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カツセマサヒコ『わたしたちは、海』一話試し読み|「氷塊、溶けて流れる」

氷塊、溶けて流れる

 父の姿を見て、僕の心は静かに凍った。
 脳からつながる神経の一本一本が連鎖して、硬直していく、と考えるより先に指先まで動かなくなる。その場に立ち尽くすしかなくなり、じっと目の前の男を見ていた。
 そもそも「いらっしゃいませ」に対して「ひさしぶり」なんて返してくるやつは僕の交友関係を考えてもそんなに多くはないはずで、でも、確かに今来た客は、そう言った。
 失礼を承知で顔を見つめてみれば、紛れもなくその人は、僕の、実の父だった。何年も前に家族と縁を切り、連絡すら取っていなかった父が、土曜の一番客として、僕の店に現れた。
 横に立っている千沙登ちさとも、この状況を吞み込めずにいるみたいだった。朝からせみの声がうるさかったはずなのに、父が店に入った途端、その声も聞こえなくなった。
 怒りと困惑だけが、自分の中に渦巻いているのを感じた。
「いい店だな」
 父さんは天井まで見渡しながら言った。テイクアウト専門で、ショウケースも一つしかない小さいパン屋の内装に、褒めるべき要素はあまりない。お世辞を言っているのだとわかると、なおのこと腹が立った。その苛立ちで、凍った心を燃焼させることに成功した。
「なんで来たの」
 父さんにぶつけた第一声は、自分が思うよりずっととげのある言い草になった。
「あ、車で」
「交通手段じゃなくて。どうしてここに来たんだって」
「ああ」
 父さんは、車を停めているであろう方角を指差した手で、そのまま鼻を擦って笑った。
「フェイスブック見てたら、夫婦でパン屋を始めたって書いてあって。しかも、海の近くだって言うし。ちょっと、ドライブがてら、遊びにいってみようかなあって」
 なーにが「遊びにいってみようかなあ」だ。朝八時のオープン直後だぞ? 土曜とはいえ、一番客で現れるなんて、どう考えても気合いが入りすぎだろ。
 左手に立つ千沙登がショウケースに向けて手を広げると、「どうぞ」といつもの接客と変わらないトーンで言った。父さんは受け入れられたことを喜ぶように笑みを浮かべて、「どうも」なんて言いながら端から端まで二メートルちょっとしかないショウケースを覗き始める。
 さっさと帰らせたいのに。
 そう表情で伝えてみるが、千沙登はこちらに見向きもしない。
 まるで水族館の魚でも観察するように、父さんがパンをじっと眺めている。その父自体が魚のように見えてきて、もうなんの感情も湧かなくなりつつあった。

 両親の離婚は、何年前だったか。
 凪斗なぎとが生まれたころにはすでに別れていたから、つまり四年以上は経っている。けれど、結婚式には出てもらっているし、つまり、入籍後から凪斗が生まれるその間だから、六、七年前くらいってところか。
 この男が、他所よそに女を作り、うちの親族全員とスッパリ縁を切ってから、それだけの時間が経っている。

「まさか、パン屋をやるとは思わなかったなあ。これとか、うまそうだ」
 ケースの右手は、パンオショコラやミルクフランスなどの菓子パンが並べてある。それを見ながら、父さんが言った。
 それで不意に、幼少期に受けた理不尽を思い出した。法事か何かで、家族で出掛けた帰り際、僕が菓子パンをねだったら、父さんは「体に悪いぞ」と不機嫌になって、無理矢理惣菜パンを僕に食べさせてきたのだ。
 そんな些細な、どうでもいいし、懐かしすぎる怒りとの突然の再会に、一瞬感慨深くなる。父はそんな僕の気持ちなど露知らず、顔を上げて話しかけてくる。
「何年くらい、やってるんだ?」
 千沙登が一瞬僕の顔を見て、僕が喋らないことを確認してから「二年です」と答えた。父さんは満足そうに頷いてから「そうなんだ」と返して、またパンを見つめる。
 なんだか、妙に穏やかで、温厚そうな雰囲気を醸してくる。その胡散うさん臭さに耐えきれず、全身が鳥肌を立てた。父が相当なカタブツだったことを、体は覚えているのだ。それなのに、こんなヘラヘラとした笑みで近づいてきやがって。
 僕は千沙登に申し訳なく思いつつ、怒りを鎮めるため、一度、調理場に引っ込むことにした。まだ熱を持っているオーブンの中を覗きこみ、掃除できる場所がないか探してみたりする。接客スペースよりも幾分広い調理場をぐるりと見回しながら、どうやってあの男を追い出そうかと考える。すると、二分もたたないうちに、チリ、チリンと店の扉を開ける音がした。父さんが帰ったのかと思ったが、別の男性の声が聞こえたので、慌ててレジに戻った。
「いらっしゃいませ」
 どうもと言って軽く頭を下げたのは、ユキオさんだった。最近一人でこの街に越してきたというユキオさんは、いつもほんのりと甘い煙草の匂いがして、その匂いが、癖のある髪や無精ひげとよく似合っていた。千沙登はユキオさんの煙草の匂いを少し嫌がるけれど、さすがに喫煙者というだけで入店拒否にはできないので、どうにかやり過ごしている。
 まだ眠たそうな顔をしたユキオさんは、父さんの存在を無視するかのように、ショウケースの真ん中に向き合った。
「今日は早いですね」
 週に何度か訪れては菓子パンと惣菜パンを一つずつ買ってくれるユキオさんは、千沙登がどれだけ嫌っていても店にとっては大切なお客さんだし、映画俳優みたいに個性的な顔と独特の雰囲気を持つユキオさんが、僕はなんだか好きだった。
「今日は、釣りに行こうと思って」
「あ、釣具、買ったんですか?」
「いや、レンタルできる場所を見つけたから」
「あ、そうなんですね! それはいいなあ。今度教えてください」
 会話している間、横に突っ立っている父さんが、僕とユキオさんの顔を交互に見ていた。
 なんだその、気持ち悪い動きは。僕がお客さんと話すのがそんなに珍しいか。まあ、見せたことなんてないもんな。悪いけど、僕だってそれなりにきちんと大人になっているんだぜ。
 なんてことを考えていると、なんだか授業参観にでも来られているような気がして、でも父さんは僕の授業参観なんて一度も来てくれたことはなかったし、そもそも運動会にすら、小学三年生以降、一度も来なかったじゃないか。何を今更、そんな真似を。なんてことまで考えてしまう。
 会計を済ませたユキオさんを見送ると、また三人になって、途端に空気が悪くなった。
「ちょっと、お義父とうさんと話してきたら?」
 千沙登が店の外に手を向けながら言った。突然の妻の発言に、耳を疑う。
 僕の気持ち、わかるだろ? 話したくないんだよ、こっちは。
「お店は、いいんですか?」
「大丈夫です、昼前までは、一人で回せるので」
 どうしたらそんな笑顔を作れるのか。千沙登の商売人としての器の大きさを知る。
「いや、僕、話すことないよ」
「そんなことないでしょ、久しぶりなんだから」
「いや、でも」
 軽くゴネていたら、カウンター越しに父さんが言った。
「俺は、ちょっと話があるんだ」
「そんなの、ここで聞くし」
「いや、あのな」
 そこで、父さんはバツが悪そうに、ちら、と千沙登の顔を見た。
「何? 言いなよ。内容次第で、続きを聞くから」
「あー、いや、その、」
 左手で耳たぶを何度か触り、視線はショウケースに落としたまま、父さんは言った。
「俺、子供ができてな」
 あんた、今年で六十八歳だったよな?

 父さんは昔から偏屈というか頑固というか、まあ典型的に「古い」人間だった。
 テストで悪い点数を取ればゲンコツ、飼育していたメダカが死ねばゲンコツ、野菜を残したらゲンコツ、風呂から出るのが早すぎればゲンコツ、長すぎてもゲンコツと、ことあるごとに拳を頭にらいながら、僕は育った。
 母さんは、なぜか父さんに敬語を使って話すので、小学校高学年あたりで僕にもそれが移った。そのあたりからだろうか、妙な緊張感が自宅に漂うようになる。敬語を使う家族はテレビドラマでもたまに見かけたけれど、そうした家族は大体みんな大きなお屋敷に住んでいて、高そうな絨毯じゅうたんが家にいくつも敷いてあるイメージがあった。一方、うちは二階建ての狭い建売住宅だったし、僕の部屋はほぼ屋根裏みたいな空間だったうえに、絨毯はリサイクルショップで買ったホットカーペット以外、一枚も敷かれていなかった。
 父さんは平日夜遅くまで働いて、土日は家から一歩も出なかった。外食も旅行も大嫌いで、誕生日にファミレスに行きたいと言ったら「くだらん願いを持つな」とゲンコツを食らったこともある。父さんはそのくらい出不精で、子を喜ばせる気持ちが欠落した人間だった。
 遊園地に連れていってもらったことが一度もなく、クラスメイトが「ディズニーランドに行った」という報告をするたび、僕は「まあ俺も行ったことあるけどね」と不要なウソをつき続けた。よくもまあひねくれずに育ったな、と過去を振り返って今の自分を思うけれど、当時から父親の影響だけは受けないように生きようと思っていたおかげな気がする。恐怖する点はあれど、尊敬できる点はない。父はそういう人だった。
 あらゆる変化を拒み続けて天然記念物みたくなっていた父さんだったが、そんな父に革命的な変化が訪れたのは、僕が高校に入学して間もない春のことだった。勤めていた会社から、タイへの転勤命令が出たのだ。
 海外に支社があるなんて知りもしなかった両親は、それはもう、かなり慌てた。けれど、あの性格の父さんが海外駐在なんて受け入れるはずがないと、僕も母もどこかでたかを括っていたのだ。だからこそ、父がこの辞令をすんなり受け入れたとき、母さんも僕も、椅子から立ち上がれなくなるほど驚いた。
 この人が、本当に海外で暮らせるのか? 家事もせず、ファミレスに出かけることすら嫌がる男が? そもそも家族と離れてやっていけるのか? 仕事ってのは、そんなに楽しいものなのか?
 僕は高校生ながらに会社で働く人間をイメージしようとしたが、やはり全く見当がつかず、意気揚々と海外への準備を始めた父の背中を、黙って見つめるほかなかった。

「大学生なんて、暇だろう。今のうちに、こっちに来なさい」
 疎遠になりかけた父から短いメールが届いたのは、それから五年が経った頃だった。大学三年になった僕は、就活で使えるような話題欲しさにこの誘いに乗り、夏休みを使って父さんの待つバンコクに三週間ほど短期留学をすることにした。
「英語の語学留学でタイなんて行かねえだろ」と周りからは何度もツッコまれ、結局就活で話せることは何一つできなかったけれど、あの一カ月弱のタイでの時間は、父の変化を感じ取るには十分すぎるほど濃厚だった。
 バンコクで父さんが暮らしていた家は、日本の家よりずいぶん大きかった。部屋の数があまりに多い上に、一つ一つの部屋がうちよりも二回りほど大きく、小ぶりな庭まで付いていた。
「前まで違う家だったんだけど、空いていて誰も住まないからって、俺だけここに引っ越したんだよ。まあ、使ってない部屋が多くて寂しいんだけどな」
 まるで金持ちのような発言をした父は、日本にいた頃よりも健康的に日焼けしていて、気のせいなどでは誤魔化せないほど筋肉質な体つきになっていた。髪型も、以前は角刈りだったはずなのに、いつの間にかオールバックになっており、声までなんだか張りがあるように思えた。
 想像してみてほしい。父親が、単身赴任先でデビューをキメてしまったその光景を。
 僕ははっきり言って戸惑いしかなかった。日本にいた頃は重々しい空気をまとい、表情を崩さずにいる寡黙な父親だったのに、バンコクで待ち受けていた父は、完全なる陽キャだったのだ。衝撃を受けた僕は母さんにひっそりとメールを送ったが、母さんも、父さんのデビューについては何も知らないみたいだった。
 とびきりの健康体となった父さんは、僕にサーフィンの楽しさを語り、人と話すことの重要性を説いた。正直言って、気持ちが悪かった。僕だって大学に入ってすぐにデビューを飾っていたはずで、当時は髪色もかなり明るかったけれど、そんな髪色の変化なんて全部誤差の範囲で済まされるほど、父さんは明らかに変貌していた。あまりの変わりっぷりに、僕の中で身代わり説を考えたほどだった。
「なんか雰囲気、変わったよね?」
「そうか? まあ、ちょっと日焼けしたかな」
 ベンチプレスから戻ってきたマッチョな父は、照れ臭そうに言った。照れたところなんて一度も見たことがなかったのに、どこでそんな人間らしい仕草まで習得したのか。
「お前、変わらない方がおかしいだろ。人は変わっていくのが自然だろ」
「でも、ちょっと変わり過ぎっていうか」
「そんなことないだろ。ほら、これも食べなさい」
 よく日焼けした手が差し出してきたのは、大きなドラゴンフルーツだった。実家では見たことのないものばかり食べている父は、やっぱり別人に思えた。以前なら口答えすればすぐに拳が飛んできたはずなのに、バンコクにいる間、父は一度も僕を殴らなかった。
 もしかすると、父は父で、日本にいたときにはさまざまな重圧にのしかかられていたのかもしれない。それで厳格な父親を演じるために、家族の前では一日中ムスッとした顔で過ごしていたとか、そういう可能性はないだろうか?
 一瞬考えてみたけれど、なんだかそれこそ全部ダサいし、あのゲンコツが全て「厳格な父親」のコスプレの一環だっただなんて言われても、今更受け入れようがなかった。
 とにかく、バンコクに渡って五年にして、まるで細胞どころか脳までまるっと洗い替えされたような父に、僕は戸惑い、激しく動揺したのだった。
 そして更なる衝撃を与えたのが、僕と千沙登が結婚して、二年が経った頃である。
「いろいろ迷惑をかけるが、母さんを頼むわ」
 普段は電話ばかりかけてきて、テキストコミュニケーションを極端に嫌う父が、突然短いメールを送ってきた。とっくに日本に帰国してはいたが、テンションだけはバンコク・モードのままでいた父に、何があったのか。不安に駆られた僕は、すぐに母さんに連絡をしてみた。すると母さんは、電話越しに、枯れ切った声で言った。
「離婚することになったの」
「はあ?」
「お父さん、ほかに好きな人ができたんだって」
「本気? だって、いくつよ? そんな、高校生じゃないんだから」
「ね。変な人になったと思ったけど、やっぱり変だった。でも、薄々感じてたんだけどね。人って、あんなに変われるのね」
 つまり母さんも、バンコク・モードの父さんのことを変だと思ってたわけだ。
 悲しすぎる結末だけれど、こうして、父さんの外見や言動の変化の理由は、海外の陽気な気候のせいなんかじゃなく、向こうで出会った女によるものだったという、笑い話にもならないくらいしょうもないオチが発覚してしまったのだった。
 母さんは、はじめのうちこそ離婚の申し出を断っていたけれど、バンコク・モードの原因が他の女であることがわかると、どうにも父のことが気持ち悪く思えてきたらしく、しまいには猛烈な嫌悪感をあらわにしながら離婚届に判を押した。しばらくは情緒不安定な時期が続き、僕にもそれなりにひどい言葉を投げつけてきたこともあったが、一年もせずに新たな彼氏を作ると、徐々に気持ちも落ち着いていった。父も母も、いい歳してしっかり恋愛できるような豊かな感受性を持っていたことに、子としてはかなりフクザツな感情を覚えることになったのだった。

「おい、あれ、富士山じゃないか!? あんなに綺麗に見えるのか!」
 そんなに大きな声じゃなくても聞こえるよ、と苛立ちながら、腹の底から声を出す父さんを無視して歩いた。海岸はベタベタと肌に張り付くような空気に満ちていて、夏もいよいよ本番といった様子で、太陽の光が鋭く降り注いでいた。こんな日に限って、海は外国のそれのように綺麗なエメラルドグリーンに染められていて、チグハグな景色が僕の中の緊張感をいでいってしまう。それすら、父の作戦のように思えて嫌だった。
「いいなあ、富士山と海が日常的に見られるなんて、最高じゃないか」
 父さんはしみじみと感動している様子で言う。だが、それも大して気持ちがこめられていないことを僕は知っている。
 あんた、一体、何しに来たんだよ。
 千沙登に半ば追い出されるようにして二人で店を出たものの、話があるなら店の前でして帰ればいいのに、「海に案内してくれ」だなんて。お前は大学生かよ。店を出る際にメロンパンを一つだけ買っていったところにも、なんだか社交辞令のようないやしさが感じられて嫌だった。つまりもう行動の全てがしゃくだった。
 五年ぶりの再会になるが、相変わらず父の肌は色が濃く、ラガーシャツから飛び出た二の腕はもうすぐ七十とは思えないほど屈強な筋肉で守られている。実家にあった家族写真のそれとはやはり別人のように思えて、あんなに粗暴で高圧的だった父を今になっていとしく思っている自分に呆れる。
 筋骨隆々のおっさんの腕の先に、透明なビニール袋に入ったメロンパンが揺れている。偏見だとはわかっていながら、さすがにその筋肉にメロンパンはないだろとツッコミを入れたくなる。
「コーヒーでも飲むか」
 自販機の前に立った父さんが言う。少しでも金をむしり取りたくて、うんと答えた。
「母さんには、会ってるか」
「いや、全然」
 ブラックのアイスコーヒーを手渡された。本当はその横のカフェラテを飲みたかったことに気付いた。
「全然ってお前。母さん寂しいだろ、それは」
 誰が寂しくさせたんだよ。
 そう言いかけて、コーヒーを勢いよく流し込む。あんたが自分で、家族を捨てたんじゃないか。
「さっきの、ホント?」
「何が?」
「子供、できたって」
 ああ、と言いながら、父さんが薄くなった髪を上から押さえた。
「俺も、びっくりしたんだけどな。まあ、そんな噓はつかんだろ」
 マジかよ。噓であってほしかったんだよ。
「それ、なんでわざわざ言いに来たわけ?」
「いや、お前に妹ができたってわけだからな、一応」
「はあ?」
 ちょっとそれは、空気を読めなすぎるだろ。
 大袈裟にため息をついてみせたが、海風が邪魔をする。父さんの耳には聞こえなかったかもしれなくて、なんだかそれが悔しい。
 いや、マジで、どういうこと? 三十三年も一人っ子でいて、今更、妹?
 理解したくても無理がある。父親の言動に、何一つ納得できないでいる。
「いつ生まれたの、その子」
「今、四歳」
「え!」
「何?」
「同い年じゃん、うちの子と」
 凪斗の顔が浮かんだ。僕の子と、父さんの子が、同い年? 自分の父親が、再婚して生まれた子だぞ? つまり自分の妹ってわけで? それが、自分の子と同い年? なんだそれ。
「ああ、フェイスブックで見たけど、やっぱり同い年なのか。え、今、保育園か?」
 父さんは驚くどころか、嬉しそうに声を弾ませた。
「ああ、うん、保育園行ってる。え、本当に四歳なの? じゃあ離婚して、すぐに生まれたってこと?」
「まあ、そのくらいだな」
 なんで照れ臭そうなんだよ。この異常すぎる事態をなんだと思ってんだ。
「え、母さんは、このこと知ってんの?」
「いや、言えずにいてな」
「だろうね。それでいいよ。言わなくていい。てか、絶対に言わないで」
 七十近い元夫が、まさかのデキ婚かそれに近いタイミングで再婚してただなんて。マグマと化した母さんの怒りに、さらに燃料をべることになってしまう。
「母さん、離婚した後とか、本当に大変だったんだよ。知らないでしょ」
 壊れてしまったかのように、ひたすら涙を流したり、時に叫んだり、家の壁を殴ったり。母さんがそんな状態から落ち着くまで、半年近くかかった。まだ凪斗も生まれていなかったし、僕も千沙登も店を始める前だったからどうにかなったけれど、その半年の間、母さんのそばからできるだけ離れないようにしていたのは正解だったと、今では思う。あのときの母さんはやっぱり、普通じゃなかった。
 今は新たな恋人との惚気のろけ話を聞かせてくるほど落ち着いたけど(そしてそんな惚気話を聞かされるのもまた一人息子としてはかなり複雑な気持ちになるけれど)、それでもきっと、母の怒りは活火山のごとく煮えたぎったままだろうし、家族を捨てた父さんを憎んでいるに違いない。
 そんな状態の母さんに、今の父さんが言えることなんて、ほとんどないだろ。
「子供の写真、見る?」
「いや、いい」
 だから、なんでそんな楽観的なんだよ!
 怒鳴りそうになるのをグッと堪える。そんな自分の理性に驚く。もはやこんな父親、ぶん殴ったって許されるだろ。今日まで何発のゲンコツを浴びてきたと思ってる。
「子供は、男の子だったっけ」
「そうだね」
 フェイスブックに写真をあげるのはもうやめようと思った。
「うちは女の子だ。なぎさっていうんだけどな。名前は、なんていうの?」
「言わない」
「え?」
「今さら、新しく家族持って子供も作った父さんに、僕の子の名前なんて、知られたくない」
 柵の向こうに広がる浜辺と海を見ながら、来た道を戻り始める。越してきて三年が経つけれど、今日見た海が一番綺麗で、納得がいかなかった。
 父から受けたゲンコツを思い出す。
 本当に怖かったし、嫌だったのに、今の父さんの方が何倍も気持ち悪いし、近づきたくない。
 足元を見れば浜辺の砂が風に乗って、歩道を白く汚していた。大きな橋の下には川が流れていて、海と合流する河口の上をさぎがゆっくりと歩いている。頭の中で、父親が一番傷つく言葉を探している。そんな状況にも嫌気がさす。
「まあ、別に、子供ができたことを伝えに来たんじゃなくて、お前が店を始めたって知ったから、それを見たかったのが本当の目的ではあるから」
「じゃあそれ、わざわざ言わなくてよかったじゃん」
「何を?」
「妹ができたとか。知らんし。ってなるよ、こっちは」
 勝手にやっててくれよ。そっちの人生に僕を巻き込むんじゃないよ。昨今流行りのメタバースじゃないんだよ。絶縁した家族に飄々ひょうひょうとアプローチを仕掛けてくるなよ。
「そうか」と父さんの声がようやく小さくなって、しばらく黙るかと思えばすぐに「子育てって、おもしろいな」と開き直った顔で言われた。
 パパ友みたいなこと、捨てた息子に言うんじゃねえよ。

「パパは、こっちね」
 凪斗が二つあるプラスチックコップのうち、大きな方を僕に渡した。もう片方の小さなコップにせっせと砂を詰め始めると、前髪の毛先に大きなしずくが溜まっていく。その汗が落ちて真剣な眼差しを通り過ぎたとき、頭の中でこんがらがっていた何かが、ゆっくりとほどけていった気がした。
 家から五分もしないところに、大きな木に囲まれた公園がある。ブランコとシーソー、二種類の滑り台と円形の砂場もあって、どれも木陰に守られていることから、今日みたいに夕暮れ近くに三十度を下回らないような夏場でも、幾分過ごしやすかった。
「凪斗が大きいコップじゃなくていいの?」
 夢中になっている息子に話しかける。作業をしていた手が止まって、大きな瞳がこちらに向いた。
「いいよ。パパ、でっかいから」
「パパ、でっかいから、大きいのでいいのか」
「うん」
 ニコリ、と口角を上げると、凪斗はそのまま嬉しそうに、砂詰めを再開した。水色のコップは、大人が持つには小さすぎる。申し訳程度の取っ手がついていて、それを指先でつまんだまま、凪斗が砂を入れ終わるのを待った。
「はい、できました」
「これは、何?」
「おさけです」
「お酒なんだ」
 思わず笑ってしまう。いつも飲んでいるから、一番好きなものだと思ってくれているんだろう。
「じゃあ凪斗のは、何が入ってるの?」
「かるぴす」
「カルピスか、いいね」
「かんぱいをしましょう」
「はい、乾杯」
 砂でいっぱいになったコップを軽くぶつける。僕らを取り囲んでいる木々から、蟬の大合唱が聞こえる。公園には凪斗と僕しかおらず、時計を見れば十八時を回っていた。
「凪斗、そろそろママが心配する時間かも」
「えー、まだいい」
「まだいいの?」
「うん」
 帰ると言われた途端、下唇が前に突き出て、その様子も見慣れたはずなのに、やはりいとおしい。
「まだ遊びたい?」
「うん」
「あとどのくらい?」
「あとろくじゅうじかん」
「それはずいぶん長いなあ」
 僕が笑うと、自分でも面白いことを言ったと思ったのか、凪斗はふふふ、とこちらに歯を見せて笑った。
「帰ろ。ママ、きっとお腹空かせてるから」
 公園の水道でコップを洗い流すと、スコップや遊び道具をネットに入れて電動自転車の前カゴに放り込んだ。後ろの座席に凪斗を乗せてヘルメットを被せると、シートベルトは自分で付けると言う。
「そらがきれいだね」
 ベルトを付けながら凪斗が言って、僕も夕暮れ時の空を見上げた。桃のように淡く、薄いピンク色が視界いっぱいに広がる。公園の中では木に隠されていて気付かなかったけれど、見事に綺麗な空だった。
「おしゃしんとって、ママにおくったら?」
「あ、いいね。そうしよう」
 ポケットからスマートフォンを取り出す。ピンク色の空にカメラを向けてみるが、これがまあ、どうしたって目の前の景色の壮大さには負けてしまう。
 写真の才能ないね、と、千沙登に笑われながら言われたことを思い出した。
 とれた? と後ろから声がする。うん、大丈夫。スマートフォンをしまうと、サドルを跨いだ。
「じゃあ、帰ってご飯にしよう。出発」
「しゅっぱつ、がんばってー」
 ペダルを漕ぐと発電して、波に乗ったように加速する。日中よりは僅かに気温も下がり、幾分過ごしやすくなった。風を切って家へと向かう間、凪斗は後ろでディズニー映画の劇中歌を繰り返し口ずさんでいた。

「寝るまで一瞬だったわ」
 寝かしつけを終えてリビングに戻ると、千沙登はダイニングテーブルでPC作業を続けていた。一週間の売上額やコストを入力し、翌週の仕入れなどにその結果を反映させる。パン屋を開業してから二年間、日曜の夜には欠かさずに千沙登が続けていることだった。
「疲れてたんだねえ、よく遊んでたもんね」
 時計を見ると、二十時二十分を指している。こんな早くに子育てから解放されているなんて、いつ以来だろうか? 解放感を手放したくなくて、すぐに冷蔵庫からビールを取り出す。千沙登の隣に腰掛けて、売上額のグラフを横から覗きながら、缶のタブを開けた。
「あ、ずるい。私も飲もうかな」
「うん、乾杯しよ」
 凪斗が公園で見せてくれた「かんぱい」を思い出した。こちらから教えようと思ったことはなかなか覚えないけれど、親が日常的にやっていることはどんどん真似して、吸収していく。子供の純粋な成長欲に驚かされるし、背中を見て育つという言葉の意味を痛いほど実感する。
 僕と同じ缶ビールを持った千沙登が、隣に腰掛けながら言った。
「では、今週もお疲れ様でした」
「はい、来週も頑張りましょう」
 日曜定休にしよう、と提案したのは千沙登だった。まだ子供も小さいし、土日どちらかは休みにしておいた方がいろいろと動きやすいだろうという判断だった。その結果、落としてしまった売上も多いかもしれないけれど、むしろこの姿勢が近所には親しみを生んだようで、結果的に今のところはうまく機能して、売上額も好調を維持している。
 お店を始めて丸二年。初めて住む街で夫婦でパン屋を営むなんて、結婚した当初は想像もしていなかった。当時は凪斗もまだ二歳と小さかったのに、よく開業の決断をしたものだし、開店まで僕をリードしていった千沙登は本当に強い。僕は前職のレストランを辞めることすらなかなか上司に言い出せずにいたし、今日までほとんど千沙登に従って行動してきただけだった。近くにもパン屋はいくつかあるし、全く流行らない可能性も多分にあった。ほとんどノリと憧れだけで開業したこの店が、今でも順調に続いているのは、間違いなく千沙登の経営手腕によるものだ。
 今も、貴重な定休日の夜に、早い時間から二人でお酒を飲めている。こんな幸せなことってないし、なんだか子供が生まれる前の、いや、さらに遡って結婚する前に戻ったような気すらして、気分がよかった。
 千沙登はしばらくビールを片手に作業を続けたが、ある程度キリがよくなったところでパソコンを閉じて、背もたれに体を委ねた。
「昨日の、お義父さん、面白かったね」
「いや、あれはないよ」
 千沙登に言われて、父さんの姿がフラッシュバックする。本当に、何しに来たんだ、あの人は。
「きっと、みなとに会いたかったんだよ」
「凪斗じゃなく、僕に? 向こうから捨てておいて?」
「捨ててから後悔したことってない? 服とか本とかCDとか」
「服や本やCDは、家族とは違うよ」
「それはそうだけど」
 ふふ、と笑う千沙登の横で、父さんとの昨日のやりとりを思い出す。凪斗と同い年の女の子がいると言っていた。それも、「渚」って言ってたな。ほとんど、名前まで一緒じゃんか。凪斗の名前は僕がつけたものだから、もしも父さんのネーミングセンスが自分と似ていたら、ものすごく落ち込む。頼むから、新しい母親がつけた名前であってほしいと思った。
「お義父さんって、何歳なんだっけ?」
「今年で六十八。四歳の父親が、六十八歳ってなあ」
「その子が成人する頃には、八十過ぎかあ。再婚相手の人は、若いのかな」
「年齢聞かなかったな。でも、どうだろうね。別にどうでもいいけど、父さんが僕らと同世代と再婚していたら、さすがに引くな」
 僕より年下とか、僕と同じくらいの年齢の異性と恋愛関係にある父親を想像してみると、それだけで激しく落ち込むことができそうだ。こりゃあ危険だぞ、とすぐに妄想をとりやめる。
「そういえば、凪斗のことで相談したいことあったんだけど」
 千沙登がパソコンを再び立ち上げたかと思うと、何かを入力して、画面をこちらに見せた。ディスプレイに表示されていたのは、「小学校受験」の文字だった。
「何?」
「凪斗さ、受験させた方がいいんじゃないかって思うの」
「え?」
 いつの間にか、千沙登のふたつの瞳が、僕をじっと見ていた。
「マジで? 俗にいう、お受験ってこと?」
「うん」
 すぐに沈黙が訪れて、それはつまり、千沙登は僕の回答を待っているのだとわかる。でも、急に言われたところで、こちらには何の意思もなかった。つまり、小学校受験なんかしなくていい、と思っていたのだろう。
「いやー、そこまでしなくてもいいと思うんだけど。なんで?」
 千沙登は特にがっかりした様子も見せずに、下唇を舐めた。
「んー、友人関係が、ちょっと心配かなーって」
「どういうこと?」
 別に、どこの学校に行ったって友達ができるやつはできるし、できないやつはできないと思う。そもそも友人が少ないことを悲観的に思う風潮も変だし、孤立さえしなければいいんじゃないの?
「私たち、少なくともある程度の年齢に達するまでは、この街で暮らすでしょ?」
「まあね。パン屋まで始めちゃったし」
 自分で言っておいて、少し滑稽に思える。もう二年も経つのに、いまだに夫婦でパン屋を営んでいることに慣れない。
「凪斗には、地元の友達もできてほしいんだけどさ、結構、土地に根付いた空気って拭えなかったりするじゃん」
「そうなの? 全然わからんけども」
「都会でお育ちですもんねえ。ここの近所の人たち、高校卒業したら迷わず地元で働く、パートも全然あり、みたいな人も割といるんだよ」
「そうなんだ。でも、周りは周りだし、凪斗は大学に行かせればいいだけの話じゃないの?」
「いやー田舎の同調圧力、すごいからね。周りの空気に、凪斗が引っ張られるのが怖くて」
 田舎っていってもそこそこの観光地だし、もう少し、風通しがいいもんじゃないのか。
 地方出身の千沙登の言葉には、その背景を感じさせるような重さが見える。つまり、自分たちでこの街に住むと決めておきながら、千沙登はこの環境から凪斗を遠ざけたいってことか。
「私はもう少し、広い世界を凪斗には見せてあげたいの。自分の両親がパン屋だから、自分もその道をいく、なんて発想、取り除いてあげたくて」
「そのために、小学校受験すんの? 別に中学受験でも高校受験でも良くない? てゆうか、そもそも、未来では大学卒じゃなくても自由に仕事選べるかもだし」
「んん、先のことはわかんないけど、中学受験って、今すごい過酷なの知ってる? ものすごいお金もかかるらしいし、中学受験のストレスで心の病になったり、自殺しちゃう子もいるって」
「そんなに?」
「それよりは小学校受験の方が明らかにストレスは少ないだろうし、凪斗は歳のわりに落ち着いている子だから、可能性もあるんじゃないかなって」
「落ち着いてる子って。千沙登さ、この前の迷子事件、もう忘れてる?」
 ある夜、車で外食に出掛けて、駐車場で目を離した隙に、凪斗がいなくなっていた。必死に捜したけれど見つからず、絶望しかけたところで警察から連絡があった。あの夜の出来事は、今思い返しても心配で涙が溢れてくるし、もう二度とうちの子を迷子にさせないし、悲しませたくないと思わせてくれている。
「あれはだって、私たちが悪い。凪斗はなーんにも悪くない」
 千沙登がはっきりと言って、続ける。
「まあ、受験っていうとお金もかかるからね? そこが、相談っていうか。今のうちの売り上げだと、なんとかはなるけど少し厳しいって状況にもなりそうで。たとえばだけど、もしも小学校受験をするなら、私と港のどちらかが副業的に別の仕事をするとか、別の会社に雇ってもらうとか、パートをするとか、何かしらの方法で収入アップさせておくと安心かも」
 別の仕事。
 店をメインで回しているのが千沙登である以上、外で働くのは、きっと僕だ。
 子供のために、今よりも稼ぐ。そのために、忙しく働く。
 二人で店を始めると決めたとき、確かに嬉しかったはずで。この街に根付いて暮らしていくことが、きっと楽しいと思ったはずで。なのに千沙登は、凪斗には違う道を歩ませようとして、夫婦が別々に働くことを提案している。
「受験がうまくいったら、推薦でそのまま大学に行けるかもしれない。あの子に無駄な苦労はさせずに済むと思うから」
「無駄な苦労って、それこそ大学受験とか?」
「うん、まあ」
「別にそれは、無駄ってことはないと思うけど」
「まあ、そうなんだけど」
「いや、中学も高校も大学も、受験って大変だろうけど、そのときに頑張るってのも大事じゃない? 失敗させたくないのもわかるけど、そんな極端に、余裕のない考え方までしなくてもさ、どうにかなるんじゃない?」
「極端、かなあ?」
 パン屋を始める、と決めたときと同じように、千沙登の意志は固い気がする。
「このあたりさ、暴走族っていうか、バイクの音とかもすごいじゃん。海沿いだなーっていえば確かにそうなんだけど。凪斗が将来、そっちに引っ張られないようにしたいの。だから、ね? 生活は少し変わるかもしれないけれど、あの子の未来がそれでやさしいものになるなら、間違った決断とは思えないんだよね」
 子供の未来のために、お前はもっと身をにして働け。大人になれ。そう言われている気がする。それは、二人でパン屋を始めた当初とは、なんだか違う未来な気がしていて、どうなのだろうか。
「凪斗の生きる未来も、そんなに学歴が大事な世界なのかな」
「それは、わかんないけど。でも、私はどちらかといえば、学歴とかじゃなくて、あくまでも友人関係の話ね。環境を心配してるだけ。都心の競争ばかりの空気も嫌なんだけど、ここに長く住むのなら、外の空気が入ってくるような場所に、あの子を置いてあげたいの」
「うん、それは、わかるんだけど」
 千沙登は「まだ少し先の話だし、ちょっと考えてみて」と言って、飲み終えたお酒を片付け始めた。

 後ろの席から、凪斗の歌声が微かに聞こえる。前まで気に入っていたディズニーの劇中歌とは違う曲で、僕はそれを聴いたことがなかった。
 徐々に青が濃くなっていく景色を遠目に見ながら、ペダルを漕ぐ。小さな鳥の群れが絵でも描くように目の前の空を横切っていく。前方を見れば僕らと同じように、保育園帰りのママチャリたちが重たそうに先を走っている。
「凪斗、ちょっと寄り道してさ、今日は海の方から帰ろうか」
 向かい風に乗せるように声をかけると、え、いくー、とすぐに返事があって、後部のシートがガタガタ揺れた。
「今日、ママがお店の仕事で忙しいみたいだからさ、先に二人でご飯でいいって」
「はあい」
「で、たまには、外で食べない?」
「え、たべたーい! おこさまのやつ!」
「おこさまのやつね、はいはい」
 さらに後部座席がガタガタと揺れる。いつもの道を途中で右折して、家に向かう方向とは反対に進む。十分も走れば、すぐに海沿いだ。
「このまえね、ほいくえんでね、ねんどつくった」
 凪斗が不意に、ゆっくりと記憶を辿るように言った。いきなりなんのこっちゃ、と思うけれど、子供の脳みそは突然過去を思い出したりすることがあるようで、今日のお昼ご飯を聞いても覚えていないのに、先週の記憶がふとよみがえって突然それを話してくれたりする。それがなんだか微笑ましくて、何気ないエピソードを必死に話す様子をじっと観察してしまう。
「おおー、粘土、何作ったの?」
「えー、ぱん」
「おおー! パン、いいね!」
 ――自分の両親がパン屋だから、自分もその道をいく、なんて発想、取り除いてあげたくて。
 千沙登が言っていた台詞せりふが、頭の中で再生される。こうやって粘土でパンを作っただけでその未来を案じてしまうのって、なんだか呪いにでもかかった気分だ。
 いいじゃん、親の仕事が楽しそうだって思ったから、パンを作ってくれたわけでしょ。もしくは、僕らを喜ばせたくてじゃん。それだけのことだ。
「おいしそうにできた?」
「うん、こんど、あげる」
「え、パパにくれんの?」
「あ、パパと、ママ」
「二個あんの?」
「ううん。はんぶんこ」
「半分こか、オッケー了解」
「なかよくたべるんだよー?」
 どこで習ったんだ、と尋ねたくなるようなことを口にされて、思わず笑ってしまう。
 海沿いの国道に出ると、片側が渋滞を起こしていて、道を赤く照らしていた。

「おなかすいたあ」
 海岸に面した国道沿いのファミレスに着くと、凪斗がソファの上を小さく跳ねながら奥まで移動する。U字型のソファは本来六人以上のための席だろうけれど、たまたま空いていたらしく、予約もしていないのに自然と通してもらえた。子供用のメニューがあったのでそれを滑らせると、凪斗が背筋を伸ばして、慌ただしく視線を動かす。
「なに食べたい? カレーもあるって。ラーメンも」
 指を差して伝えてみるけれど、返事はなく、大きな瞳がさらに大きくなる。口が半開きになっていて、メニューを見る目の真剣さが伝わる。
「おこさまのやつは?」
「あ、これ、全部おもちゃついてくるって」
「あ、そうなんだ」
 ソファの上でビョコッと一回跳ねた。
「どれにする?」
「らーめん」
「オッケー。飲み物は? りんごジュースでいい?」
「かるぴすは?」
「ないみたい、ごめん」
「じゃあ、りんごでいい」
 機嫌を損ねないでくれてよかった。店員の呼び出しボタンを押すと、凪斗の希望したものとサイコロステーキを頼んだ。若い店員さんがすぐにおもちゃが詰まったカゴを持ってきてくれて、凪斗の前に置いた。
「一つ選んでいいってさ」と僕が言うより早く、おもちゃをあさり始める。気になったものがあるとカゴから取り出して、よくよく見てはまた戻す。その行動を熱心に繰り返している。おもちゃをつかむ小さな手は見るからに柔らかく、自分の手を見てみれば連日のパン作りのせいか、ひどく荒れている。
 父と子で、ファミレスに行く。
 それが幼少期の自分には、かなえてもらえなかったことなんだと、今頃になって気付いた。こんな些細な日常が叶わなかった幼少期。凪斗の頭を撫でると、当時から溶けることのなかった氷が、ようやくじわじわと熱を持って心から流れていく感覚があった。
 僕は、親に、何をしてもらいたかったんだっけ。そして、何をされたくなかったんだっけ。
 凪斗がおもちゃを選び終えて、僕に見せてくる。聴診器を模したプラスチック製の玩具が、透明な袋から取り出されていた。
「おー、お医者さんになるの?」
「はい、パパにわるいところがないか、みてみます」
「それは助かるなあ。最近いろいろ心配なんですけど」
「いたくないから、だいじょうぶです」
 凪斗は両耳に聴診器を入れて、反対側の端を僕の胸に当てた。
「何か聞こえる?」
「はい、これは、げんきにいきてますね」
「あ、元気に生きてますか。それはよかった」
「いちおう、おくすりをだしておきますね」
「あ、どうも、ありがとうございます」
「さんまんえんです」
「三万円もするの?」
 へへへ、と勝ち誇ったように笑われた。
 そうだよ、こういう時間。僕はこういう時間に、死ぬほど憧れてたはずじゃんか。
 凪斗のラーメンが運ばれてくると、それを小皿に移して、食べる姿を見守る。ついこの間まで自分じゃ何もできなかったのに、きちんとフォークを使って口まで運んでいく。一瞬で過ぎ去る時間のせいで、つい見落としがちになる子供の成長が、なぜだかクリアに視界に飛び込んでくる。
 食事を終えると千沙登に帰る旨を伝えて、レジへと向かった。
 レジ前の待ちスペースにはお菓子やおもちゃが並べられた棚が置いてあって、凪斗は店のたくらみにハマるように釘付くぎづけにされている。
 会計を済ませて声をかけようとしたところで、凪斗の隣に、突進しそうな勢いで駆けてきた女の子の姿があった。
「渚」
 母親と思われる人が、名前を呼びながら女の子を追ってくる。
 渚?
 不意に女の子の背丈を確認し、体の内側で、何かが再び凍るような感覚が生まれる。
 母親と思われる人は、体に張り付くようなベージュのワンピースに、ナイキのスニーカーを合わせていて、僕よりも十は年上そうだけれど、どことなく生命力に溢れていて、若々しく見えた。
「ほら、もうご飯来るから」
 女の子の肩に手を置いて、母親がテーブルに戻るように促す。
 その二人の姿から、目が離せなくなっている。
 女の子は、まさに凪斗と同い年くらいのように見える。
 もしかして、もしかすると。
「渚、ラーメン来たよ」
 横からのそのそと現れたのは、やはり先日会ったばかりの父だった。

「前に来たときに、すごくいい場所だなあと思って、渚も連れてきたいと思ってさ。平日の方が道も空いてると思って、幼稚園を休ませて遊びに来たんだけれども。海が楽しかったみたいで、すっかり遅くなっちまったもんで、夕飯を食べて帰ろうと寄ったら、いや、まさか、偶然な」
 父さんは新しい奥さんと渚ちゃんを先にテーブルに帰すと、一人ベラベラと喋り始めた。大袈裟な手振りがやけに鼻について、言い訳がましい台詞に余計に腹が立つ。かつての無表情で寡黙な父は、本当にどこにもいなくなってしまった。
「名前、なんて言うんだい?」
 父が両膝に手をついて前屈みになると、凪斗は知らないおっさんを警戒したようで、僕の後ろに隠れてデニムをぎゅっと握った。
「凪斗だよ」
 本人の代わりに渋々名前を伝えると、露骨に表情を明るくする。
「へえ、なぎとくんか! 渚と、名前が似」
「似てないよ。字が違うから」
 出鼻を挫いてやったが、それでも父さんは全く動じず、凪斗の顔を舐めるように見続けている。
「いや、かわいいな。千沙登ちゃんに似た顔だ」
「怖がってるから。見ないであげて」
 おもちゃの棚の上からフロアを見渡すと、渚ちゃんがすぐ近くのテーブルにいた。凪斗と同じように、お子様セットのおもちゃのカゴを真剣に漁っている。先ほどの女性が、その様子を不思議そうに見ている。
「家族、楽しそうじゃん」
「え、ああ、うん」
 父は途端にバツの悪そうな表情になった。
「昔はファミレスなんて絶対に行かなかったのにね」
 その一言だけ放り投げて、店の出口に向かった。
 凪斗は僕の手を強く握っていて、つまり僕の嫌悪や警戒が、この子にも伝わってしまったのだと思った。出口の扉を思い切り開けると、生暖かい空気がまとわりつく。凪斗の手を引いて階段を下りていくと、上から父さんの声がした。
「悪かったと思ってる!」
 凪斗が立ち止まって、父さんの方を向いていた。僕はその凪斗の瞳から、目が離せなかった。
「お前を育てていたときは、俺は仕事ばっかりで、家事も育児も、全部母さんにやらせっぱなしで、そのことを、申し訳ないと思ってる。どこにも連れて行ってやらなかった。渚をどこかに連れ出すたびに、そのことを思い出してる。俺は、罪滅ぼしで、あの子をいろんなところに連れてってやってるのかもしれない。前に、お前の店に行ったとき、そのことを謝りたかったけど、うまく言い出せなかった。すまなかった」
 腹から声を出して謝る父を、凪斗は不思議そうに見ていた。僕は、今になってそんなことを言われたところで何も変わりやしないし、一方的に謝罪して、赦された気になりたいだけのこの人は、つくづくエゴが強いなと目の前の父を軽蔑するばかりだった。多少温厚で陽気な性格になったとて、人は簡単に変わりきれないし、根本的に自己中心的であることに変わりない。
「凪斗、帰ろ」
 軽く息子の手を引っ張ると、今度はその手を優しく握り返して「かえろ、かえろ」と言ってくれた。
 それから、僕も凪斗も後ろを振り向くことはなかった。

「まあ、親って、いつだって勝手なもんだよ」
 千沙登がホットコーヒーを口に近づけながら言った。お風呂上がりの髪はまだ僅かに濡れていて、その前髪から、砂場で遊ぶ凪斗の濡れた髪を思い出した。
「もちろん、子は子で勝手なもんだけどさ」
 自分で言って、納得する。そうだ。こっちだって三十を過ぎたくせに、いまだに親に難癖つけてるだなんて、随分とガキみたいなことをしている。親は親、子は子。それぞれ役割をこなしているだけであって、結局はただの人間なのだから、完璧なわけじゃない。
「でも、今日のそれは、怒っていいよ。怒らなきゃダメだったよ」
「そうかな」
「うん。お義父さんも、きっと怒ってもらいたかったんだと思う」
「あ。じゃあ、怒らなきゃよかったなあ」
 ふふふ、と千沙登が静かに笑う。二人だけのこの時間の笑いの種のひとつになったなら、まだマシか、とも思える。
「僕さ、子供ん頃、ファミレスに連れてってもらえなかったじゃん」
「うんうん、よくその話してるよね」
「そう。それで今日も、凪斗がお子様セットを頼んでさ、好きなおもちゃ選んでるときに、ああ今、自分がやってもらいたかったことを実現してんだなあって思って」
「うんうん、わかる」
「でしょ? 子供の頃は叶えてもらえなかったけど、大人になって、それを子供にしてあげられたときにね、自分の中で、何か救われた感じがあるんだよ。未来の自分が、過去の自分を救いにきたみたいにさ」
 僕は、ファミレスで凪斗の頭を撫でたときの感覚を思い出していた。あのときの、心が溶けるような気持ち。子を持つことを不安に思っていた時期もあるけれど、なんだかあの瞬間、僕の人生は報われた気がしたのだった。
「結局、私たちはそういうエゴで、子供を育ててるのかもしれないね」
 コーヒーカップを両手で包みながら、千沙登は言った。
「凪斗のためと思って行動していても、実はどこかで『過去の自分が憧れたこと』を優先して子に押し付けている可能性があるわけじゃん。その憧れは凪斗の憧れではないかもしれないし、凪斗の成長においてそもそも不必要なものなのかもしれない。答え合わせはできないけど、きっと全ての親はさ、純度百パーセントで目の前の子供をおもうことなんかできなくて、どこかに過去の自分を、投影しちゃってるんだろうね」
 もしくは、一人目の子育ての後悔を、二人目、三人目のときに罪滅ぼしのように拭う、か。
 父さんは、一体どんな気持ちで日々を生きているのだろうか。渚ちゃんのお世話をしているとき、頭の中に僕のことが浮かんだりしているのだろうか。
 ――子育てって、おもしろいな。
 そんな台詞、どの口が言ってんだと、本気で思っていた。でも、きっと父さんは本当に、渚ちゃんの育児をおもしろがっているんだろう。
 過去の自分がしてやれなかったことを今になって実行する父と、過去の自分がしてもらえなかったことを今になって叶えていく僕。
 二人とも、エゴで子育てをしている点において、そこまで大きな違いはないのかもしれない。
 コーヒーマシンの電源を入れると、ガビガビと大きな音を立てる。準備が整うまでお皿でも洗おうとしたところで、千沙登が言った。
「凪斗の小学校受験の話だけどさ、やっぱり、一旦白紙にしてくれる?」
「え、どうして?」
 キッチンに立った僕の隣に来ると、千沙登は空になったコーヒーカップを静かにシンクに置いた。
「もしかしたら、それも私の過去がもたらしてるエゴだったかもなあって」
「そんなことないでしょ」
「ううん。私、小学校が嫌で嫌でしょうがなくて。この同級生たちがこれからもずっと付き纏うんだって思ったら、耐えられなかったんだよね」
 スポンジを泡立てながら、千沙登の地元の空気を思い出す。山に囲まれた街は、確かに閉塞感を覚える瞬間があったかもしれない。
「何が正解かはわからないけど、凪斗は凪斗で、今があんなに機嫌よくやさしい子に育ってるなら、そのままで楽しくいられるように、まずはこの街でできることからやってみようかなって思ったの」
 千沙登のコーヒーカップをスポンジで擦る。泡がカップを包んで、洗剤の匂いがツンと鼻に染みた。千沙登は別のマグカップを取り出して、僕のぶんのコーヒーを淹れようとしてくれている。
 子供のため、と思っても、必ずどこかに自分のかたよった考えが混じる。どの選択肢が正しいかもわからないけれど、ただ凪斗が楽しく生きられる道を探して、試行錯誤していくしかない。暗中模索の旅だけれど、きっと僕らもそうした道の先で、今に至っているわけだ。
 淹れたてのコーヒーの匂いが広がる。
「子育てって、おもしろいね」と、千沙登が言った。
 僕はゆっくり頷きながら、今度父さんに会ったら、もう少し、当時のことや今の育児の話を聞いてみようと思った。

〈おわり〉


カツセマサヒコ
1986年、東京生まれ。2020年『明け方の若者たち』で小説家デビュー。同作は大ヒットし映画化もされた。翌年、ロックバンド indigo la End とコラボした小説『夜行秘密』を刊行。2024年6月に3作目となる長編小説『ブルーマリッジ』を刊行。


『わたしたちは、海』 定価1,870円(税込み)

〈あらすじ〉

クラスの女子たちが、タイムカプセルを埋めたらしい。6年3組のぼくは、親友のシンイチとヨモヤとともに、遠くの煙突の麓にある公園まで自転車で行ってみることにした――「海の街の十二歳」

小学校教諭の岬と保育士の珊瑚。幼なじみの二人は休日に近くの海へドライブへ行った。渋滞にはまった帰り道、二人は光るスニーカーをはいた4歳くらいの子供が一人で歩いているのを見つけ――「岬と珊瑚」

高校の同級生・潮田の久しぶりのSNSを見ると、癌で闘病中とあり見舞いに訪れた波多野。数ヶ月後、潮田は亡くなり、奥さんのカナさんから、散骨につきあってほしいと言われ――「鯨骨」

海の街にたゆたう人々の生の営みを、鮮やかに描き出した傑作小説集。書き下ろし1編を含む全7編。

収録作:「徒波」「海の街の十二歳」「岬と珊瑚」「氷塊、溶けて流れる」「オーシャンズ」「渦」「鯨骨」


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