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【連載 #05】『さようなら全てのエヴァンゲリオン ~庵野秀明の1214日~』|稲田豊史・ミステリーファンに贈るドキュメンタリー入門

文=稲田豊史

庵野秀明の奇人性と天才性

 メイキングドキュメンタリーというジャンルがある。ある映像作品の監督や制作現場に密着した実録のことだ。大方おおかたは「作品の完成」というシンプルなカタルシスが最後に用意されているため、込み入った問題提起からスタートする社会派ドキュメンタリーなどに比べれば、比較的「見やすい」部類に入ると言えるだろう。

『さようなら全てのエヴァンゲリオン ~庵野あんの秀明ひであきの1214日』は、2021年3月8日に公開されたアニメーション映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||(シン・エヴァ)』の制作過程を追ったメイキングドキュメンタリーだ。2021年4月29日にNHK BS1で放送されたものだが、元になっているのは、同年3月22日にNHK総合で放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル』である。75分の尺だった『プロフェッショナル~』に未放送シーンを追加、再編集を施して100分尺(各50分ずつの前後編)に拡大したのが、『さようなら全てのエヴァンゲリオン』だ。

『シン・エヴァ』は、四半世紀以上にわたって続いた『エヴァンゲリオン』シリーズの完結編だが、前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(’12年)からは、なんと9年も空いている。すなわち『シン・エヴァ』がいかに〝難産〟の代物であったかは、ファンにとっては百も承知。その制作過程が見られるとあって、『プロフェッショナル~』への注目度は放送前からかなり高かった。

 また、本作は『シン・エヴァ』のメイキングドキュメンタリーであると同時に、同作の総監督である庵野秀明を4年間にわたって追った人物ドキュメンタリーでもある。そのことは、『プロフェッショナル~』という番組が、毎回ひとりの仕事人を取り上げる人物ドキュメンタリーであったことからも明らかだ。

 撮影初日、庵野にカメラを向ける番組ディレクターに「こっから撮ってもしょうがない」と笑顔で言い放つ庵野。

 ディレクターから「(『シン・エヴァ』に)思い入れみたいなものは」と聞かれても、食い気味に「ない」と即答する庵野。

『シン・エヴァ』スタッフからのクリエイティブ上の確認に「分かんない」と答える庵野。

 スタッフが出してきたアクションシーンの3Dレイアウトを「いいところがひとつもなかったから、コメントのしようがないです」と全否定する庵野。

 自ら書き上げた脚本を、スタッフの反応がいまいちだったからと「ゼロから書き直す」と宣言する庵野。

 異常な偏食家で、「大人になりそこねた人」(スタジオジブリ鈴木すずき敏夫としおプロデューサー談)で、「知らないものに対する警戒心がすごく強い」(妻の安野あんのモヨコ談)庵野。

 このように、視聴者は庵野の奇人性・天才性をエンタテインメントとして大いに楽しむことができる。人物ドキュメンタリーとしては十分すぎるほどの「面白さ」をたたえた内容だ。


メイキングは「脚注」である

 ただ、本稿ではもう一方、「メイキングドキュメンタリー」側の意義を突き詰めてみたい。具体的には、メイキングによって本編の理解が深まる効能についてだ。

 そもそも『エヴァンゲリオン』というシリーズは、一貫して父(いかりゲンドウ)と子(主人公:碇シンジ)の関係性を描いた物語だった。SFロボットアニメになぜそこまで父子関係を持ち込むのか。『さようなら全てのエヴァンゲリオン』では、事故で片足を失くした自分の父に対する庵野の心情が本人によって語られ、それが作品解説のヒントになっている。

 庵野の父のことは、『エヴァンゲリオン』という作品だけを観ていては得られない情報だ。しかしその情報あってこそ、作品の本質に――情報がまったくないよりも幾分かは――接近できる。

 書物にたとえるなら、作品が本文、メイキングによって与えられる情報は脚注にあたるだろう。その心は、「本文だけでも内容は完結しているが、脚注を読み込むことによって本文の理解が格段に深まる」、あるいは「読者が本文を難解だと感じた場合に、脚注の助けによって本文をなんとか読み進められる」といったところ。『さようなら全てのエヴァンゲリオン』というドキュメンタリーは、『エヴァンゲリオン』シリーズ全体に対する脚注の役割を果たしているのだ。

 たとえついでに、もう少し飛躍しよう。脚注が本文への理解を深めるように、メイキングが作品への理解を深めるならば、こうも言えないだろうか。

 現実世界の脚注こそがドキュメンタリーである、と。

 たとえば、ある社会問題(医療事故でも、貧困家庭でも、なんでもいい)を追跡したドキュメンタリーを想像してみる。その問題自体は、数年前からたびたび新聞やニュースなどで取りざたされている。ただ、報道はあくまでスポットだ。何か具体的な事件や法改正などが派生したときに、単発ニュースとして都度報じられるだけ。問題の大きな流れや全体像は把握しにくい。ことの本質を理解するには、情報出しが散発的すぎるのだ。これは、書物で言うところの「理解しにくい本文」にあたる。

 理解を助けるべく存在するのが、その社会問題を扱ったドキュメンタリーだ。問題を整理し、構図を明確化し、論点を抽出し、目の覚める視座を設定し、視聴者の体系的・全体的な把握を助ける。本文の理解を深める脚注の役割そのものだ。

なぜ「僕を撮ってもしょうがない」のか

 実は『さようなら全てのエヴァンゲリオン』は、番組の「中」でも「脚注こそがドキュメンタリーの本分である」と自己言及している。そのナビゲーター役は被写体でもある庵野秀明自身だ。

 庵野は、密着取材が始まってしばらくたった頃に、撮影を不安視していると声をあげる。番組チーフプロデューサーの前で庵野が漏らした不満は、こんな感じだ。

「僕を撮ってもしょうがない時に、僕にカメラが向いてるのが気になる」「(僕が)いかに特殊なことをしてるのかっていうのは、僕は分かっているので、僕を撮ってもしょうがない。僕の周りにいる人が困ってるのがいいわけですよ」

 これは、ドキュメンタリーの真髄を理解する者による、見事なダメ出しだ。
 タイトルが『プロフェッショナル 仕事の流儀 庵野秀明スペシャル』である以上、ディレクターの狙いは庵野であり、庵野もそれを承知している。しかし被写体の本質をあぶり出そうとする際に、被写体の発言だけに頼っていては、何も見えてこない。庵野はそこを危惧したのだ。

 ある人間について知る最良の方法は、本人に自己紹介してもらうことではなく、彼の周囲の人間に「彼はどんな人物か」を(彼のいない場所で)語ってもらうことである。それゆえ庵野はこうも言う。

「僕が何をしてるか直接見せるよりは、周りで起こってることで僕が何をしているか見せた方が面白いと思う」

 これは映像演出の基本だ。特定の状況が「どえらい」ことを伝えるには、それそのものを撮るよりも、それを見ている人のリアクションを撮るのが正しい。割れた花瓶がいかに高価だったかを伝えるには、花瓶の割れる瞬間を高速度カメラで撮る……のではなく、砕け散った破片を前に花瓶の持ち主が肩を落としている姿を撮るべきなのだ。劇映画だろうが、ドキュメンタリーだろうが、お笑い番組のドッキリだろうが同じ。

 難解な本文(庵野自身)を深く理解したいなら、本文の文字列をどれだけ凝視しても意味はない。さっさと脚注(周囲の人間)に視線を移動すべきなのだ。

「アングル」を探す

『さようなら全てのエヴァンゲリオン』には、『シン・エヴァ』の作中で重要な舞台となる集落「第3村」の大掛かりなミニチュアセットや、プロの役者に簡易的なセット上で実際に演技をさせてモーションキャプチャーを行う現場にもカメラが向けられる。

 しかし疑問だ。すべてを「絵」で描き起こすアニメーションを作っているはずなのに、なぜわざわざ「実物」を用意する必要があるのか?

 それは、庵野がまったく新しい、新鮮なアングル(被写体に対するカメラの角度や位置)を「探す」ためだ。

『シン・エヴァ』本編の大半は、従来からある絵コンテ(脚本を元に描かれる、カットごとの画面の設計図のようなもの)を切らずに制作されたという。その代わりに、プリヴィズ(previsualization)と呼ばれる簡易的な立体CG映像を作って設計図とし、それを元にアニメーターが作画していった。

 モーションキャプチャーを行ったのはプリヴィズを作るためだ。モーションキャプチャーは、ある空間の中での人や物体の動きを立体的にデジタルで記録するので、いったん記録してしまえば、そのシーンにおけるカメラの(バーチャル上の)置き場所、つまりカメラアングルをいかようにも自由に設定し、完成映像を無限数のパターンでシミュレーションすることができる。

 当然ながら、映像作品には定番のアングルというものがある。食事シーンならこれ、会話シーンならこれ。見慣れた構図、よくある画面レイアウトというやつだ。

 しかし、庵野はそんな「普通のアングル」をなるべく採用したくないらしい。まだ見たことのない、斬新で面白いアングルを見つけたい。そのためには、建物同士の空間配置が正確な縮尺で作り込まれたミニチュアや、人間同士が実際の位置関係の中で物理的に挙動するモーションキャプチャーのデータが必要だった。いずれも、アニメを制作するにおいてはものすごく回りくどく、ものすごく金のかかる方法ではあるが、それでなければ「面白いアングル」など発見できようもないと、庵野はわかっていたのだ。

 当たり前だが、セリフと芝居(人物の挙動)が脚本によってあらかじめ決められている以上、それをどういうふうに撮影しようが、「そこで起こっていること」自体は変わらない。これをファクト(事実)と呼ぼう。

 しかし、カメラポジションをどこに置くか、すなわちそのファクトをどういう角度(アングル)で撮影するかによって、観客の抱く印象はまるで変わってくる。

 たとえば夫婦が口喧嘩しているシーン。向かい合って激しく口論するふたりを真横から切り取るアングル(激昂げっこうしているふたりの横顔がふたりとも確認できる)と、妻の背中越しにカメラを置いたアングル(妻の表情は見えず夫の表情だけが真正面から確認できる)では、シーンの印象がまったく異なるだろう。

 これはドキュメンタリーの方法論とも見事に対応する。ファクトはひとつしかない。しかし、どの撮影素材を選択するかによって、つまりどの角度(アングル)で事実を切り取るかによって、観客が抱く感情を自在にコントロールできるのがドキュメンタリー最大の特徴にして醍醐味だからだ。

 そのことは庵野もよくわかっている。番組中、「もし庵野さんが庵野秀明のドキュメンタリーを撮るんだったら、どう撮るのか」とディレクターに問われた庵野は、こう答えた。

「ドキュメンタリーって、あるようで本当はないから。結局使えるところだけ切り取るわけだし。その時点でドキュメンタリーという名のフィクション」

本編を観ないでメイキングだけを見る?

 ところで、メイキング映像と聞くと、2000年代に普及したDVDの「特典映像」をまず想起する映画ファンやアニメファンも多いだろう。何千円もするDVD(あるいは後年のブルーレイ)を購入するほどの作品ファンであればこそ、本編を味わうだけでは物足りない。作品をさらに腑分ふわけしたい、舐め尽くしたいと願う。それに応えるべく用意されたオプションであり、付録であり、いわば「上級編」のような存在がメイキングだ。

 その流れは現在でも健在だが、一方で昨今はこういう考え方もある。

「脚注を熟読することで本編の本質が理解できるなら、脚注だけ読むのもアリではないのか?」

 要は、本編を観ないでメイキングだけを見る、という楽しみ方もありうるのではないかという話だ。

 そんな馬鹿なことはありえない、と思われるだろうか。しかし実際のところ、『さようなら全てのエヴァンゲリオン』は『シン・エヴァ』本編を観ていなくても独立的に楽しめる作りになっている。

 そればかりか、この1本さえ見れば、「庵野秀明とはこんな人間」「『エヴァンゲリオン』とはこういう作品」がまあまあ理解できてしまう。『シン・エヴァ』が未見であっても、『シン・エヴァ』鑑賞者とある程度の会話ができてしまう。

 実はTVお笑いの世界に、似たような構図がある。お笑い芸人の本分は言うまでもなく「ネタ(芸)の披露」だが、それらは舞台もしくはネタ番組でしか見ることができない。しかし舞台を見に行くのはそれなりのファンに限られる、ネタ番組も年末年始を除けばかつてほどは多く放送されていない。

 そんな中、お笑い好きがよくチェックする『水曜日のダウンタウン』(TBS系)や『ゴッドタン』(テレビ東京系)という人気番組がある。これらはお笑い芸人を全面フィーチャーするバラエティ番組だが、その企画の多くは、ネタ〝以外〟で芸人の面白さを引き出す性質のものだ。

 ネタをる芸人という「本体」に対して、この2番組は彼らの面白さをネタ〝以外〟で説明する「脚注」の役割を果たしている。結果、「その芸人のネタを見たことはないが、その芸人がどう面白いかはだいたいわかっている」という視聴者の存在が珍しくなくなった。

 また、漫才コンテストである「M‐1グランプリ」本体の視聴より、「M‐1グランプリ」の裏話をあさるほうが楽しいという視聴者もいると聞く。裏話とは、決勝進出コンビの苦労話や彼らによるM‐1体験記、あるいは審査員による採点に関する議論など。言ってみれば「M‐1グランプリのメイキング」だ。本体/本文(ネタの披露)とメイキング/脚注(裏話)の主客が転倒している好例である。

 脚注を少々つまみ食いした程度で、本体の何を語れるものか――と憤慨するなかれ。脚注に本体のエッセンスが凝縮されていれば、あるいはそこに相応の考察や示唆が加えられていれば、本体を「味わった」と言えなくもない。

 それは、「ゲームはしないがYouTubeなどでゲーム実況は見る」というユーザーが一大市場を作り上げている現実や、「野球の試合観戦はしないが、スポーツニュースのハイライト映像と試合結果は好んで見る」勢がとくに非難されない状況を前にすれば、ある程度み込める話だ。ゲームそのものの魅力は実況者の巧みなプレーと軽妙な解説トークによって余すところなく伝えられるし、選びぬかれたハイライトシーンをチェックすることで試合の流れはちゃんと把握できる。

 あえて不埒ふらちな言い方をするなら、メイキングを見ることで本体のエッセンスを手っ取り早く、効率良く摂取できるということだ。これは、昨今よくない意味で流行りの「ファスト映画」(*1)あるいは「ファスト教養」(*2)の一形態なのかもしれない。もしくはYouTubeやTikTokの「切り抜き動画」(*3)の役割にも近いものがあるだろう。

『シン・エヴァ』自体が壮大な脚注

『さようなら全てのエヴァンゲリオン』には、ひときわ印象的な場面がある。総監督である庵野が書いたDパート(映画の最終パート)の脚本に関して、監督の鶴巻つるまき和哉かずやが「もうちょっと分かりやすくしないと観客が戸惑う」といった主旨の意見を述べるくだり。要は脚本がわかりにくい、という異議申し立てだ。

 それを聞いた庵野は、困惑の表情を見せながら言う。

「僕としては、もうちょっと理解されてると思ってた。それがまったく理解されていないっていうのが分かったから、困ったなと」

 後日、庵野が書き直した脚本を受け取ったスタッフのひとりが言った。「わかりやすくしてくれてると思いました」

 実際『シン・エヴァ』の古参ファン評は「今までのエヴァンゲリオンの中で一番わかりやすかった」だ。TVシリーズは非常に謎多き作品で、ほとんどの謎が解かれないまま最終回を迎えている。そのTVシリーズをリビルド(再構築)した劇場版の最初の3作でも、TV版の謎は解かれるどころか、さらなる謎が積み増しされた。

 しかし満を持して登場した4作目にして完結編の『シン・エヴァ』では、謎が100%解き明かされたとは言えないものの、終盤では登場人物ひとりひとりが自分の気持ちを言葉ではっきりと説明していた。「こんなに説明的なエヴァは初めてだ」と驚いたファンも少なくない。筆者もそのひとりだ。

 その意味で『シン・エヴァ』本編は、それ自体が、四半世紀にわたる『エヴァンゲリオン』シリーズの壮大な脚注である、と言えるのかもしれない。

 ちなみに庵野は『さようなら全てのエヴァンゲリオン』の中で、ドキュメンタリー取材を承諾した理由をディレクターにこう語っている。

「面白いですよっていうのをある程度出さないと、うまくいかないんだろうなっていう時代かなって。謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」

 自作についての親切な「脚注」を、ドキュメンタリーという形でNHKに作らせた、というわけだ。

一番大事な部分には脚注をつけない

 本稿冒頭で、本作は『シン・エヴァ』のメイキングドキュメンタリーであると同時に、庵野秀明という人物のドキュメンタリーでもあると書いた。前者は紛れもなくその通りだ。脚注としての要件は満たされている。

 しかし後者はどうか。確かに庵野の奇人ぶりと天才性は画面に現れていた。庵野の生い立ちは語られた。周囲の人間による庵野評も十分に集まっていた。番組の「面白さ」は十分だ。だが、芯を食うギリギリのところで、何かが阻止されている印象を拭えない。

 庵野が肝心なことをふたつ、語っていないからだ。

 ひとつめ。「自分の外にあるもので表現をしたい」と語る庵野は、その理由を「肥大化したエゴに対するアンチテーゼかもしれない。アニメーションってエゴの塊だから」と説明する。ここでディレクターは「何でそう思われたんですか?」と質問するが、庵野は笑顔で「内緒」と答える。ディレクターは「それが一番重要かと思ったんですけど」と食い下がるが、庵野はやはり「重要だから内緒なの」と言って答えようとしない。

 ふたつめ。庵野はこんなことを言う。「僕がやりたいことをやりたいわけじゃない。こうしたらこの作品が面白くなると思うから、僕はこうしたいっていうだけで」

 自分がどうしたいかをわがままに実現しようとするのがクリエイターの本分だと思っていた視聴者は、ここで混乱する。

 庵野は続ける。「僕が中心にいるわけじゃなくて、中心にいるのは作品なので。作品にとってどっちがいいかですよね」。そう、一見して「わがまま」「自分勝手」に見えていた番組内での庵野の奇人的ふるまいは、実は「わがまま」でも「自分勝手」でもなかった。信じがたく高い達成目標が設定された、観客に対するサービス精神の表れだったのだ。

 庵野は最後まで、「本当に自分がやりたいこと」を一切口にしない。そう簡単に自分を出さない。でも、むしろそれは誠実な態度だ。小説の一番いいシーンの一番いいセリフのかたわらに「※」がついていて脚注に飛ばされ、「このときの主人公の気持ちは……」などと説明されたら、興めもはなはだだしい。

 一番大事なところには脚注をつけない。つけるべきではない。きっとそれは真実なのだ。しかしそうなると、現実の脚注たるドキュメンタリーとは一体なんなのだろうか。幾重もの示唆が押し寄せてやまない。

*1 数分から十数分程度のダイジェスト動画で映画1本を結末まで解説するもの。権利者の許諾を得ていないので違法。

*2
「何かに深く没入するよりは大雑把に『全体』を知ればよい。そうやって手広い知識を持ってビジネスシーンをうまく渡り歩く人こそ、現代における教養のあるビジネスパーソンである。着実に勢力を広げつつあるそんな考え方を、筆者は『ファスト教養』という言葉で定義する」
(レジー「ファスト教養は何をもたらすのか」――「中央公論」2022年4月号)

*3 YouTuberによるトークやTV番組といった動画の一部を第三者が「切り抜き」して再編集を施し、YouTubeやTikTokなどにアップロードしたもの。切り抜き元となる投稿者や権利元の許可を取る必要があるが、無許可のものも多い。

《ジャーロ NO.84 2022 SEPTEMBBER 掲載》

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