を済ませたかつ枝は、生活に困窮した地元の者から娘を夕霧楼で預かってもらえないかと頼まれ、片桐かたぎり夕子ゆうこを夕霧楼に連れ帰る。美貌の夕子は楼に出ると家族のため大いに稼ぐのだが、足繁く通ってくる客の中に若い学僧がいた。鳳閣寺ほうかくじ櫟田くぬぎだである。夕子を囲おうとしている竹末たけまつ甚造じんぞう讒言ざんげんしたことからこのことが問題になり、破局へ向かって事態は進み始める。

『金閣寺』では犯人の主観によって放火が描かれた。『五番町夕霧楼』における放火は、すべてが進行した後に結果としてあっけなく描かれる。水上は櫟田から意図的に距離を取り、彼の内面を描写しようとはしない。核となるのは夕子と櫟田の関係で、二人は与謝半島樽泊たるどまりの幼馴染であった。彼らが頻繁に会うのはただ懐かしく互いの体温を感じたいからだが、周囲の人間からは偏見のこもった視線を向けられてしまう。その果ての、行き場がなくなったゆえの悲劇である。追い詰められた二人の心情を知ったかつ枝はこう言って悲しむ。

「(前略)せやないかいな。夕子はんの心のかなしみは、あてや、あんたらがどないはたからしよ思うたかて……どうにもならへんのや。ふかいふかいかなしみや。時間がたつのを待つしかあらへんのや(後略)」

 犯罪事件当事者の心中は第三者からは計り知れない。そこに存在する哀しみをすくい上げるためには、より自身を作品に投入して、登場人物に寄り添う形で小説を書くしかない。そうした決意を『五番町夕霧楼』で水上は固めたのだと思う。本作の執筆とほぼ同時期に、水上は連載期間が終了した『飢餓海峡』を完結させるべく、加筆を進めていた。櫟田と夕子の関係は、『飢餓海峡』における殺人犯・犬飼いぬかい杉戸すぎど八重やえに重なり合う。娼婦であった八重は犬飼から大金を渡された恩義を忘れず、彼にとっては不利な事実を証言しなかった。このことが小説のかなめになっている。八重と犬飼の偶然の邂逅かいこうが事件を複雑な形にした原因なのである。杉戸八重の小さな誓い、他人とは絶対に共有しなかった心の中を覗き込むことでこの物語の謎は解けていく。そうした形で心を扱うことの重要さを水上勉は推理=犯罪小説に持ち込んだのである。心理構造の追究を主題としていけば、犯罪小説は必然的に純文学に接近していくことになる。水上勉がジャンルを深化させた功績はもっと評価されていい。

《ジャーロ No.83 2022 JULY 掲載》



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