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古川綾子【エッセイ】新刊『最善の人生(イム・ソルア著)』に寄せて

10月19日、新刊『最善の人生』(イム・ソルア/著、古川綾子/訳)が発売されました。刊行に合わせて寄稿いただいたエッセイを紹介します。


最善という名の鎖

古川綾子

 この本を翻訳していたときにふと思い立ち、最善という言葉を辞書で引いてみたことがあった。(ある範囲内で)最もよいこと、最もすぐれていること、できるかぎりの方法・努力、ベスト、と書かれていた。では、この物語に登場する三人の少女と同じ中学生だった頃、自分はどんな人生を最善だと思っていたのだろう。受験生だった最後の一年は多少なりとも深刻な瞬間があったけれど、それ以外は大好きな本、友人、欠かさず聴いていた深夜のラジオといった、自分にとって最もよい人、最もすぐれている存在に囲まれ、ベストな毎日を過ごした記憶しかない。呑気のんきな中学生だったわたしが、もし三人の少女と同じように、大人が決めた最善という名のくさりにがんじがらめにされていたら、どんなふうに成長していただろう。

 三人の少女に突きつけられる最善の条件は明確でシンプルだ。大学進学率が約八十%という超学歴社会の韓国では、幼い頃から熾烈しれつな受験戦争がはじまる。主人公カンイの親は、娘を学区外にある進学率のよい学校に通わせるため、実際の居住地とは異なる場所を住所登録して偽装転入させる。でも地元では成績優秀で羨望せんぼうの的だった娘が、偽装転入した学校では劣等生や異邦人扱いされていること、娘の口ぐせが「出来損ないにだけはなりたくない」だということに最後まで気づかず、娘が家出をしても、悪い友だちにそそのかされたのだと嘆き、仏に祈るばかりだ。

 受験戦争を勝ち抜いて有名大学に進み、厚遇される職業にくのが最善の人生という考え方は、貧富の格差が深刻な問題となっている韓国ではサバイブと直結しているのだろう。刊行から七年がたった今も、最善を望んで最悪をたぐり寄せた三人の少女に「自分の話を読んでいるようで胸が痛かった」というレビューが多く寄せられ、映画化されれば大きな話題になった。こうした熱い支持からは、この物語を他人事ひとごととは思えない韓国社会の厳しい現実が見えてくる。

《小説宝石 2022年11月号掲載》


▽『最善の人生(イム・ソルア著)』あらすじ

家や中学校に不信感を募らせ、ソウルの路上に飛び出したカンイ、アラム、ソヨン。家出少女を待ち受けていたのは、さらなる悪夢だった―。格差、搾取など大人の加虐に晒されてきた少女たちの壮絶なる青春群像。

▽プロフィール

古川綾子 ふるかわ・あやこ
神田外語大学韓国語学科卒。延世大学教育大学院韓国語教育科修了。第10回韓国文学翻訳新人賞受賞。訳書に『そっと 静かに』(ハン・ガン)、『わたしに無害なひと』(チェ・ウニョン)など多数。


▽『小説宝石』新刊エッセイとは


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