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【小説】竹本健治|話を戻そう 第4回

ジャーロ7月号(No.83)より、竹本健治さんの連載をご紹介します。
(連載第1回は『ジャーロ1月号(No.80)』に掲載しています)
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城下に流れる「夜歩く恵比須えびす」の噂。
そんな中、岩次郎いわじろうは人斬り事件の謎解きをすることに。

イラストレーション 立原圭子




嘉瀬川人斬り事件


 前話では江藤えとう新平しんぺいが帰藩した一年後、無断で久留米くるめ藩領に潜入し、尊攘そんじょう派藩士らと勝手な約束を取りつけて騒動を起こしたとがから、牢に繋がれることになった文久ぶんきゅう三(1863)年六月にまで時を進めたが、ここで少し話を戻そう。

 生麦なまむぎ事件に端を発しての攘夷じょうい決行の行方が不透明な状況のもと、鍋島なべしま直正なおまさみかどめしに応じ、文久二(1862)年十一月半ばに佐賀を出て京都に向かったことは既に書いた。京都に着いたのがその月の二十四日。小御所こごしょにおいて帝への謁見が叶ったのが翌十二月二日である。しかしこのときは顔合わせということで、帝から盃を授かる天盃てんぱいという儀式だけで終わり、退出となった。

 三日には関白の近衛このえ忠熙ただひろと面会し、開戦の無謀を伝えると同時に、長崎警護を返上して、既に会津あいづ藩が受け持たされていた守護職を引き受け、京都と大坂の警護に集中したいと申し出た。その際、佐賀藩なら足軽三十人と兵士二十人で充分に御所を守りきれると断言した。結果としてこの申し出はお流れになってしまうのだが。

 忠熙はもともと公武合体派なので充分に意は伝わったが、このことによって、攘夷決行を押し通したい朝廷内の尊皇攘夷派が佐賀藩への警戒を強めたため、帝との再謁見には半月以上も待たされることになった。そして十九日の謁見で江戸行きを命じられた――という順序である。

 そしてこの間、佐賀では大きな出来事が起こっていた。以前から病に伏せがちだった武雄たけお邑主ゆうしゅの鍋島茂義しげよしがついに十一月二十七日に亡くなったのだ。その訃報が直正に届いたのは忠熙との面会ののち。十四歳上の頼もしい兄貴分であり、蘭癖らんぺきにおいては懸命に追いつこうとした大目標であり、兵力の近代化への道筋を示してくれた藩の恩人である茂義の死に、直正は身をよじって悲しんだ。

 そのいっぽうで、慰めとなる想いもあった。独力で推し進めていた兵力の近代化を本藩にバトンタッチしたのちの茂義は、それまで以上にもっと幅広く蘭学をたのしむ境地に進んでいたようで、そのことを直正はひどく羨ましく思っていた。早々に隠居を決めこんだ茂義にならい、自分も息子の直大なおひろに藩主の地位を譲ったが、未だ実権者である立場から、そんな時期が来るのはまだまだ先のことのようだ。その意味で茂義の晩年は極めて幸福なものであっただろう。

 ――そういえば岩次郎の奴、茂義どのにたいそう可愛がられていたし、頻繁に武雄に出入りして、それらの幅広い蘭学にじかに触れさせてもらっていたというから、あいつもさぞ嘆き悲しんでおることじゃろうな。

 宿舎である東山の真如堂しんにょどうの一室で、ぼんやりそんな想いにふけっていると、

「岩次郎のことをお考えですか」

 そばに控えていた古川ふるかわ松根まつねがふと見透かしたように声をかけた。

「分かるか」

 いささか驚いてき返すと、

「岩次郎のことが話題にのぼったとき、閑叟かんそうさまのお顔にはいつも同じ表情がお浮かびですので、恐らく今度もそうではないかと」

「そうか。それは気づかなかったな。ちなみにどんな顔をしておった」

貢姫みつひめさまのお話が出たときによく似ておいでです」

 直正は眼を見張り、ぴしゃりと自分の額を叩いて、

「これは参った」

 浮かべた苦笑に、松根もつられて頬を緩ませた。

 貢姫は直正の長女で、三人の娘のなかでもとりわけ可愛がっていた。江戸藩邸住まいの彼女と佐賀にいることが多い直正のあいだには頻繁に手紙のやりとりがあり、そのうち直正からの嘉永かえい六(1853)年から慶応けいおう二(1866)年までの十三年間の手紙が百九十一通、鍋島報效会ほうこうかい徴古館ちょうこかん)に残されている。内容は愛情に充ちたもので、娘だけでなく臣下や藩民全体への思いやりと心遣いにあふれた直正の人柄がうかがえる恰好かっこうの史料である。

 さて、その岩次郎だが、茂義が亡くなった翌月のその頃、奇妙な事件と関わりを持つことになった。そしてその前提として、少々佐賀の特色について語らせて戴こう。

 今の佐賀市内――特に旧城下を歩いてみると、街角の至るところに石造りの恵比須えびす像が立っているのに気づかされる。実際、佐賀市は日本一恵比須像の多いところとして認定されており、その数、何と八百三十体以上。そして現在もその数をふやしている。

 夷、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須、恵美寿などと表記され、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称される《えびす》は、現在《七福神》のメンバーとして親しまれているが、ほかの神様がヒンドゥー教・道教・仏教から由来するなかで、唯一日本の神様である。(と言うと、七福神のうちの大黒様は大国主おおくにぬしかみだから、これも日本の神様ではないかという異論が出るかも知れないが、これは「大国」が「ダイコク」と読めることから、のちにヒンドゥー教のシヴァ神の化身、マハーカーラ神を指す《大黒天》と習合していったものである。)

 文献上の《えびす》の初出は平安時代末期の辞書である『伊呂波字いろはじ類抄るいしょう』で、そのなかで、神道における八百万の神がみが、仏教における様ざまな仏の化身として日本に現われたものとする本地ほんじ垂迹すいじゃくからして、《えびす》が《毘沙門天びしゃもんてん》の権現ごんげんとされていることから、古くは荒々しい神として信仰されていたことが窺われる。

 そもそも《えびす》は漁民のあいだで発生した信仰と考えられており、また「夷」や「戎」などと表記されることから窺われる通り、外来神や漂着神としての性格も強く帯びている。現在も豊漁をもたらす漁業神として広く各地に伝えられているし、クジラやジンベイザメを「えびす」と呼ぶ地域も多い。中世になると、次第に商売繁盛をもたらす商業神としての神格を強めていき、また福神としても信仰されるようになった。さらに農村では農業神としても信仰されていく。

《えびす》は記紀に出てこない神だが、記紀の神と結びつけようとする動きが起こり、いくつもの説が登場した。なかでもイザナギ、イザナミの子である蛭子ひるこ、あるいは大国主神の子である事代主ことしろぬしかみとされることが多く、また少数だが、少名すくな毘古那神びこなのかみ彦火火出見尊ひこほほでみのみこととされることもある。

 なお、ここで言っておくと、《えびす》の旧仮名表記は「えびす」であり、その点で、字音仮名遣いが「ゑ」である「恵」の字は、本来当て字として不適当なのだが、既に広く浸透してしまっているので、本作でも最も一般的に流通していると思われる「恵比須」表記を多く使用することをお断りしておこう。 


この続きは有料版「ジャーロ 7月号(No.83)」でお楽しみください


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