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高級老人ホームで起こる“連鎖自殺”の真相とは?【プロローグ&第一章公開】『灰色の家』深木章子・最新ミステリー

2023年4月19日(水)発売の新刊『灰色の家』(深木章子・著)より、プロローグと第一章の冒頭を試し読み公開します。


プロローグ

 

 T県山南やまなみ市。そのほぼ中央に位置する山南中央駅から徒歩約三十分。雑木林に囲まれた山腹に忽然と姿を現す串田神社は、T県の神社仏閣の中でも特に格式が高い古社である。
 近くに寄ればだいぶ古びてはいるものの、がっしりとした鳥居とそれに続く石段、そして檜皮葺きの気品ある社殿を見ればそれも納得がいくが、いかんせん場所柄が不便で物寂しいことは否めない。お世辞にも参拝者が多いとはいえず、ふだんは神主も巫女も不在だから、お札やお守りを求めて立ち寄る者もいない。そうでなくてもこの地域は若者の流出が著しく、高齢化・過疎化が進んでいるのである。
 現に、午後二時を少し廻ったいま、暑からず寒からずの好天にもかかわらず、境内には人っ子ひとり見当たらない。
 ここに来たのは小学五年生のとき以来だから約二十年ぶりになる。新井和正あらいかずまさは無人の拝殿の正面に立つと、姿勢を正し、両手を合わせて目を閉じた。
 今回山南市を訪れたのは、一家で東京に移ったのちも交流が続いている同級生の結婚式に出席するためで、昨晩は市内のビジネスホテルに泊まっている。チェックアウトのあと昼食をともにした友人らと別れ、駅に向かう途中でふと寄り道をする気を起こしたのも、久しぶりの歓談の余韻が残っていたせいだろう。
 九月も末のこの時期、辺りはすっかり深まりゆく秋の気配に満ちている。心なしか風も出て来たようだ。
 参拝を終えた新井は一つ大きく息を吐くと、拝殿の横を通り抜け、ゆっくりとした足取りで神社の裏手の小高い丘を登り始めた。その頂を越えればあとはゆるやかな下りで、やがて通称底なし池に通じる山道に合流する。
 底なし池とは、串田神社から西に五百メートルほど行ったところの滝壺のことで、正確にいえば池ではないし、むろん底がないわけでもない。とはいえ、最も深いところでは十メートル近い水深がある。川の流れが速いために、昔からこの滝壺に落ちた者はそのまま下流に流されることもめずらしく
ない。
 事実、最近では――といっても二年ほど前になるが――水面から五十センチの高さから飛び込んだ大学生が、滝壺から上がって来ないまま行方不明になっている。
 本人は泳ぎに自信があったようだが、滝壺には、水が落ちることによる水面から川底に向かう流れと、落ちた水が底に当たって川底から水面に向かう流れが対流している。そのためいったん対流にはまると、水面に浮上しては川底に引き込まれる繰り返しで、脱出ができない。相当の泳者でも危険は
大きく、うっかり足を滑らせでもしたら、まず命はないと覚悟する必要がある。
 それでも怖いもの知らずの子供時代は、仲間と連れ立って、真夏でもぴりりと冷たい滝の水をすくって遊んだものだ。
 滝壺は山道から少し奥に入ったところにある。新井は迷わず底なし池に向かって歩を進めて行く。
 辺りは森閑として、落ち葉を踏みしめる自分の足音のほかには、人の存在を感じさせるものは何もない。さっきから耳を衝いて止まない滝音ですら、まるでこの静寂を際立たせる道具立てであるかのようだ。
 ここまで来ると、偶然に通りかかる人は皆無だといっていい。だから新井は、滝壺の脇の苔むした岩の前に、思いがけなくも男がひとり佇んでいるのを見てびっくりした。
 もっとも、男といっても若くはない。七十は優に過ぎていると思われる。
 薄い頭髪をていねいに撫でつけ、白の長袖のポロシャツにグレーのズボン。普段着ながらきちんとした装いだ。おそらく現在はリタイアした身だろうが、思慮深げな風貌が、現役時代は社会でそれなりの活動をしていたことを窺わせる。
 男はスマートフォンを岩の上に置き、遠い水底にじっと目を向けていた。
 気負いも怯えもないその表情から心中は読めないものの、全身にゆるぎない決意が秘められていることが分かる。
 もしかして、飛び込み自殺をする気ではないか?
 止めなければ!
 頭が急を告げているのに、あまりにも突然の出来事に行動がついていかない。一瞬、怯んだのが敗因だった。
 まさにそのとき、男の身体が、あたかも滝壺の底からすっと引き寄せられたかのように、かすかな水しぶきとともに沈んでいく。
 呆然とその場に立ち尽くす新井をよそに、木々のざわめきだけがときならぬ悲劇の発生を告げている。声一つ上げず、身動きもしない菩薩立像の死。
 けれど新井はこのとき、このまるで眠ったような地を揺るがしたあの惨劇の幕開けに、図らずも自分が立ち会ったことに気づいてはいなかった。

第1章  目撃者


1

介護付有料老人ホームの入居者は――それも高級な施設になればなるほど――大部分が現役時代は社会で活躍した人とその配偶者で占められている。
むろん例外はあるものの、男性の入居者は概して高学歴の知識人か、その道で名を成した成功者である。政治家や官僚、会社経営者を始め、学者や作家や芸術家、そしてスポーツ選手やいわゆるタレントに分類される人々もめずらしくない。
なにしろ、とりあえずの入居一時金が数千万円というところもザラなのだから、それも納得がいく。
住み慣れた自宅を離れて、老人用の介護施設で人生の最期を迎えるなんて……。昔の老人ホームにつきまとっていたなんとなく侘しいイメージはいまや完全に時代遅れで、歳をとって身体がきつくなったら、庭付きの一戸建てからケア付きの小ぎれいな高齢者向け住居へ。年齢と境遇に即したスマートな住み替えは、すっかりトレンドになりつつある。
そこまで高級志向ではなくても、多額の経済的負担なしに利用できる公的施設がありながら、あえて自腹を切ってより優良な住環境を選択する人たちである。早くいえば人生の成功者で、勝ち組といい換えてもいい。
そんなわけだから、本人のみならず家族も経済的に余裕のあるケースが多い。ということは、客観的には親を引き取れないことはないのだが、そう簡単にはいかないのが世の常だ。
傍目には同居が可能に見えても、どの家族にも現在に至るまでの歴史がある。いまは平穏でも、いつまた噴火するか分からない活火山のようなものだ。そこを無視したら、婿や嫁の積年の恨みつらみが噴き出すのは時間の問題になる。
いうまでもなく、親の側にも言い分はある。生んで育てたことまでも恩に着ろとはいわないが、その後もなにかと面倒を見ている。結婚するにも家を建てるにも、その都度援助をした事実を忘れたのか? それもこれも、将来は子供の世話になることが暗黙の了解だったはずではないか。
そこで介護付有料老人ホームの出番である。なまじカネで解決できるだけに、ことはいっそう厄介だ。行きたがらない親と行かせたい子供――。皮肉なことに、その膠着状態の解決には老親の病気や怪我が好機となる。
心身の衰えが顕著になれば、親を棄てるという後ろめたさも小さい。なにしろ子供の方もすでに五十代、場合によっては六十代なのである。自分の老後も目と鼻の先だ。安んじて快適かつ安全な施設に送り込むことになる。
そうはいっても、それで万々歳というわけではない。そこではまた別な問題が待ち受けている。
介護付有料老人ホームは民間施設だから、家賃や管理費、食費や日用品費といった月額利用料は相当な額に上る。たとえ形は親のカネでも、遺産がその分減る以上は、自分のカネも同然だ。
人間とは因果なもので、こんどの敵は親ではない。いきおい高額料金の見返りにホテル並みのサービスを期待し、スタッフへの要求も過剰になりがちだ。早くいえば、家で自分たちが面倒を見るときとは一八〇度転換。他人には完璧な介護を求めるのである。そこにあらたなバトルが発生する。
むろん、大多数のホームの対応は非の打ちどころがない。最適な空調に吟味された食事。明るい色調の内装にはシミ一つなく、冷たく濡れたおむつや、黒く爛れた床ずれとは無縁のパラダイスがそこにある。
それもこれも、モンスターペアレントならぬモンスターチルドレンに対抗せんがためだといっていい。
私が勤務する施設も例外ではない。高齢者への対応に特化した至れり尽くせりの高級保育園。
入居者たちの昔の肩書を知れば、これほどの経歴の人たちがなぜこんな乳幼児並みの生活に甘んじているのか、ふしぎに思うけれど、その答えは、誰よりも入居者本人が自分たちの立場を自覚していることにある。
彼らは賢いので、私たちスタッフにも決して本心を見せはしない。
噓だと思うなら、周囲に誰もいなくなった深夜、薄暗い廊下を巡回しながら、こっそり個室を覗いてみればいい。
「早く死なせてくれ!」
「さっさと殺せ!」
家族に見捨てられた老人たちの壮絶な叫びが耳に入るはずだ。
彼らはここが生き地獄であること、そして、もはや自分たちにはそれに抗う術がないことを知っている。
暗い室内に夜ごとこだまする「死にたい」「死にたい」の大合唱――。生ける屍とは彼らのことだ。

 冬木栗子ふゆきりつこはここでパソコンから目を離すと、いまさらながら黒曜石のごとき暗く重い息を吐き出した。
 くったりと足を前に投げ出し、椅子の背もたれに上半身を預けて天井を仰ぐ。
 あいかわらずネットは各種の情報が満載だ。検索者の求めにぴったりと応える話が出てくるわ出てくるわ、枚挙にいとまがない。
 たとえばこれは某介護福祉士のブログの中の一文で、この人物は現に介護付有料老人ホームに勤務しているのだという。
 むろん、高齢者施設の関係者がそこで見聞きした事実をネットで公表するのはよくあることで、そのかぎりではべつだんめずらしいものではない。
 けれど、このブログの特徴はそれがたんなる個人の体験談に止まらないところにあって、どうやらこの人物は、SNSを通して、現代の日本における老人問題の啓蒙に力を注いでいるらしい。
 そこには、各種の統計資料やニュース記事、そしてそれに関連するネット情報、新聞・雑誌・書籍類の紹介といった研究成果がふんだんに開示されているほか、実態に裏打ちされた強烈な告発がある。ハンドルネームは〈目撃者〉。
 社会から無用人間の烙印を押され、家族に見捨てられ、絶望の中で生きる気力を失くした老人たちを、このまま放置してもいいのか? その歯に衣着せない筆致は、そのまま現代社会の暗部への挑戦といってもいい。
 もっとも、それだけに異論や反発もありそうだ。
 だいたい、この日本で本当にこんな現実があるのだろうか? 高齢者施設の実状を知らない人なら、首をかしげても無理はない。ただでさえ、認知症の患者は被害妄想に囚われやすいのである。自分の行動を正しく認識できないまま、家族が一方的に自分を迫害し、不当に家から追い出したと思い込み
がちだ。
 雑誌やテレビといったマスコミが、とかく極端な例を取り上げては問題点を誇張する風潮も、高齢者施設の運営に携わる者の悩みの種となっている。
 けれど、こういう現実が少なくとも一部では存在すること。自身も介護付有料老人ホームに身を置く看護師として、そして何より、柏木かしわぎの死という厳然たる事実を前にして、それを頭から否定はできない。
 栗子がさっきからこうしてパソコンにかじりついているのはほかでもない。そうでもする以外、入居者の自殺を防げなかった自分自身への怒りの持って行き場がないからだ。
 孤独な老人の胸に棲みついた、初めはごく小さかった幻滅がしだいにその様相を変え、終いには煮えたぎるマグマとなって全身から噴出する姿を、これまで栗子は幾度となく目撃してきた。
 そして、それはなにも施設にいる高齢者にかぎった話ではない。
 某ネット雑誌に掲載された、栗子もその名を知っている八十代の作家のエッセイには、こんなことが書かれていた。

長寿が賞賛されたのは人間五十年といわれた昔の話である。平均寿命が飛躍的に延びたいま、長生きしていいことなど一つもない。
カネがあろうとなかろうと、子供がいようがいまいが、死ぬのを忘れた年寄りには生ける地獄が待っている。
ことに妻に先立たれた夫ほど悲惨な者はいない。本人は誰にも迷惑をかけずに頑張っているつもりでも、そんな男が存在すること自体、周囲にとっては迷惑以外の何ものでもないのだ。
引き取って面倒を見るのはまっぴらだが、かといって孤独死でもされた日には、腐乱死体の始末にカネはかかるわ、自宅は事故物件になるわで目も当てられない。それが家族の本音だろう。
結局は老人ホームのお世話になるしかないが、そこはそれ現代の姨捨山だ。
殺されこそしないものの、介護という名の監禁と強要。面会に来る家族はほんのひと握りで、中には入居手続きの次にやって来るのは死んだとき。その死んだときですら、四の五のいって、すぐには飛んで来ない例もあるらしい。
正直、数年前までは他人より恵まれているはずだった私自身、人生の最後にこんな結末が待っているとは夢にも思っていなかった。
あそこが痛い、ここが痛い。身体が利かない、動かない。目も耳も鼻もぼろぼろで、ものが嚙めない、呑み込めない。おまけに頭を使うのも億劫だとなれば、生きていてもしょうがない。
それなら鴨居に紐をかける体力があるうちに首を吊るしかないが、そんな嫌味なことをしたら、孫子にどれほど恨まれることか――。八方ふさがりとはこのことだ。

 作家のことだからたぶんに誇張があるにしても、これほどの人にしてこの有様だ。人生の最後は誰もが悲観的な心境に陥るものらしい。

2

 冬木栗子・五十三歳。医療法人愛真会兜山かぶとやまクリニック所属の看護師にして、食品メーカーに勤める夫と薬剤師の娘を持つ一家の主婦でもある。
 住まいは山南市の中心部に建つモダンなマンションの3LDK。結婚と同時にローンで購入した新築物件だったから、庭付き一戸建てが楽に買える値段だったけれど、栗子がマンションにこだわったのはほかでもない。目いっぱい仕事に打ち込めるよう、家の維持管理や通勤に取られる時間を少しで
も減らしたかったからだ。
 兜山クリニックは、内科、外科、整形外科を備え、近年の風潮にしたがい、院内治療に加え主に高齢者を対象とした訪問診療も行う。これが非常に好評で、兜山郁夫いくお院長以下、常時十名近くの医師を擁する大所帯だ。
 当然看護師の数も多いけれど、医師とは違い、看護師の仕事は診療所での内勤と訪問診療にはかぎらない。兜山クリニックは、市内の介護付有料老人ホーム等の協力医療機関として、各施設に常駐する看護師の派遣を行っている。
 もっとも、派遣看護師には最低限の実務経験が求められる。どれほど優秀な成績で看護学校を卒業しても、なったばかりの若い子には務まらない。加えて派遣先での人間関係もあるから、やはり場数を踏んだ中年以上が中心となる。中でも栗子は経験豊富なベテランで、自慢ではないが兜山院長の信
頼も厚い。
 協力医療機関の業務は、入居者の定期健康診断を軸に、慢性疾患の患者のケアや緊急時の対応が中心だ。重病の場合は入院施設のある病院を紹介するし、持病がある人は個別にかかりつけの医院があるケースが多いから、医療サービス自体はさほど大きな負担ではない。
 むしろ重要なのは常駐する看護師の働きである。朝九時から夕方五時まで、各居室の見回りや声掛けに始まって、医師を呼ぶまでもない不眠や食欲不振、腰痛や便秘等々の相談に乗り、ときには身の上話の相手にもなる。
 人間の観察力は機械頼みの診察より的確なこともあるし、信頼関係の構築はまず会話から始まる。治療が第一の医師とは違って、こと常駐看護師の仕事については、治療は二の次だといっても過言ではない。
 よほど忍耐強くないと務まらないから、敬遠する人もいるけれど、栗子にとってそんなものはぜんぜん苦ではない。自分から希望して兜山クリニックに就職し、老人ホーム専任になったのが十二年前のことだ。
 それまではふつうの病院勤務だったから、かならずしも病棟勤務になるとはかぎらない。運よくなったとしても三交代制で夜勤もあるし、入院患者の顔ぶれはめまぐるしく変わる。大きな病院になればなるほど、個々の患者との信頼関係など望むべくもないのが実情だ。
 それでも、勤務するならしっかりした病院でないと。転職など思いもよらなかった栗子が考えを改めたのは、本当にひょんなことからだった。
 きっかけは、高校卒業後は看護専門学校への進学を勧めた栗子に、娘の愛美まなみが猛然と反発したことである。
「会社員や公務員だと、なんだかんだいって女はハンディがあるからね。身分が保障されていて、家庭を持っても安心して続けられる仕事といったら、看護師が最高だよ」
 異論などあるわけがない。そう信じ込んでいたから、ほかならぬ娘の反応はまったくの予想外だった。
「看護師なんて真っ平ごめんだね」
 母親の説得を、愛美は歯牙にもかけなかった。こちらに向けてくっと突き出した唇が彼女の本心を表している。
「だいいち、子供が可哀そうだよ。ママだって夜勤、夜勤で次の日は朝から寝てるし、運動会や授業参観にも来なかったりしたし。小学校のころは、よその家のふつうのお母さんがどれだけうらやましかったと思う? それに同じ医療関係だったら、薬剤師になる方が断然いいよ」
 聞けば、ずいぶんと淋しい思いをしたらしい。自分では多忙な中よくやっているつもりだっただけにショックだった。
 それと同時に、娘にそんな思いをさせてまで共働きに固執した自分が、いつしか看護師であること自体で満足し、そもそも自分はなんのためにこの仕事を選んだのか――。いちばん肝心な部分を忘れかけていたのではないか? 頭からぶっかけられた冷水に、はたと思い知らされた気がしたことも否
定できない。
 実は、栗子が看護師になったのには理由がある。いまでこそ健康そのものだけれど、母親にいわせると、子供のころはどちらかというと虚弱体質だったのだそうだ。小学校に上がって間もなく、肺門リンパ腺炎にり患して三ヵ月近く入院したことがあって、そのときに出会ったひとりの看護師の強烈
な印象が、栗子の人生を決めたのである。
 雪下ゆきしたさんというその看護師は、いま思えばまだ三十そこそこだったに違いないけれど、子供の目からは母親よりずっと貫禄があり、いつもにこにこと大きな声で話す頼もしい女性だった。
 小さな病院だから小児専用の病棟はない。六人部屋の病室にやって来るたび、年配の大人に囲まれて退屈しきっている栗子に、
「今日のりっちゃんはどんな子かな?」
 明るく話しかけては、ベッドでの過ごし方や病院食の食べ具合を点検し、ただのマルや二重マル、ときにはおまけの三重マルやちょっとクエスチョンのサンカクの採点をしてくれる。
 もちろん、だからどうということはないのだけれど、二重マル欲しさに嫌いなおかずの完食を頑張ったのは、いまでもなつかしい思い出になっている。
 幸い化学療法が効いて大事には至らず、いうまでもなく病気を治したのは医師や看護師というより本人の回復力と医学の力ながら、以来、栗子の中で彼女は女神になった。
 自分を必要としている患者、自分を求めている患者の心の支えでありたい。それが栗子の行動の原動力だ。
 けれどもちろん、そんなことは娘の知ったことではない。宣言どおり、めでたく東京の私大の薬学部に進学した愛美は、薬剤師の資格を得て山南市に戻り、市内の調剤薬局に勤めている。
 正直、残念な気持ちがないではないものの、肉体的な負担が軽く、勤務時間も定まっている調剤薬局は愛美には向いているのだろう。なにより、そのまま東京に居つくことなく、すんなり家に帰って来ただけでもありがたい。
 それに栗子自身、五十の大台を超えると体力の衰えは著しい。ひとりで八十人からの高齢者に目配りするのは正直きつくなっている。
 日勤とはいっても、急病で夜中に呼び出されることもよくあるから、自然と禁酒生活にならざるを得ない。決してアルコールが嫌いではない身には、これもけっこうなストレスだ。
 それでも仕事を辞める気にはまるでならないのは、やはり看護師が自分の天職だと自覚しているからだろう。
 現在栗子が勤務する介護付有料老人ホームの名は山南涼水りょうすい園。山南中央駅から徒歩二十分。開設してまだ八年たらずで、山南市の中でも比較的新しい部類に入る。
 派遣看護師とはいえ、兜山院長の事実上の代理人として設立段階から運営に携わっている栗子は、いち医療スタッフの域を超え、いまや園長の宇野うのの右腕といっても過言ではない。自分でもそれだけの自負はある。
 介護付有料老人ホームは、さまざまな理由から自宅で生活することが叶わなくなった高齢者が、身の回りの世話や食事、入浴、排せつなどの介護サービスを受け、安全で快適な生活を送るための施設である。
 その最大の特徴は、これはあくまでも民間企業が運営する民間施設だという点にあり、地方公共団体や社会福祉法人が運営母体となる介護老人保健施設(老健)や特別養護老人ホーム(特養)とは、設立のコンセプトから根本的に異なっている。すなわち、福祉の観点から利用料金が低く抑えられている公的施設に比べ、費用は高めながらその分自由度が大きい。
 分かりやすくいえば、料金も立地条件もピンからキリまで幅広く、規模も中身も多種多様。過度な期待をせずにじっくり探せば、各人のニーズに合った施設を見つけることができる。
 たとえば、公的施設の代表格ともいえる特別養護老人ホームは、介護内容は非常に手厚いものの、一室に四人が入居する多床型の施設が中心だ。いわゆる大部屋である。プライバシーは皆無といってもよく、二十四時間、ひとりになるときはない。治療が目的の病院ならあたりまえでも、日常の生活
空間となれば、いろいろと不満が出ることは容易に想像がつく。
 おまけに入居待機者の数が多いから、利用したいと思ってもすぐに入れるわけではない。長い順番待ちが必要で、要介護度などの入居条件も厳格だ。基本がお役所仕事なだけに、なにかと窮屈で融通が利かないことは否めない。
 そこへいくと、介護付有料老人ホームは全室が個室かふたり部屋という居住性の高さが売りになっている。しかも同じ民間施設でも、サービス付き高齢者向け住宅や住宅型有料老人ホームとは異なり、二十四時間の手厚い介護が受けられる。
 そればかりではない。特筆すべきはソフト面の充実で、お花見に紅葉狩り、ひな祭りやクリスマスといった季節のイベントを始め、カラオケ、各種ゲームなどのレクリエーション等々、楽しい企画が満載だ。
 さらには、希望者を募っての外食や買い物ツアーも民間施設ならではのサービスで、むろん施設によって差はあるけれど、痒いところに手が届くとはこのことだろう。本格的な高齢化社会を迎え、近年ますます介護付有料老人ホームの人気が高まっているのもうなずける。
 もっとも厳密にいえば、介護付有料老人ホームにも二種類ある。一つは要介護の高齢者だけで構成される介護専用型、もう一つが要介護ではない自立した高齢者も受け入れる混合型で、山南涼水園はこの混合型の施設に該当する。つまりシビアにいえば、もはや後戻りのできない坂道を下り始めた老
人と、まだまだ山も谷もある道を進む老人とが、同じ屋根の下で生活するわけだ。
 彼ら元気なお年寄りはお風呂にもひとりで入るし、共用のランドリーで洗濯をし、ちょっとした自炊をするだけではない。ホームを足掛かりに旅行にも行けば外泊もする。園内のクラブ活動はもちろん、地域の各種行事への参加もまったくの自由で、盆踊りや夏祭りともなれば、地元の老人クラブの
メンバーに交じって活躍する人も少なくない。
 そしてホームの側にとっても、それは奨励すべきことに違いないのだけれど、問題は、自立した人間の行動がかならずしも穏当で正しいとはかぎらないことだ。施設管理者の悩みがそこにある。
 なにしろ最近では、ひょんなことから昔の恋人と出会い、嬉しさに我を忘れてひと晩中U市内のホテルにこもっていた女性もいたくらいである。桐ケ谷容子きりがやようこというこの老婦人は、悪びれることもなく翌朝堂々と帰還したけれど、すわ、事故にでも遭ったかと、大騒ぎになったことはいうまでもない。
 また数年前には、何を勘違いしたのか、突然ふらりと電車に乗って、とっくの昔に売却したかつての自宅に向かった人もいて、たいそう心配した覚えがある。この男性はこれを機に要介護認定が下され、三階の自立者フロアから二階の要介護者フロアに移動となったけれど、途中何事もなくてよかっ
たと、スタッフ一同冷や汗をかいたものだ。
 そこまでいかなくても、たまには羽を伸ばそうと街中に繰り出したあげく、つい飲み過ぎて失敗する者もあとを絶たない。若いころは酒豪だった人も、歳をとるとめっきりアルコールに弱くなるからだ。
 ときには飲み屋から、
「お宅のご老人が酔いつぶれているんですけど」
 暗に迎えを要請する電話が入ることもあって、たいていの場合、園側の心配は取り越し苦労に終わるけれど、大ごとになるケースもないわけではない。一度などは、八十を超えた男性が意識不明で路上に倒れ、警察から大目玉を食らったことがある。
 いくら自立しているといっても、世間から見ればみんな同じただの年寄りだ。何かあれば園が責任を負う形になる。
 それだけではない。混合型の施設には特有の問題があって、その一つが、認知症を患ったり自力で食事や排せつができない人たちとの共同生活が、健康な人にとっては想像以上に大きなストレスになるということだ。
 明日の自分を目の当たりにする恐怖と嫌悪感。老人は保育園児とは違う。そこを踏まえないと、老人問題の本質を見誤る。
 むろん、施設の側もさまざまな配慮をしていることはいうまでもない。たとえば山南涼水園の場合、自立した入居者の居室や専用の食堂・ラウンジは、三階のフロアにまとめて設置されている。
 三階には、そのほかにも機能訓練室や調理室といったホーム全体の共用部分があるけれど、要介護の入居者の居室や食堂は二階に固まっていて、フロアは完全に別々だ。要するに、たがいに接触をしない仕組みになっている。
 契約時にどの段階にあっても、いったん入居してしまえば、将来重度の要介護状態になっても退去させられる心配はない。
 入居者にとっては文字どおり終の棲家で、つまりは、これまでの人生で築いた家庭の温もりや、交友関係や、自由きままな生活のいっさいと引き換えに、将来の安全と安心を手に入れるのである。
 それはいいとして、問題はお値段だ。快適な生活はそれ相応の出費を伴う。実際、契約時に支払う入居一時金が一千万円を超えるところはザラにあるし、有名人や大金持ちが入居する超高級施設ともなると億という値がつく。
 まさしく高級マンション並みで、世の中にはそんなにたくさん金持ち老人がいるのかとびっくりするけれど、もちろんそんなことはない。大方の人はそれまで住んでいた自宅を処分したり、なけなしの預貯金をはたいて費用を捻出するらしい。
 入居一時金が払えない、あるいは払いたくないという人のために、毎月の利用料だけで入居できる施設もあるにはあるけれど、当然ながら、その場合は月額利用料が高額になる。高齢者は預貯金のほかは年金収入だけが頼りの人が多いから、それはそれで一部の人しか利用できない。
 その点、山南涼水園は場所柄が場所柄だ。とにかく地価が安い。食費などの月額利用料もリーズナブルだから、かなりお買い得物件なのだけれど、それでも安い買い物ではない。事実、入居者の大部分は、本人または配偶者がかつてはそれなりの収入を得ていた人たちで占められている。
 だとすれば、〈目撃者〉がどういおうが、このホームの入居者は、なんだかんだいって恵まれている人たちだと考えていいだろう。
 その山南涼水園の開設当初からの医療スタッフとして、だから栗子も、これまでは快適に業務をこなして来た。入居者全員と馴染みの仲で、意思疎通にも抜かりはない。なにより、彼らの心身の状態を誰よりも把握しているのは自分だという自負があった。
 それだけに、入居者の自殺という今回の事件の衝撃はとてつもなく大きい。現にこうしてパソコンにかじりついていること自体が、動揺の激しさの表れだ。
 しかし、こんなことで弱音を吐いていてはダメだ。栗子は思い直した。早く立ち直らないと――。自らを鼓舞する。元来が前向きな性格なのである。
 栗子がパソコンを閉じると、それが合図だったかのように、
「どうした、まだ寝ないのか?」
 パジャマ姿のしげるがのっそりと顔を出した。
 大柄でヌーボーとしたこの夫は、どこか冬眠中の熊を思わせるところがある。
「うん、まだちょっとやることがあるから。先に寝ていて」
「そうか。じゃ」
 あくびをしながらリビングを出て行く。
 無関心のように見えて、けっこう妻を気遣っていることを栗子は知っている。こんどのことだって、栗子が落ち込んでいることは百も承知のはずだ。
 繁は昔から妻の仕事に理解がある。共働きは結婚の大前提だった。いまも商品開発部長として自分も多忙なのに、夜間の呼び出しが続こうが、手抜き料理が重なろうが、不満そうな顔を見せたためしがない。
 だからといって家事を手伝ってくれるわけではないけれど、この大雑把な性格では、どうせ戦力にはならない。かえって手がかかるのがオチだ。それでも会社では後輩の面倒見がよく、慕ってくる部下は多い。
 愛美はとっくに自分の部屋に引っ込んでいる。どちらかというと愛想のない娘だけれど、職場ではうまくやっているらしい。真剣につき合っている彼氏もいるようだ。
 それで充分だ。夫婦でも恋人でも、長続きの秘訣は互いに相手の行動を尊重すること。それに尽きる。
 自分で自分に気合を入れてから、すっくと立ち上がる。
 明日の朝の下準備をすれば、今日の日課はすべて完了だ。頭の中はまだ混
沌としているけれど、睡眠こそが最高の治療薬だ。今夜はなんとかして眠らないといけない。

3

 山南涼水園の入居者・柏木正義まさよしの遺体が、通称〈底なし池〉の水底で発見されたのは今日の夕方のことだった。
 死因は溺死、それも覚悟の自殺と見られている。時刻は午後二時過ぎ。
 たまたまその現場に通り合わせ、一一〇番通報をした目撃者によると、柏木は水しぶきが掛かるほど底なし池のふちぎりぎりに佇み、まるでふしぎなものでも見るかのようにじっと水面に目を凝らしていたらしい。
 何を見ているのだろう? その年齢相応の風貌と落ち着きぶりに惑わされたのが敗因だった。もしかすると、この人は自殺をするのではないか? はっと思い当たったときはすでに遅かったようだ。
 慌てるでも騒ぐでもない。柏木の身体は水音すら立てず、従容として水中に消えて行ったという。
 柏木は今年七十四歳になる元会社員で、山南市の出身。U市の機械メーカーの技術系総合職として定年まで勤め上げたのち、郷里の実家に戻ったという地元民だ。
 ホームに入って丸三年。十一年前に妻を亡くし、以後は自宅で独居生活を続けていたところ、スーパーに行った帰り道に自転車で転倒。それを機に介護付有料老人ホームに移ることを決意したという。
 性格はいたって温厚で、趣味はカラオケ。率先して場を盛り上げたり、リーダーシップを発揮することはなかったけれど、けんかや揉め事はもちろん問題行動もまったくない。介護職員などスタッフとの関係も良好だったから、要するに人畜無害なタイプだったわけだ。
 もっとも、山南市役所職員で素封家の娘と結婚をした長男との折り合いはきわめて悪かったらしい。ふだんからほとんど交流がなかったようだ。事実、柏木が山南涼水園に入居してから、息子一家は一度も面会に来ていない。
 正式な遺書ではなかったけれど、柏木の居室のデスクの上には、息子の長一ちょういちに宛てた手書きの文書が残されていた。

  用なしの親父は静かに消え去るのみ
  子供と猫は大事にしろ
  あいつらに恨みはない

 短い文言から立ち昇る毒と諦観と。遺書そこのけの強烈な意思表明がそこにある。
 冷たい家族への究極の当てつけ自殺。園にとっては、まさに降って湧いた災難だった。
 そもそも老人ホームの入居者――それも正常な判断能力のある高齢者――が家族との軋轢から自殺したとしても、それはホームの責任とはいえないだろう。そんなことはあらためていうまでもないけれど、現実には、矢面に立たされるのは園長以下の職員、とりわけパンフレットでも謳い文句になっ
ている医療スタッフと相場が決まっている。
 どうして入居者の体調の異変を、そしてその心境の変化を見逃したのか? 表立って糾弾する者はいなくても、無言の非難に加え、何より常駐看護師としての自分自身の声からは逃れられない。
 もっとも、自殺の一報を受けた時点では、よりによってなんで柏木が? どうにも釈然としなかったのも正直なところだ。
 家族に見捨てられたといっても、柏木は経済的に困窮していたわけでも、園内で孤立していたわけでもない。だいたい分別のあるいい大人が、当てつけのためだけに自殺などするものだろうか? 警察の内部にも疑問視する声があったというけれど、その問いに対する答えは意外にもあっさり見つか
った。
 それはやはりというべきか、健康上の重大問題で、どうやら柏木は、誰にも事実を告げることなく自分で自分に余命宣告を下したらしい。
 長年にわたり故人のホームドクターを務めた開業医の話によると、柏木は半年ほど前から体の不調を訴え、県内の総合病院で検査を受けていたのだという。その結果判明した病名は乳がん。それもステージ4だったそうだ。
 がんは一般的に、進行度に応じてステージ0からステージ4の五段階に分類されている。その中でいちばん軽度なのがステージ0で、それだとがんは粘膜内に留まっていてリンパ節への転移もないのだが、進行がんのステージ4になると、がんは最初の原発巣を越えてすでに他の臓器に転移している。
 乳がんは当然ながら女性に多いけれど、子宮がんや卵巣がんと違って女性特有の疾患ではない。男性乳がんも約一パーセントの割合で発生する。同じ進行度なら、女性と男性で治療成績に差はないものの、男性はまさか乳がんにはなるまいと油断しているせいか、発見された時点ですでに進行してい
るケースが多い。
 もちろん乳がんは、胃がん、大腸がん、乳がん、肝臓がん、肺がんのいわゆる五大がんの中でも生存率が高いし、近年のがん治療の進歩には目覚ましいものがある。がんはいまや不治の病ではなく長くつき合う病気で、ステージ4と診断されたからといって絶望的になるのは早計というものだ。
 けれど、それはあくまでも医学上の統計に基づく客観的事実で、主観的事実、すなわち当の患者の受け止め方はまた別なことを忘れてはいけない。
 柏木の年代の人なら、がん=死刑宣告だった半世紀以上も前のイメージを引きずっていることは大いに考えられる。がんと診断されることが怖くて、自覚症状があっても病院に行かず、むざむざ手遅れになった人が数多くいた時代である。
 そうでなくても、がんを宣告されれば、どんなに楽天的な人でも、一度は頭の中に〈死〉の一語がちらつくのではないだろうか?
 柏木の場合、不運だったのは、病院での診察や検査に付き添い、ともに病気に立ち向かってくれる人が周囲にいなかったことで、彼が家族と事実上絶縁状態なうえ、施設内でも自立した入居者だったことが災いした。
 たとえば山南涼水園では、要介護の入居者の通院には、原則として家族または介護スタッフが付き添う決まりになっている。だったら栗子も検査の結果を把握し、本人とその対応策を相談できたはずで、今回の悲劇は起きなかったかもしれない。
 柏木の溺死体は幸い下流に流されることなく、滝壺の底に沈んでいるところをダイバーによって発見された。
 滝壺から下流に押し流されてしまうと、そのまま海に出て遺体が見つからないこともある。また運よく途中で発見されたとしても、その間に傷だらけになることは避けられない。それを思えば、比較的早い段階で、それもきれいな姿で引き上げられたのはせめてもの慰めだといえるだろう。
 それにしても――。栗子のいら立ちは息子夫婦にも向かわずにいられない。
 現場で宇野と顔を合わせた長一は、迷惑をかけた詫びをいうどころか、終始不機嫌な顔で押し黙っていたらしい。
 あとから聞いた話では、柏木はステージ4の乳がんの宣告を受けたあと、二度にわたって長一とその妻に報告のメールを送ったものの、ふたりはガン無視したのだという。これにはさすがの警察も呆れて、言葉が出なかったようだ。
 栗子が最後に柏木と顔を合わせたのは、いまから三日前のことだった。
 エレベーターで乗り合わせた柏木に、
「おはようございます。柏木さん、その後調子はいかがですか?」
 声を掛けると、
「ああ、おはようございます。おかげで少しよくなったかな? いわれたとおり、お茶を多めに飲むようにしてますよ」
 いとも穏やかな言葉が返って来たことを思い出す。
 入居者にはできるかぎり名前で呼びかけ、その場で短い言葉を交わす。柏木は、先日の健康相談で最近便が硬くて出にくいと訴えていたので、水分をたくさん取るようにアドバイスしたのだけれど、まじめな性格だけに、きちんと指示を守っていたらしい。
 正直、声にいつものような張りがなく、なんとなく上の空だった気もするけれど、自殺をするほどに思い詰めている様子は感じ取れなかった。
 看護師失格。時間が経てば経つほど、自責の念は強まるばかりだ。
 兜山院長にはとりあえず電話で報告を入れてあるけれど、ショックのあまり何も手につかない。柏木の死に正面から向かい合う勇気が出ないどころか、ふだんどおりの顔を保つこともままならない有様である。自分はいま何をしているのかも分からずに、心はあらぬところを彷徨っている。
 むろん、パニックになったのは栗子ひとりではない。園長の宇野はいわずもがな、ホーム中がひっくり返ったといっても過言ではないものの、遺体発見が夕刻だったことが幸いした。栗子が知るかぎり、テレビで報道されたのは午後九時のニュースが最初で、少なくとも事件当日は世間の攻勢を受け
ずに済んだことになる。
 かの〈目撃者〉がこの件について触れていなかったのも、だからあたりまえで、とりあえずほっとしたことは事実ながら、翌日はどうなるか分からない。事実、次の日になると、園内は朝からこの話題で持ち切りだった。
 もっとも宇野の陳情が功を奏し、警察発表のトーンが控えめだったのが効いたようだ。新聞やテレビでもホーム側の責任を問う論調はなく、そもそもニュースとしての取り扱いが小さい。おかげでマスコミが取材に押し寄せることもなく、入居者に目立った動揺が見られなかったのは幸運だった。
 次々と新たな情報が押し寄せる現代にあっては、二十四時間は昔の百時間にも匹敵する。丸一日が過ぎれば、それはもう過去の出来事だ。
 事実、今日は今日でまたあらたなアクシデントが起きている。それも、まかり間違えばとんでもない結果になりかねなかった大失態である。
 それというのも、年寄りはとにかく物を捨てたがらない。物を大事にするといえばそのとおりだけれど、衛生上見過ごせないケースも多い。たとえば使用済みのマスクを何度も使い回し、いちど洟をかんだティッシュペーパーを乾かしてはまた洟をかむ。
 食べ物については特にそれが顕著で、「あたしみたいに戦中戦後の食糧難を経験してるとね。食べ物を粗末にするなんてことはできませんよ」
 言い訳をしつつ、食べ残しを引き出しにしまう。それでもあとでちゃんと食べるならいいけれど、それっきり忘れて、ときには一週間も二週間も前の生菓子が出現するから困りものだ。
 今回もその例に漏れず、要介護3のこの女性は、なんとカビだらけで真っ青になったあんぱんにかぶりついているところを発見されたのである。
 園の食事であんぱんが出ることはないから、いつどのように手に入れたものやら見当もつかない。カビそのものは少しくらい食べても危険はないものの、中のあんこが腐敗していればお腹をこわすことは必定だ。
 だから、スタッフは日ごろからこまめに室内を点検しているのだが、いままで監視の目をくぐり抜けていたのは、どうやら机の引き出しではなく洋服ダンスの奥に隠していたためらしい。
 要介護3は、生活全般で二十四時間の介護を必要とする状態なのだけれど、挙動が緩慢だからといって油断すると、手痛いミスになるということだ。
 何はともあれ、今日一日、平常どおりの生活ができたことに胸をなで下ろす。
 そうはいっても、退職した従業員やライバル業者など、あら捜しや嫌がらせが横行するのはネット社会の宿命だ。どこに柏木の死に目をつける者がいるか分かったものではない。
 栗子はその晩、またしてもネット検索に没入する羽目になった。
 試みに〈目撃者〉のブログを覗いてみると、やはり思ったとおりである。柏木の当てつけ自殺を大々的に取り上げている。
 それも、いたずらに感情的になるのではなく、事実を正確に紹介したうえで持論を展開する万全の手法で、怒りの矛先はもっぱら、高齢となった親を平然と見捨てる家族とそれに便乗する老人ホーム、そしてそれを許容する社会に向かっている。
 ブログの最後はこんな言葉で締められていた。

だからいわんこっちゃない。憂慮していた事態の発生である。
老いぼれた親は人間以下どころか、もはやペット以下の存在だ。動物病院には日参するが、施設の親にはさっさと死んでほしい。こんな輩が大手を振って歩いていれば、老人の自殺が引きも切らないのは当然だ。
しかし、責められるべきは子供や孫だけではない。
老親を自殺に誘い込む――。巧妙なこの間接殺人を目の当たりにしながら、何の自覚も反省もない組織がそこにはある。
そ知らぬ顔で死刑執行の舞台を提供し続ける介護付有料老人ホームの存在を、我々はいま一度見直すべきなのではないだろうか。

 どうにも複雑な思いが胸の内を駆け巡る。
 老人ホームの存在が悪だとは思わない。現に自分がそこに身を置いているのがその証拠だ。そして、老人にとってホームで暮らすより家族と同居する方が幸せだともかぎらない。これも自分が日々の勤務の中で実感していることだ。
 いいたいことは山のようにあるけれど、栗子が結局この一文を無視できないのは、この極端な主張の中にも、的を射ている部分があることを否定できないからだ。
 そして何より、柏木の氏名はもちろん、当該施設が山南涼水園であることを窺わせる記述がどこにもなかったことにほっとする。
 いらぬ噂に入居者やその家族が惑わされることがあってはならない。たとえホームに管理責任があったとしても、彼らに責任はない。悪評が立った施設にいるとなれば、入居者もまた等しく被害者なのである。
 ひと通り読み終えてからも、栗子はなおもその檄文から離れられずにいた。

4

 山南涼水園は定員八十名。三階建ての瀟洒な建物で、赤い鋼板の屋根にクリーム色の壁。前面に大きく切られたガラスの開口部が美しい。
 U市から第三セクター鉄道で六駅目の山南中央駅からは、園が所有するマイクロバスのほかに路線バスもあるから、交通の便はいい。
 そうはいっても、山南中央駅そのものはお世辞にも魅力的とはいいがたい。ホテルやデパートどころか申しわけ程度の商店街しかないから、買い物といってもせいぜい日用品どまり。本格的なショッピングや食事、コンサートや映画鑑賞となると、県庁所在地のU市まで足を延ばすことになる。
 もちろん、元気な高齢者にはそれも大きな楽しみで、週に一回はマイクロバスでのU市探訪ツアーが催行されている。
 けれど、そんな外観や立地条件だけではない。このホームの真価はその抜群の居住性にあって、全八十室はすべて個室で広さも十八平方メートルあまり。電動式シングルベッドにウォシュレット付きのトイレと洗面台、そして書き物デスクやクローゼット、大型テレビも備え付けという充実ぶりだ。
 通路に通じる出入り口と反対側のドアを開ければ、そこは建物をぐるりと一周するベランダで、居ながらにして外気に触れることもできる。眼前に広がる緑の山々に、夜ともなれば降るような星がまたたく。都会人にとっては夢のような光景だろう。
 幅広のベランダは避難用通路であると同時に各居室の庭も兼ねていて、鉢植えの草花を栽培している人も多い。
 そこだけを見れば現代のユートピアで、山南市などその存在すら知らなかったのに、見学に来たとたん、すっかり惚れ込む人がいるのも納得というものだ。
 ことに五年前、運営会社の社長の宇野昌平しょうへいが園長に就任して以来、あらゆる面で風通しがよくなっている。加えて食事の質が格段に向上したことは衆目の一致するところで、ひいき目ではなく、四季折々の献立が実にバラエティに富んでいるのである。
 歳をとったら食事が唯一の楽しみという人は多いから、これも大きなセールスポイントになっている。
 入居者の平均年齢は八十一・三歳、男女比率は女性が七に対して男性は三。そのうち約三分の一に当たる二十六人が自立可能な老人である。こちらもむろん女性の比率が高く、女性十七人に対して男性は九人という構成だ。
 大部分は配偶者を亡くしたか、最初から結婚歴のない独身者だけれど、中には、夫や妻は別の施設に収容されている人もいる。ここに来るまで家族と同居していた人とひとり暮らしだった人との割合はほぼ半分ずつ。
 都心から遠く離れている地理的条件もあって、面会に訪れる家族が少ないことは全員に共通している。そうであれば、孤独で気楽な者同士、仲間意識が芽生えるのは必然というものだろう。
 それでなくても、自立した大人が二十六人もいればりっぱな地域コミュニティが成立する。いわば第二の人生の幕開けというわけで、そこにさまざまな人間模様が出現することは想像にかたくない。
 そして、三対七という男女比率の結果として、数少ない男性陣が大いにモテるという自然の法則は、ここでもしっかり当てはまる。
 老人ホームは生活の場であって社交の場ではない。とはいうものの、人はいくつになっても色気を失わないらしい。むろん恬淡とした人も多いけれど、高齢者の施設内恋愛は日本全国、若者も顔負けどころではないのが偽らざる現実だ。
 介護付有料老人ホームには、マンションの管理組合のような自治組織は存在しない。入居者はたがいに利害関係のないお隣さん同士で、しいていえば、同じアパートに住む賃借人相互の関係に近い。つき合いを強制されることはないし、独立独歩を貫くのもまったくの自由だ。
 それでも毎日の食事や各種レクリエーションで顔を合わせるうちに、なんとなく気の合う者同士のグループが形成され、さらにその中からリーダー格の人間が出て来るのは自然の摂理である。
 山南涼水園もその例に漏れない。この三階フロアにも大小取り混ぜて複数の〈派閥〉が誕生し、さらには住民による事実上の〈町内会〉が結成されることは、初めから充分に予想できたことだった。
 栗子の記憶では、三年ほど前にはすでに体制は固まっていて、元教員の伊丹八十男いたみやそおがその〈町内会長〉のポストについていた。
 今年八十二歳になる伊丹は地元山南市の出身。長らくU市の公立中学で教鞭をとり、最後はU市教育委員会の教育長を務めていた人物だ。リタイアしてからは山南市に戻り、地元の老人会などで活躍していたけれど、妻を亡くしたのを機に山南涼水園に入居したという。子供はいない。
 活動的で社会経験も豊富だから、こういった役職には打ってつけで、実際、伊丹のおかげで入居者間のいざこざが解決したことも数多くある。歳をとるとみんな頑固になるけれど、この伊丹はいい意味で清濁併せ呑むタイプで、融通が利くところがいい。
 当時の主要メンバーの顔ぶれは、伊丹のほかには会社経営者の手塚恭造てづかきょうぞう、元医師の吉良輝久きらてるひさ、不動産賃貸業の岩鞍伴来いわくらともきのぜんぶで四人。いずれも伊丹の信頼が篤い面々だ。その後これに元警察官の君原きみはらと元会社員の柏木が加わり、事実上六人の幹部会員が誕生したことになる。
 そこにもうひとり、重要な役割を担う人物が園長の宇野で、こちらは園の方針に関わる案件があると、オブザーバーとして幹部会議に参加する。園内では何をするにも園長の了解が前提になるから、園長と入居者のこの良好な関係がホーム全体の平和と秩序に貢献していることは疑いがない。そして
栗子は最古参のスタッフのひとりとして、宇野に誘われて同席することもしょっちゅうだ。
 もちろん幹部会議といっても、そこは老人施設のことである。実際は雑談の域を出ないし、園内で発生する問題にしても、切った張ったの騒動があるわけではない。
 では現実にどんなことが話題になるのかといえば、これが些末事のように見えて、当事者にとってはけっこう切実な事柄が多い。
 たとえば、ここ山南涼水園では園内での飲酒が全面的に禁止されている。それも例外はいっさい認めない。事実、夕食時の晩酌はおろか、毎月第一日曜日に行われる誕生日会の祝い膳でも、アルコールが供されたことは一度もない。
 入居者の中には飲酒を禁じられている人もいるというのがその理由だけれど、それはいわば口実で、飲み過ぎによる体調不良や事故、そして酔ったあげくのけんかや不祥事を防止する意図があることは明らかだろう。
 いずれにしても、呑ん兵衛にとっては過酷なルールに違いない。半世紀――人によってはそれ以上――の長きにわたる習慣を、急にダメだといわれても、はい、そうですかと従えないのはあたりまえだ。どうしても掟破りが横行する。
 そこで穏当な解決策として、飲酒禁止の建前はそのまま維持するものの、各人が自分の居室でこっそり飲むのは黙認する。幹部会での取り決めにより、自室でのひとり酒は事実上大目に見ることになっている。
 ただし酔っ払ってのどんちゃん騒ぎや武勇伝となると話は別で、こちらは他の入居者に迷惑がおよぶし、なにより甘い顔をすると際限なくエスカレートする。
 だから仲間を集めて酒盛りをしたり、共用スペースにさまよい出ることは厳禁で、これを取り締まるのは当然園の仕事ながら――特に人手が手薄になる夜間ともなると――いかんせん手が回らない。
 そこで三階町内会の出番となるわけだが、園のスタッフを巡回の警察官だとすれば、こちらはいわば自警団。幹部連中が出向いて説得にあたる。健康志向が行き渡ったせいか、さすがに最近は昔のような大酒飲みはいなくなったけれど、過去には強権を発動した例もある。
 同様に、消灯についても似たような問題があって、公式の消灯時間は一律に午後九時と定められている。
 なので、夜の九時以降は共用スペースの照明がやや暗くなるのだけれど、病院と違い、消灯後も室内で起きている分には制限がない。起床や就寝のリズムは人それぞれだ。そうでないと、逆に支障が生じてしまう。
 もっとも、これとは別に日常生活に関する園内規則があり、そこでは入居者が相互に訪問できるのは午前九時から午後八時までとなっている。つまり夜間と早朝は交流ができない。これは表向きは各人の安静時間を確保するためだけれど、いうまでもなく本当の狙いは別にある。
 なぜかといえば、いまや高齢者施設でのトラブルは入居者間の色恋沙汰が代表格で、それは公立・私立を問わず全国共通のテーマだといっていい。これはしたがって、いわゆる禁断の密会の予防対策なのである。
 ホームにしてみれば、トラブルは未然に防ぎたい。風紀の乱れはなにかと問題を引き起こすし、深夜の物音や話し声は苦情の元だ。ほかの入居者に我慢しろというのは無理な注文で、奔放な行動に眉を顰める人がいることは容易に想像がつく。
 とはいうものの、高齢者にも恋愛をする自由はある。ましてやホームは学生寮でもなければ刑務所でもない。誰がどんな権限で、健全な大人が愛し合うことを禁止できるというのだろう? 事としだいでは人権問題になるだけに、施設管理者は頭が痛い。
 となれば、ここでも日本人お得意の解決策がものをいう。つまり、夜間訪問禁止令は有効だけれど、はたに迷惑をかけず、ことさら目立つ行動に出なければ、多少の逸脱行為は見て見ぬふりをする。それが幹部会議の結論で、これは忠実に実行されている。
 実際、これまで園内で誕生したカップルは一つや二つではないし、正式に入籍した例もある。トラブルさえ起きなければ、スタッフにしても心から祝福することにやぶさかではない。
 けれどもちろん、それはあくまでも当人たちに合意があることが前提だ。片方の一方的な思い込みとなれば、話は別になる。いってみればストーカーと紙一重。むしろひとつ屋根の下にいるだけに、もっと性質が悪いともいえる。
 事実、夜中にこっそり忍び込み、想う相手がトイレにいたのを幸い、ちゃっかりベッドで寝ていた輩もいたくらいで、こうなると園としても放置できない。
「人間は色気がなくなったら終わりだからね」
 栗子の報告に兜山院長は笑っていたけれど、現実に被害が発生していたら、笑い事ではないのは当然だ。
 それ以来、夜ともなると町内会の幹部はそれとなく男性入居者の動きに目を光らすことになっている。具体的にいえば、やたらと通路やベランダに出る人物は要注意ということだ。
「だけど、本当をいうとね。ストーカーになるのが男とはかぎらないんだよ。侵入者が男だと大騒ぎになるけど、女なら問題にならないだけで、相手の部屋に潜り込むのも、むしろ女の方が多いくらいなんだからねぇ。ま、ストーキングといい、けんかやいじめといい、女だからといって甘く見ないこ
とだな」
 これも兜山のご託宣だったけれど、肝に銘じておくべき忠告だったといえそうだ。
 老人ホームという閉ざされた小宇宙も、覗いてみれば枯山水とはほど遠い。生身の人間と人間が欲望をぶつけ合う修羅場であるらしい。

5

 もっとも同じ三階の住人でも、女性陣となるとこれまたガラリと様相が変わって、男性とは天と地ほどの開きがある。
 どちらがいいとも一概にはいえないけれど、どうしてこんなに違うのだろう? 自身が女の部類に入る栗子も驚くばかりだ。
 あらゆる面での男女平等、男女の均等化が進んだおかげで、いまの若い世代は行動も思考も服装も男女差が小さい。けれど考えてみれば、戦前に生まれた古い世代の人間はそうではない。極端にいえば、男と女はまるで違う生きものだ。彼らはそういう世界で生まれ育ったのである。
 ひと口でいえば、彼女たちの関心は町内会の運営や園内の規律維持にはない。興味の対象はもっぱら自分たちを取り巻く人間関係にあって、そこにあるものはきわめて現実的な行動理念にほかならない。
 たとえば食事をするにも買い物ツアーに参加するにも、女性は基本的に群れることを好む。というより、ひとりで黙々と行動する者は変わり者とみなされ、周囲から浮いてしまうのである。
 栗子が思うに、それはたぶん、これまで彼女たちが――専業主婦か否かに関係なく――やれゴミ当番だ、回覧板だ、防災訓練だと、隣近所と関わってきた中で身につけた生活の知恵なのだろう。
 自分を守るには、味方となる仲間を作るに勝るものはない。とりあえずは、気の合いそうな相手を見つけて声を掛ける。そして、その仲良しユニットはやがて四、五人のグループに編成され、しだいに派閥が形成されていく。
 女性の派閥には、大きく分けてキャリアウーマン組と家庭の主婦組の二種類があるけれど、その区別はあんがいファジーで、厳密な定義はないらしい。入居者対スタッフで共通の問題が発生すれば、一致団結して事に当たることはもちろんだ。
 そして、その二つの派閥の統合体が男性陣には脅威の的、スペインの無敵艦隊にもなぞらえられる婦人部隊ということになる。
 その婦人部隊を率いる目下のリーダーは須藤京子すどうきょうこ。元オペラ歌手で、第一線を退いたのちも後進の指導に力を発揮した声楽界の重鎮だという。九十一歳になるいまも銀髪が美しいかくしゃくとした女性である。
 お弟子さんには有名な声楽家が何人もいるのだそうで、生涯独身だったため、家族に代わって昔の生徒たちが交代で訪ねて来る。夏休みやクリスマスには、一階のホールでそのお弟子さんたちによるミニコンサートが開かれ、そのときは京子本人もいまなお衰えない美声を披露する。
 さすがにベルリンやニューヨークでも活躍したという肩書はだてではない。クラシック音楽には疎い栗子も圧倒される貫禄ながら、その分プライドも高いようだ。充実した人生を誇示するかのように、いつ見ても、歳を感じさせない華やかな装いで辺りを睥睨している。
 その京子を取り囲むメンバーもかつては社会で活躍した女性たちが中心で、みな申し合わせたように意識もテンションも高い。
 中でも、東京の有名フレンチレストランに勤めていたという山吹乃利絵やまぶきのりえは、頭一つ抜けた存在だ。洗練されてはいるけれど控えめなメイクに、ショートカットの軽めの茶髪。きびきびとした立ち居振る舞いが板についている。年齢的にも七十歳になったばかりだから、ここでは若い部類に入る。
 つまりは京子の後継者候補の最右翼。京子ももう高齢だから、乃利絵が婦人部隊を牛耳る日も遠くはなさそうだ。
 ただし問題もある。それというのも、この乃利絵が同じ三階の入居者・君原継雄つぐおに気があるからで、これがどうして微笑ましいなどというレベルではない。恥じらう素振りなどあらばこそ、持ち前の積極性を発揮して猛然とアタックする。
 気の強さではホームでも一、二を争うだけに、周りの女性たちもうっかりからかうこともできない。
 この分だと、いずれひと悶着起きるのではないか。栗子はひそかに気を揉んでいるけれど、とかくこういう予感は当たるから困る。
 その君原は、現役時代はC県警捜査一課で鳴らした敏腕刑事だったといい、それも主に殺人事件を担当していたらしい。山南涼水園にやって来たのは三年前のことで、定年退職後、妻に先立たれてからもひとり暮らしを続けていたけれど、喜寿を迎えたのを機にホーム入りを決意したのだという。C
市内にあった自宅を売り払い、物心ともに身軽な境遇のようだ。
 八十歳になるいまもしゃんと背筋を伸ばし、きびきびと行動するところは元警察官ならではだが、ともすればありがちなイメージとは異なり、誰に対しても高圧的な態度を見せたことがない。
「君原さんは俳優の笠智衆りゅうちしゅうにそっくりだってね、高齢の女性たちに大人気なのよ」
 ケアマネージャーの渡部久美わたなべくみもいっていた。
 ケアマネージャーというのは、要支援や要介護の人たちのケアプランの作成を始め、ケアマネージメント全般を一手に取り扱う専門職で、介護付有料老人ホームには最低でも一名の配置義務がある。介護の世界にはなくてはならない存在だ。
 この渡部は経験豊富なベテランで、圧倒的に二十代、三十代の若者が多いスタッフの中で、年齢も立場も栗子に近い。いつも颯爽と園内を闊歩し、誰に対してもぱきぱきとものをいう裏表のない性格だ。だから気楽な世間話もする仲だけれど、映画や演劇に詳しいとは知らなかった。栗子はあまり日
本映画を見ないので、そんな昔のスターの名前を出されても分からない。
 そこでネットで調べてみると、笠智衆は一九〇四年生まれ。戦前から戦後にかけて映画やドラマで活躍した名優で、日本を代表する俳優のひとりだったことは間違いないようだ。当時は〈日本のおじいちゃん〉と呼ばれたほど、主に老人役で人気があったという。
 出演した作品の白黒写真が山のように出て来たけれど、なるほど知的で泰然自若とした風貌が君原に似ていなくもない。これなら、たとえおじいちゃん役でも大人気を博したことはうなずける。
 乃利絵もおおかたその容姿に参ったのだろうが、すさまじいのはその実行力だ。なにかと口実を設けては居室に突撃するらしく、これには複数のスタッフの目撃談がある。
 たとえば、まだ朝食も始まらない早朝、コツコツとノックする音に、君原がドアを開けて顔を見せると、
「おはようございます。目覚めのコーヒーをお持ちしました」
 コーヒーポットとミルクピッチャーを盆に載せた乃利絵が嫣然と微笑んでいるという寸法だ。
 さすがに居室内には立ち入らないものの、これが午後の時間帯となると、ちょっとした焼き菓子などが添えられ、
「お待たせいたしました」
 頼んだ覚えもないのに、さもあたりまえといった風情でベッドサイドの小テーブルまで運んで来る。ついでにぎろりと室内を見回していくことはいうまでもない。
「君原さん、またですか。モテてけっこうじゃないですか」
 三階の機能訓練室で働く指導員の荻田祐介おぎたゆうすけがからかうと、
「ちゃんとコーヒーメーカーで淹れたおいしいコーヒーを差し入れてくれましてね。ありがたいことはありがたいんですが」
 口ごもったというのもむべなるかな。ありがた迷惑とはこのことだろう。
 しかもそれだけではない。乃利絵はちょくちょく――彼女がいうところの――シャバの友達と海外旅行に参加しては、その土産だといって、ウイスキーのミニチュアボトルやチョコレートの小箱を渡すのだという。
 君原は決して大酒飲みではないけれど、ビールの次に好きなのがウイスキーの水割りで、それもチョコレートをつまみながらちびちびとやるのが好みなのだそうだ。乃利絵はどこかでその情報を摑んだに違いない。
 そこで大瓶ではなくミニチュアボトルというのは、おカネをケチったためではなく、あまり高い品だと受け取ってもらえないからだろう。出張土産の饅頭がいい例で、安価で庶民的な食品はかえって断りづらいし、心の負担も軽い。
 やはりたまたまそばに居合わせた介護スタッフの富川とみかわの話によると、一度などはフランスの高級ブランド・H社のシルクネクタイを買って来たことがあって、さすがにそのときは、
「いや、こんな高価なものはいただけません」
 断固受け取らなかったそうだ。
 もっとも、乃利絵はそんなことで怯むタマではない。
「それじゃあ、代わりにこちらをどうぞ。これは機内で配られたおつまみですから、タダなんですのよ」
 すかさずバッグからあられの小袋を出されて啞然としたらしい。
 いくら強面ではないといっても、元捜査一課の刑事相手にこの度胸。きっと現役時代も、この調子で酔客やクレーマーをあしらっていたのだろう。
 いくら想われても、君原が乃利絵の誘いに乗るわけがない。栗子たちも初めは笑って見ていたものの、それが笑い話で終わらなかったのは、この乃利絵になんと強力なライバルが出現したからである。
 その女性の名は生田晴世いくたはるよ。ここ山南市の出身だ。亡夫は会計事務所を経営していた税理士だといい、経済的には余裕があるようだ。山南涼水園に入居してまだ九ヵ月あまり。ほっそりとした身体に卵形
の顔がちょこんと乗った純和風美人で、婦人部隊の二大派閥のうち、当然のように家庭の主婦組に属している。
 根っから人懐こくて話好きなので、施設の生活にもすんなり溶け込んだけれど、忘れてはならないのは、山南涼水園の住人は女だけではないという事実である。
 専業主婦時代には、曲がりなりにも会話といえる会話を交わす男は夫だけ。それも実態は夫婦というより主従の関係に近かった女にとって、あたかも青春時代に舞い戻ったかのような異性との交流。新鮮な出会いがそこにある。
 ここには、女の意向は完全に無視、一方的にことを決めたり、えらそうに用事をいいつける男はひとりもいない。誰もが対等な立場の人間として接してくれる。
 中でも、知的で誠実で穏やかな君原継雄。その存在が晴世の満足感の大きな部分を占めていることは疑いがない。あえていえば、二度目の初恋というところだろうか。
 ほんわかと切ない娘時代の初恋とは異なり、そうなるともう歯止めが利かないのが二度目の二度目たるゆえんだ。活火山のマグマのごとく煮えたぎる恋慕の情。いまや三階の住人で彼女の恋心を知らない者はいないといっていい。
 それというのも、この晴世も積極性では決して引けをとらないからで、乃利絵のようにこれ見よがしのサービスこそしないけれど、口実を見つけては近寄って来ることに変わりはない。
 プライドの高い乃利絵とは対照的に、晴世は何かというと君原を頼って来る。ついでに土産を持参することはもちろんだ。もっともこちらはコーヒーや菓子ではなく、手作りの品物が大半を占める。食べ物なら毎日の食事とおやつで充分だ。ここは得意の手芸で勝負をしようという戦略である。
 おかげで君原の居室には、毛糸で編んだ室内履きを皮切りに、クッションに膝掛けに小物入れと手製のプレゼントが続々と持ち込まれる。口に入れたらそれっきりの食品と違い、こちらは積み上げ方式だ。乃利絵がやきもきするのも無理はない。
 受ける君原が浮かれるでもなく、かといって迷惑がるでもなく、およそ無関心ともいえる態度なだけに、かえって闘争が激化している感すらある。
「いつかどえらいことにならなきゃいいけどね」
 これは渡部の言だけれど、経験に裏打ちされたスタッフの直感は鋭いものがある。心配の種は尽きない。

6

 兜山クリニックは山南市の中心街の中ほど、M銀行山南支店の隣にある。
 診療時間はとっくに過ぎているけれど、ほとんどのスタッフがまだ残っている。兜山は栗子の姿を認めると、その顔色から状況を察したらしい。黙って院長室に招じ入れた。
「だいぶ参っているみたいだね」
 応接セットのソファにどかりと腰を下ろすと、向かいに座るよう目で指し示す。
 兜山は優秀な内科医で、そのうえやり手の経営者でもありながら、いたってざっくばらんな性格だ。上司にするには申し分ない人物といっていい。
「そのとおりなんです」
 栗子は遠慮なく院長と向かい合うと、堰を切ったように話し始めた。
 入居者の健康管理を任されていながら、柏木の心身の不調に気づけなかったこと。自分には高齢者の心理がいまいち理解できず、どうやらこの仕事は荷が重いこと。一ついい出すと、次から次へと自己嫌悪の言葉が噴き出して来る。
「自分がどれだけ独りよがりだったか、こんどばかりは嫌というほど思い知らされました。自分の能力を過信してたんですね」
 うなだれる栗子に、けれど兜山は同調する気はなさそうだ。部下の繰り言に黙って耳を傾けたあとは、なぜか笑みを含んだ顔になった。
「それで冬木くんは、自分は柏木さんの死に責任があると。そして自分や周囲の人間のやり方によっては、彼の自殺を防ぐことができたはずだと考えているわけだ」
「そうなんです」
 カクカクと首を振る栗子に、
「まぁ、きみがそう思う気持ちは分からないでもないがね。それは間違ってるな」
 あっさりと断定する。
「どこがでしょうか?」
 そこまでいわれると、ほっとする気にはなれない。かえって警戒心が芽生えた。
 けれど、兜山はみじんも怯まない。
「彼の場合は、自殺を止めてくれる人が周囲にいなかったんじゃない。むしろ本人の決意があまりにも強固だったために、周囲の人間が介入する余地がなかったと見るべきじゃないかな?」
「じゃあ、もし私が柏木さんの異変に気づいていたとしても、助けようがなかったということですか?」
「まあね」
「つまり、柏木さんは自分は末期がんだと思い詰めて自暴自棄になっていたと?」
 納得のいかない口吻の栗子に、
「そりゃ、その要素がまるでないとはいわないけどね」
 肩でも凝っているのか、ぐるりと首を回す。
「人間には理性がある。ふつうなら、たとえ医者から厳しい余命宣告を下されたとしても、すぐに死のうとは思わないはずだ」
「そうでしょうね」
「あるいは、それは理性というより、死という未知の現象に対する恐怖かもしれないな。生きたいから生きるというより、とりあえず目前の死が怖い。それが本能というものだ」
「それは分かります」
「逆にいえば、柏木さんには、その本能的な恐怖をはねのけるだけの強い動機があったんだろうね」
「その動機とはなんなのでしょうか?」
 首をかしげる栗子に、
「それは絶望だな」
 兜山の返事は迷いがない。
「父親をないがしろにする薄情な息子への絶望。というか、もはや世の中から一顧だにされない自分自身への絶望だね。あんなことをしでかす理由はそれしか考えられない」
「そう――なんですか」
「ああ、そうだ。本当に死ぬと決めると、人はむやみに騒いだりしないものだ。それどころか、傍目にはむしろ穏やかに見えるものでね。たいていは、誰にも知られずにひっそりと旅立って行く。
 そこへいくと、年寄りが口癖のように死にたい死にたいというのは、心にもない噓だとはいわないが、掛け値なしの本心でもない。はっきりいえば、それは自分はべつに長生きがしたいわけではないという、周囲へのアピールなんだよ。
 自分が死んでも、若いときと違って悲しんでくれる人はどこにもいない。それはつまり、自分を必要とする人がひとりもいないということだ。つらい現実ではあるけどね」
 仕事柄、数多くの老人の生と死を見て来た実感なのだろう。かくいう兜山自身、あと数年で古稀という年齢だ。冷徹な物言いの奥に静かな諦観が潜んでいる。
「ということは、柏木さんの死は誰が何をしようと避けようがなかったんですね」
 本当にそうなのだろうか? 院長の本心を探らんと穴のあくほど見つめる栗子に、兜山は静かな眼差しを返した。
「私もこの歳になって初めて分かったことがたくさんあるけどね。若いころと違って、歳をとると、死ぬというのは特別なことではないんだな。現に、老人ホームにいる人は誰もが親きょうだいを始め夫や妻、それに友達や知り合いの大半を亡くしている。
 それはいってみれば、自分も半分死んだということでね。八十を過ぎた人間にとっては、自分はもう間もなく死ぬのか、それともまだしばらく生きているのか、どっちに転んでも、その先の人生が黒か白かにはっきり分かれているわけじゃない。老人というのは灰色の世界に生きているんだよ」
「じゃあ、院長には長生きしたいというお気持ちはないんですか?」
「いつまでも生きていたいとは思わないが、いますぐ死にたいとも思わないね。望んでも望まなくても、かならずそのときは来るんだから」
「それはそうですけど」
 なにかごまかされているようで、どうしても歯切れは悪くなる。と、
「それより、冬木くん」
 兜山の目にいたずらっぽい光が宿った。
「もしきみが誰かの命を救いたいと思っているなら、本領を発揮するのはこれからではないのかな?」
「えっ、どういう意味ですか?」
「だって、そうでしょ?」
 ここぞとばかりに力を込める。
「柏木さんがああいう亡くなり方をしたことで、園内では動揺が広がっている。とりわけ三階の人たちは柏木さんとの交流が深かっただろうからね。精神的に不安定になる人がいてもおかしくない」
「まぁ、そうですね」
「年寄りは近しい人間の死によって、喪失感や孤独感を深めがちだ。ウェルテル効果ということもあるし、柏木さんに影響されて同じ轍を踏む入居者を出さないためにも、冬木くんの力が必要だと私は思っているよ」
「本当にそう思われますか?」
 思わず嬉しくなる。
 ウェルテル効果。それは、創作物の主人公や実在する有名人の自殺に影響され、同じ方法であとを追う模倣自殺が続出する現象である。
 その昔、ドイツの文豪ゲーテの小説『若きウェルテルの悩み』がもたらした社会的〈事件〉がその語源で、叶わぬ恋に身を焦がした青年が絶望の果てに自殺を遂げるストーリーが、〈精神的インフルエンザの病原体〉といわれるまでに人々の共感を呼んだらしい。このときは、主人公ウェルテルと同
じ服装で同じピストル自殺をする若者があとを絶たず、国によっては発禁処分になったという。
 そして、同様の現象は日本でも起きていたようだ。江戸時代、近松門左衛門が発表した人形浄瑠璃の『曾根崎心中』や『心中天網島』に触発された心中事件が多発し、ついには幕府が上演を禁止する事態にまでなったのがそれで、歴史は繰り返す。近代になっても、太宰治の入水自殺や三島由紀夫の
割腹自殺を始め、歌手や俳優のあと追い自殺が話題になることが多い。
 もし兜山のいうとおり、栗子に老人たちの模倣自殺を防ぐ力があるのなら、これは自分にとって大きな救いになる。
 やはり兜山に相談してよかった。がぜん勇気が湧いてくる。
 だけど、それはそれとして、院長は本気で山南涼水園の入居者から柏木のあとを追う者が出ると思っているのだろうか?
 院長室を辞してからも、
「もしきみが誰かの命を救いたいと思っているなら、本領を発揮するのはこれからではないのかな?」
 さっきの言葉がメリーゴーラウンドのようにぐるぐると廻っている。
 これはむしろ自分を立て直すチャンスかもしれない。
 とはいえ、さまざまな人がいる山南涼水園の入居者の中でも、三階の住人はひと筋縄ではいかない相手が多い。
 栗子はいま一度、頭の中で彼らの顔をひとりずつ思い起こした。

(つづく)


続きは、新刊『灰色の家』でお楽しみください。

■書籍情報

灰色はいいろいえ
著者:深木章子
装画:tounami
装丁:bookwall
発売:光⽂社
発売⽇:2023年4⽉19⽇(水)
※流通状況により⼀部地域では発売⽇が前後します
定価:2,145円(税込み)
版型:四六判ソフトカバー

■著者プロフィール

深木章子(みき・あきこ)
1947年東京生まれ。東京大学法学部卒。元弁護士。60歳を機に執筆活動を開始し、2010年、『鬼畜の家』で島田荘司選第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞しデビュー。『衣更月家の一族』『螺旋の底』が第13回、第14回本格ミステリ大賞の、『ミネルヴァの報復』が第69回日本推理作家協会賞の候補となる。『欺瞞の殺意』は2021年の「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベスト10」で7位にWランクインした。他の著書に、『殺意の構図』『敗者の告白』『交換殺人はいかが?』『猫には推理がよく似合う』『消人屋敷の殺人』『消えた断章』『罠』がある。


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